「畑中純の世界」展を観て(連載18)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税


ここをクリックしてください エデンの南 

畑中純の世界」展を見て
 上遠野環





わたしが畑中純さんの絵を見てまず思ったのは、まさにこれぞ漫画家の絵だな、ということでした。画家ではなく、漫画家。漫画家の絵というのはそこに個性とも言える、その人ならではのデフォルメがあるものですが、最近の漫画家は似通った絵ばかりだと感じていました。しかし、畑中純さんの絵はそうではありませんでした。
版画も、水彩画も、チープな言葉ですが、素晴らしい感性だなと思ってしまいました。彼にしかできないであろう独特のデフォルメに満ち溢れていて、それが見る者の目を強く惹きつけます。そして、漫画家の絵はこうでなくちゃ!とも思いました。わたしがとくに好きだったのは「どんぐりと山猫」の絵でした。個の意思をもって生き生きと呼吸するどんぐりたちと、彼らの裁判に振り回されて苛立つ山猫。見つめあったり殴り合ったりしているわけではないのに、彼らはひとつの場で、同じ空気を吸いながら同居していました。
銀河鉄道の夜」も好きです。最初フと見たとき、なぜひとつの絵にせずにみっつに分かれているのだろうと思いました。しかし近づいてよく見てみれば、なるほど納得でした。あの絵は一枚目、二枚目と進むごとに、シーンも進んでいるのです。鉄道のながい車体を利用して、それをあえてバラバラにすることで場面転換をつくる。(もしかしたら、描くのにぴったりの紙がなかったりしたのかもしれませんが)しかしこれは素晴らしいセンスだと思いました。
わたしはここまで文字にしてみて、彼の絵がなぜ漫画家的に素晴らしいのかわかりました。彼の絵にはドラマが、「演劇的要素」があるのです。絵の中のキャラクターたちは皆そこで呼吸をして、関わり合っている。生き生きと関係性をもっている。そしてわたしたちはそれを第三者として見つめる。これはまさに「演劇」です。たとえば、うしろの方で出てきた風呂屋の大きな絵。老若男女ごちゃまぜに、人の手ぬぐいを引っ張ってみたり、話し掛けたりして関わり合っている。これはまさにコロス劇だと言えます。
コロス劇とはギリシャ悲劇に端を発する演劇の表現方法で、「コロス」という群衆に語られる演劇であり、彼らコロスたちは時に名もなき登場人物であったり、時に観客であったり、時にひとつの語り部であったりします。コロス劇の脚本を読んでいると、彼らは無個性なただの群衆、端役のように見えてしまいますが、実はそうではありません。彼らはのっぺらぼうなモブキャラではなく、「確かにそこに存在するひとりひとり」なのです。全員で同じ台詞を言っても、群衆としての出番であっても、彼らは個性を持ち、それぞれの考えを持ち、ひとりの人間、ひとりのキャラクターとして他のキャラクターと出会わなければなりません。その出会いのなかで、ドラマが生まれるのです。
あの風呂屋の絵にはそれがありました。目立った主役がいるわけではない、しかしみんながそれぞれ生きてお互いに出会っている。そんなところに強く惹かれました。
「オッペルの象」は違う意味で演劇的でした。オレンジ色の版画。真ん中に描かれた象が、ちいさな涙を流している。遠目に見たとき、わたしはまさか象が泣いているなんて思いませんでした。温かいオレンジ色を見て、わたしはてっきり象は笑っているのかと思いました。近づいてみて、はじめて象の涙に気づいて、泣いていたのか、と驚きました。わたしは「驚く」というのはいちばん劇的な感動だと考えています。意外だ、びっくりする、というのは心にとって大きな事件です。通常、それは演劇や、物語といった言葉のストーリーの中にあるものだと考えていました。絵でびっくりすることがあるなんて、思いもよらなかったのです。なんてドラマチックな絵なんだろう、と思いました。
台詞のない一枚絵であっても、ストーリーや呼吸が描かれた絵はとてもドラマチックで、飽きることなくずっと見ていられます。そして、そんな絵はずっと記憶に残ります。生きたドラマというのは、画風や何を描くかよりも大切なものでしょう。そして難しいことでしょう。絵は動きませんし、奥行きもない。音もなければ、場合によっては色がないこともあります。それでも畑中純さんの絵にドラマがあるのは、彼の絵がうまいからに他ならないでしょう。
絵の上手い下手というのは、線の描き方や色遣い、パースのとり方ももちろん大切ですが、それだけではありません。細かな表情、心理による身体性の再現率、それらをより活かすための手法や構図のチョイス。そういった技術やセンスがものを言います(絵に限らず、演劇でもほぼ同じことが言えますが)。畑中純さんの描くキャラクターは、少女漫画のように可愛らしいわけでもなく、ドラえもんやアトムのように子供ウケするものでもないでしょう。しかしとてもあたたかく人の目を惹き、印象深く頭のなかに残ります。人間くささとドラマのある一枚。そんな絵を描く畑中純さんは、彼自身がそんな人だったのかなあと思いました。わたしもそんな人に近づきたいです。

