猫蔵の日野日出志論(連載1)

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猫蔵の日野日出志論(連載1)
『幻色の孤島』論(第一回)
猫蔵

 日野日出志の漫画作品のなかに『幻色の孤島』というものがある。この作品に、不思議と心惹かれている自分がいる。いや、日野の作品自体、とくに初期に描かれた漫画作品は、どれをとってみても印象に残るものばかりなのだが、『幻色の孤島』はそれらのなかにあって、とりわけ異質な存在感を放っている。

 漫画家・日野日出志の、いわゆる陽の部分を受け継いだ孝行息子が『蔵六の奇病』であるとするならば、それとは相対する陰の部分、日野自身にとっても制御し得ない、鬼っ子の系譜がもっとも色濃く表れ出ているのは、『幻色の孤島』であると私は感じる。
 便宜上、陽と陰、孝行息子と鬼っ子という捉え方をしたが、これは日野日出志を研究するにあたって改めて言うまでもないことかもしれないが、前者に対し、後者が劣っている、人の心を鷲掴みにする魅力に欠けているという意味では決してない。むしろ、前者が作者・日野の嗜癖に加え、彼自身の理性の加味によって築き上げられた総合的な収穫物であるとするならば、後者は、彼の嗜癖そのもののもっと純然たる発露・現出物であるという点において、前者にはない深い旨味を隠しもっている。
 このような着眼点をもつに至った理由として、私自身にとっての初体験日野作品が、先に論じた映像作品『ギニーピッグ2 血肉の華』(オリジナルビデオ)であったことが大きく関係しているように思う。この映像作品が表現しえたものの本質は、それが、それまで私が知っていた世の中のありとあらゆる表現・芸術とみなされるものたちのいずれにも回収し得ないものであることを、当時十二歳だった私に直感せしめた。ましてや当時、私は日野日出志という漫画家の存在すら知らず、当然この作品が、彼の創作物であるという前提があったわけではなく、まさに私は思いがけない不意打ちを喰らった格好となった。
 この原体験こそが、私にとっての「日野日出志体験」の核心であり、すべての始まりと言っても過言ではない。この文脈においては、「日野日出志」という言葉は、私の内部で、誰か著名な漫画家を表す一名称ではなく、私自身が身をもって体験した事件、つまりは、得体の知れない高揚感や不安と未可分の、謎めいた呪文・暗号として、今もって深く根を下ろしている。そこにあっては、私は日野という作家の“思想”よりも、“嗜癖”がもろに表れ出た部分を追いかけてみたい心もちになる。代表作『蔵六の奇病』が、文字通り、「日野日出志」という作家を自他共に確立させる重きを担った作品であったとしたなら、そこには必然と、“思想家”としての日野日出志の意識も、やはり色濃く含まれている。
 その反面、『幻色の孤島』は、作者・日野日出志さえも知り得ない、彼の思想の掌中から零れ落ちた、思想では掬い切れなかった日野自身の嗜癖がもろに出た漫画作品のように感じられるのだ。映像作品『ギニーピッグ2 血肉の華』が、漫画家・日野日出志の掌中から零れ落ちた部分を絡めとり、“作家”日野日出志の全体像を垣間見せたように、日野の漫画作品のなかにあってもっとも異質な佇まいを感じさせる『幻色の孤島』が、映像作品『血肉の華』にもっとも通じる漫画作品であると私は感じとる。
 前章においては、日野の映像作品『血肉の華』について論じた。日野の作り出した映像作品と、日野が描いてきた漫画との間には、一見すると、埋め難い深い溝が横たわっている。しかし、これらふたつの間に往還している分断されざるDNAが、ともすると、これまで漫画家としての日野の完成度のみに盲目的に追従し、そこから外れた映像作品群を、これらの単なる副産物や一注釈、あるいはまったくの別物としてのみ、評価する傾向にあったちっぽけで硬直した日野評価に、イカズチのごとき一撃を加えるという確信が私にはある。『血肉の華』を前章において論じたことが、映像作品の側からの漫画サイドへのアプローチであったとすれば、本章で『幻色の孤島』を論ずることは、図らずも、逆に漫画の側の立場から、日野の映像作品に対する接触を試みることになるだろう。『幻色の孤島』とは、漫画という立脚点において、映像作品『血肉の華』を受容し得る、ミッシング・リングの鍵を握る作品なのである。