山川方夫の深淵(連載47) 清水正

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山川方夫の深淵(連載47

清水正

 

 

『最初の秋』&『海岸公園』を読む

敗戦後の空漠さ――天皇一神教の神――

 

 太宰治は『トカトントン』で敗戦後の虚無を〈トカトントン〉の擬音語で表現した。天皇を〈現人神〉として祭り上げ、大東亜戦争に突入した日本は〈アジア解放〉を旗印に西欧列強と戦い、そして破れた。戦線で戦った兵士はもとより、戦争肯定の時代風潮を全身に浴びて育った少年たちにとっても、敗戦が与えた空虚感はただならぬものがあったであろう。どの時代にあっても価値変換をスムースに受け入れられる節操のない者たちがいる。この変換を受け入れられない者は古い時代の価値観とともに埋没していくほかない。戦争期に少年時代を過ごした〈私〉は、いわば古い価値観と新しい価値観の狭間に打ち捨てられた存在と言ってもいい。極端な価値変換を迫られる者より、より複雑な価値体系のただ中に放り出された者たちであり、こういった者たちは〈価値〉自体に深い懐疑の眼差しを向けることになる。

 一神教の信徒たちは〈神〉に懐疑的眼差しを向けた時点で背教者とならざるをえないが、戦争時の日本人が信じたのは〈天皇〉という〈現人神〉である。この〈現人神〉は日本国家の最高統治者であり、戦争の最高責任者であるが、敗戦後ただちに〈人間宣言〉をして戦争責任を免れている。天皇はいわば戦後の最初にして最大の〈なんちゃっておじさん〉を演じたことになる。驚くべきは戦争に参加し、戦争を肯定していた大半の日本人が、この〈なんちゃっておじさん〉を受け入れたことである。日本人の節操のなさ、いい加減さは半端ではない。

 一神教の神学や論理学を尊重する者たちにとって、この日本人の〈節操のなさ〉は大いなる謎であろう。かつて『NOと言えない日本人』を上梓した政治家がいるが、より正確に言えば、〈NOともYESとも言えない〉のが日本人なのであり、しかもこの日本人は時代に同調した時には、熱狂して〈YES〉とも〈NO〉とも断言する者たちなのである。日本人は〈YES〉と〈NO〉の間の広大深遠で曖昧な心的領域を無自覚のうちに生きる民族なのである。この曖昧な、底なし沼に一歩足を踏み込んだ宣教師たちの苦難は遠藤周作の『沈黙』や芥川竜之介の『神々の微笑』を読めば納得できるだろう。日本人の〈曖昧さ〉は、一神教的神学によっても、西欧的合理主義によっても断罪することのできない深淵なのである。

〈青酸加里〉が敗戦時の自決用として与えられていたのに、山川一家の者はだれもそれを使用しなかった。ここに日本人の備えている途方もないしたたかさを見て取ることができる。〈私〉の無意識もまたこの〈したたかさ〉をしぜんに受け入れている。国家存亡を賭けた〈戦争〉の悲劇、深刻よりも、その滑稽さがまざまざと浮き彫りにされる。〈私〉は敗戦後四、五年経った時点で、その証拠を目の当たりにする。〈青酸加里〉の〈汚染〉は、大東亜戦争の深刻と悲劇の滑稽、その茶番劇を端的に顕している。〈私〉は紙包みの〈汚染〉を注視しながら、腹を抱えて笑いこけてもよかったのだ。ドストエフスキーの人物ならそうしただろう。しかし〈私〉は劇的な悲喜劇の主人公にはならない。〈私〉にとっては〈その思いつき〉は突飛な思いつきではなく、あくまでも日常の磁場に据え置かれた者の〈思いつき〉であったように、その〈思いつき〉が〈汚染〉でなし崩しにされれば、再び日常へと舞い戻ればすむことなのである。なにしろ、〈私〉の〈思いつき〉を知っている者、その現場を知っている者は〈私〉以外にはいないのだ。〈私〉は再び、なにくわぬ顔をして空虚な日常を生きればいいのである。

  

  一時間ほど、私は正面の窓ごしの秋の闇に、水平線を示して横にならんでいる小さい赤い漁火の、その明滅を眺めつづけていた。そして、その無意味な二枚の紙を、ゆっくりと時間をかけもと通りの三角形に折ると、文箱の中にもどした。そのときは、「死」はすっかり色褪せてしまっていた。私はキッカケを逃したのだ。私には、もう、まったく死ぬ気などなくなっていたのだった。(『最初の秋』409頁)

 

 〈その思いつき〉は〈汚染〉で幕を下ろした。これはまさに〈なにか、口笛を吹きたいような快適なテンポにのった時間〉にふさわしい結末である。〈私〉に突然おとずれた〈その思いつき〉は、〈汚染〉を残しただけの〈青酸加里〉と同じくたちまち色あせてしまう。敗戦後の五年間は、みごとに〈青酸加里〉の効果そのものを無化してしまった。〈私〉は改めて敗戦後の空漠さを確認したまでと言えよう。もはや〈自殺〉など滑稽な幻想にもならない。〈私〉はそれをよく知っていたからこそ、〈その思いつき〉に浸る自分の孤独な時間を〈口笛を吹きたいような快適なテンポにのった時間〉と記したのである。