「畑中純の世界」展を観て(連載17)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税


ここをクリックしてください エデンの南 

畑中純の世界」展を見て
浜野伶保






 畑中純の作品は、作者は分からなかったが、前から知っていたと思う。宮沢賢治の本の表紙や挿絵、「ピース」の表紙、そして図書館に飾られていた「ガロ」の表紙だ。独特でどこか懐かしさを覚える絵と大胆な線が引かれた版画は、初めて見たものも、そうでないものも、温かさとおおらかさが感じられた。
 彼の描く宮沢賢治の版画は荒々しい彫り方に見えるが、初見でグッと惹きつけるような魅力がある。細かいところにまで気を張っているが切迫した雰囲気を感じず、見ている我々は懐かしいな、と頬が緩む。猫は大きな目が可愛らしいし、人の顔が簡略化していて朗らかだ。ただし例外もある。宮沢賢治とその妹トシの肖像画だ。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は「永訣の朝」でトシが言った言葉である。その丁寧に彫り込まれた肖像画を見て、ああ、この人は本当に宮沢賢治が好きなのだなぁとしんみりと思った。
 最も気に入ったのは、「猫の事務所」だ。背景が細やかの書き込まれた事務所で猫が真面目そうな顔で机に向かっている。おしゃれな椅子に座って、羽ペンで何か書いている。いっちょまえに制服を着て、眼鏡までかけている。そのむっとした表情に愛嬌を感じる。確か、「猫の事務所」は事務所内の陰湿ないじめに、突然現れた獅子が「こんな事務所なくなってしまえ」と喝を入れるような話だった。ずいぶん昔に読んだものなのであいまいなので、また読んでみようと思う。「ツェねずみ」「オツベルと象」など懐かしい作品がたくさんあって、中学生以来ちゃんと読んでいなかった宮沢賢治の作品をもう一度読みたくなった。何故今まで宮沢賢治と距離を置いていたかと言えば、単に彼の共感覚についていけなかったからである。彼の「不思議なものが当たり前に起きている世界」に抵抗感があったのだ。中学生当時は、そのおかしな世界に(意味が分からないながらも)ついてこられるほど多感な時期だったように思える。畑中純の版画はそんな宮沢賢治ワールドを的確に表しているように思える。彼自身に共感覚がなかったとしても、賢治の感覚をうまく受け止めることができているのは確かだ。やはり畑中純は芸術家である。そう思った。
