どうでもいいのだ──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載54)

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どうでもいいのだ
──赤塚不二夫から立川談志まで──(連載54)


清水正


談志のイルージョン


 ドストエフスキーはストラーホフ宛の手紙(一八六九年二月二十六日)で次のように書いている(引用は新潮社版「ドストエフスキー全集」22。1980年2月。江川卓訳に拠る)。


  私は現実というものについて(現実における)独特の見方をしていて、多くの人がほとんどファンタスチックで例外的と呼んでいるものが、私にとってはどうかすると現実的なもののいちばんの本質をなすことになるのです。その現象がありふれたものであることや、それに対する公式的な見方は、私に言わせれば、まだリアリズムではなく、むしろその反対です。ーー新聞のどの号を見ても、きわめて現実的な事実、きわめて異様な事実の報道に接することができます。わが作家たちにとっては、それらがファンタスチックなのです。たとえば作家たちがそれらに関心をそそられないとしても、やはりそれらは現実なのです。なぜといって、それらは事実なのですから。だれがそれらを認め、解明し、書きとめるのでしょう?(中略)だれが事実を見てとり、その深奥をきわめるのでしょう? ツルゲーネフの中編については話す気にもなれません。あれはいったい何事ですか! はたしてファンタスチックな私の『白痴』こそが現実ではないのでしょうか、しかももっともありふれた現実では!(75〜76)


 現実を凝視すれば、その極点の果てに幻想が現れる。なんでも突き詰めれば狂気じみてくる。談志は、その〈狂気〉に突入できずに苛立っている。天空に張られた綱の上でおふざけはできても、綱から落ちてみせることはできない。換言すれば、談志は今一歩というところで狂気の深淵から拒まれている。ここに談志の滑稽な悲喜劇が生じる。
 イルージョンとは別に新規な概念ではない。ゴーゴリの『狂人日記』『鼻』にもドストエフスキーの『分身』にも、カフカの『変身』にもイルージョンはたっぷり含まれている。宮沢賢治の童話などはイルージョンの宝庫である。宮沢賢治の愛読者であった漫画家・畑中純の代表作『まんだら屋の良太』にもイルージョンが溢れている。また、つげ義春の『ねじ式』『ゲンセン館主人』、蛭子能収の一連の不条理漫画などにもイルージョンを視ることができる。
 談志が歌謡曲や映画だけでなく、ここに取り上げた文芸作品や漫画に触れていれば、もう少し突っ込んだ議論が可能になったのではなかろうかと思う。
 
 



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