『浮雲』研究のために屋久島へ(連載第十二回)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本

 紀元杉を見た後、車は十一時二十分にヤクスギランド入り口に着いた。入り口前にはヤクシカが何の警戒心もなく歩いている。私が屋久島で見ることのできた猿も鹿も、人間に対してまったく警戒心を持っていなかった。特に人間に媚びるわけでも、無関心を装うこともなく、ごく自然に振る舞っていた。屋久島森林管理署の入り口で三百円を払い、ヤクスギランドに足を踏み入れて五分もすると「くぐり栂」がある。屋久島では杉だけが巨樹に成長するわけではなく、この栂も人間の伐採を免れて大きく成長し、くぐり天井を形作っていた。「くぐり栂」の下を通り抜けることが、ヤクスギランドに入るための通過儀礼となっている。
 屋久島では人間の傲慢さは通用せず、意識せずに謙虚にならざるを得ない。しかし、ウイルソン株にも象徴されるように、人間は巨大な屋久杉を斧と鋸で伐り倒して来た歴史も抱え込んでいる。株の中央部に十畳ほどの空洞があるウイルソン杉を前にして伐採を命じた者、実際に伐採した者たちがどのような感情を抱いたのか。畏怖の対象であった屋久杉伐採に纏わる政治、経済、技術、信仰に思いを巡らすと、壮大なドラマが展開し始める。一観光客の、通り過ぎる眼差しでは掴みきれない屋久島の〈闇〉、その闇に魅入られたら、ここから抜け出すことはできないという、ぞっとする怖さを感じる。
 屋久島の官舎で死んだゆき子を思い、そのように設定した林芙美子を思い、屋久島に取材して一年後に死んだ林芙美子の運命を思う。屋久島を抜きにして『浮雲』を語ることはできない。
 倒木や地表を這う幾本もの根株を隙間なく覆っている緑苔、この水分をたっぷり含んだ苔が木漏れ日に反射して幻想的な美しさを引き出している。幻想的で、アニメ的なとも形容できる森の中をさらに五分ほど歩くと林泉橋に着いた。
 案内板によると、平成五年度の重要自然維持地域保安林整備事業の一環として建設されたようだ。この橋から眺める自然の光景もすばらしかった。さらに歩くと「昔の屋久杉伐採」の看板が立っていた。そこには「昔、屋久杉は神木としてあがめられ誰一人として伐る者はいませんでした。屋久島出身の儒学者、泊如竹は、眠れる森林資源の活用をはかるため、島津藩に献策を行いました。1635年、宮ノ浦に大官が置かれ以後、屋久杉の本格的伐採が始まりました。島民は深い山に入り、何日間もかかって巨木をたおし、長さ60cm位、巾10cm位の薄版である平木(屋根をふく材料)に加工して背負っておろしたと言われています。」と記されている。
 こういう説明を読むと、改めて島民の純朴な信仰心と泊如竹の思想の違いと葛藤に想像力が駆り立てられる。泊は屋久島聖人とも称されているが、その実像はどうであったのか。
 「くぐり杉」を抜け、清涼橋(平成五年三月竣工)と名付けられた幅1m、長さ26mの吊橋を渡ってヤクスギランドの入り口に戻って来たのはちょうど十二時であった。車は十二時半過ぎにレストラン「れんが屋」の前にとまった。ここで瓶ビールと「とりめし」で昼食をとった後、一時二十分に安房港へと着いた。
 高速船トッピー2が安房港を発ったのは一時四十分。三時半過ぎには鹿児島本港南埠頭へと到着した。タクシーで林芙美子が通ったこともある市内の山下小学校を訪ねたのが午後四時、そば茶屋「吹上庵」に着いたのが午後四時二十分、ここで生ビールと天ぷらなどを食して一時間余りを過ごし、鹿児島空港行きのバスに乗車したのが午後五時五十六分、バスの窓からは噴火の煙を濛々とあげる桜島がいつまでも見送っていた。午後七時に鹿児島空港到着。JAL1878が東京羽田に向けて飛び立ったのは午後八時過ぎであった。