 宮沢賢治の版画の奥には畑中純の絵が飾られている。畑中純の絵はまさにサブタイトル通りの「エロスとカオスとファンタジー曼陀羅宇宙」そのものだ。男子の考えた健全な下品さがいっぱいに散りばめられている。女性がお尻や乳を平然と出し、男性がそれに照れたり、おさわりをしようとしたりしている。しかし、畑中純の描く裸には露骨な性を感じない。本来は描いたらいけない部分まで見えそうなくらい大胆に足を広げた女性も子供が偶然見てしまった男女の性交も、笑い飛ばせそうな豪快さを感じられるのだ。
展覧会で絵を眺めていると、ある一枚が目に留まった。「まんだら屋の良太」の一枚絵だろうか。大きな温泉で、大勢の素っ裸の男女が面白おかしく絡んでいるのだ。このようなコミカルでエロチックな図はどこか既視感があった。何だったのかと思い出すとボスの描いた「快楽の園」だ。大きな一枚のキャンバスに裸の人々が異形の怪物と共にカオスな状態となっている。ある者は逆立ちでスケキヨよろしく下半身だけをさらけ出し、またある者は尻に枝や筆を突っ込んでいる。尻から鳥が羽ばたいている者もいる。「快楽の園」のどこか笑ってしまうようなエロスを畑中純の絵にも感じるのだ。しかし畑中純の絵はボスとは違う良い点がある。それは「お茶目さとおおらかさ」だ。あれだけ大勢の人々を描いていながら、一人一人の表情がまったく違う。そして皆が楽しそうなのだ。本来ならばセクハラだと騒がれそうなことをしている輩もいながら、それを「やだもう!」と咎めつつも許してしまうおおらかさと、女性自身も笑って裸をさらけ出せるお茶目さである。そのような絵が展覧会にはいくつかあった。これらは畑中純の良太的な豪快さがにじみ出ていると思う。確かに品のいいものではない。しかしどこか懐かしさを感じる。古き良き童貞の桃源郷のようで、私は好きだ。
 そして畑中純の描く綺麗な女性も好きだ。白目の多いツンとしたつり目に細い眉、そして小さな口。涼やかな雰囲気の中にどこかお茶目さを感じて、とても好きな顔なのだ。特に招き猫姿で良太とツーショットでいる月子さんのちょっと困った顔が愛らしい。私のお気に入りの作品の一つだ。
 畑中純の作品は、確かに抵抗がある人にはまったく受け入れられないと思う。性に関してはあっけらかんとしているし、下品なギャグも多々見られる。ちゃんと読み込まないと、彼の作品の深い考えは分からないのだが、だめな人はそこまで読み込む気力も湧かないのだから仕方ない。ただ、そういう人達はもったいないなあと思う。彼の絵からはエロスとカオスとファンタジーの他に、作者自身のエネルギーも伝わってくる。一線一線、全力で描いてきたことが分かる。小難しいことは捨てて、元気になれるような、エネルギーあふれる作品達であった。

「畑中純の世界」展を観て(連載16)

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税


ここをクリックしてください エデンの南 

畑中純の世界」展を見て
安藤把子




今回「畑中純の世界展」を日本大学芸術学部資料館にて開催されるまでは、
失礼にも漫画家・版画家畑中純氏を知らなかった。「まんだら屋の良太」の原画
宮沢賢治作品を題材にした版画を観てもピンとくるものがなく、色彩の美し
さや一見雑に彫られた感の版画を茫然とながめていた。しかし、ひと周りして、
しまいまでくるうちに更にひと回りしてみたくなり、畑中純氏を知らずに作品
を鑑賞することはとても失礼だと感じ始めた。タッチは繊細なラインではない
が原色にもかかわらず透明感があり、描いたというより作り上げたという作品
に興味が沸いた。まるで美しい布をわざわざきざみ、更に違う布を作り上げて
いくパッチワークのような世界観を味わった。同じもので全く違うものを作り
出すという感じ。画風もなんとなく下品というか垢ぬけ感はなく、今風に例え
れば「へたうま」とか「ぶすかわ」とかそんな言葉が当てはまる。それゆえに、
エロスとカオスとファンタジー曼荼羅宇宙感は直感できたのだろう。
畑中純氏が描くエロス的な九鬼谷温泉画「まんだら屋の良太」は10 年もの長
きにわたって書き継がれた人気の大長編マンガであり、映画になったりNHK
連続ドラマになったりし、畑中純氏にとっても恐らくこれを越える作品は書け
ないのではないかといわれているほどの作品らしい。下品なマンガと言われた
が偉大なる作品として残ったのは人情味溢れた虚構の中の真実の世界観がある
からだろう。この作品を読んだ人の意見に「少々下品な表現に閉口する一方で、
登場人物たちのきどらなさ、大胆さ、気風のよさ、自由さに感動した。それは
確かに、下品で猥雑でありながらも、心の洗われる話に満ちていた」、「単なる
読み捨てのエロ漫画ではないかと切り捨てる人もいるかもしれないが、1 巻目を
読むだけで直ぐに分かることは、作者が描こうとしているのは、エロチシズム
ではない。性に対して適度な距離をとり、性欲に巻き込まれる濃厚な人間関係
を辿り、人と人との絆を描こうとしている。ギャグと言えば浮き上がってしま
いそうな土俗的で艶っぽいドタバタ喜劇」などとのコメントが寄せているほど
だ。
まさに作品を観て、コメディータッチの中に人情味が溢れており温かみを感
じてくる。それは、独学で始めたという版画にも共通できる。宮沢賢治作品を
モチーフに彫っていく版画には、宮沢賢治の山形への「イーハトーブ」と畑中
純の福岡への郷土愛が繋がりなぜ、畑中純氏が宮沢賢治を崇拝していたのかが
知りたくなってくる。探していくうちに次のような宮沢賢治の言葉をみつけた。
「わたくしは、これらのちいさいものがたりの幾きれかが、おしまい、あなた
のすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりま
せん。(賢治)」と。そして、宮沢賢治の描く心象風景に心を慰められた畑中純
氏が、版画で賢治の世界を表現し、注文の多い料理店の全十作品、セロ弾きの
ゴーシュ、風の又三郎、猫の事務所、ツェねずみ、クねずみ、よだかの星、氷
河鼠の毛皮、飢餓陣営、洞熊学校を卒業した三人、月夜のけだもの、土神と狐、
蛙のゴム靴、雪渡り、やまなし、オッペルと象、詩(報告、小岩井農場、春、永
訣の朝、雨ニモマケズ)、銀河銀道の夜の31 作品・版画70 点を残しているとい
う。
その理由として「不景気は進行する一方で、将来の不安に押しつぶされそう
な現在、子供も青年も大人も皆等しく傷つき疲れています。なにか疲れを癒し
イラ立ちを沈める薬はないものか。あります。現在の流行としての、企業戦略
としての卑しい癒し共が束になっても敵わない絶対の本物、宮沢賢治の作品集
が一番の薬です。(畑中純)」と残している。畑中純氏も宮沢賢治を彫り続けな
がら自分自身を戒め世の中での疲れをいやしていたのかもしれない。宮沢賢治
のように詩集や童話など一つにとどまらずもがきながら世俗に訴えかけながら
一生を生き抜く姿勢は畑中純氏にもかさなり、煩悩のはけ口とし自分自身の考
えや欲望や行動について熟考する姿勢がうかがえる作品だと強く感じた。
雨ニモマケズ」の中で特に好きなフレーズがある。「丈夫なからだをもち慾
はなく決して怒らずいつも静かに笑っている」完璧な人間像がそこにある。な
れるものならなりたいが容易なことではない。近づくことができたとしてもた
どり着くことはできない。あの畑中純氏も版画を彫りながら追求していたのだ
ろう。煩悩というものをぬぐい捨てることができたら人はどんなに幸福で楽だ
ろうかということも。
このたび畑中純氏の作品にふれる機会を持つことができたことにとても感謝
している。無知であることは恥ずかしいというよりも不幸であるといつも思っ
ているからだ。そして、写真を学ぶ者として感じた。たった一枚の絵や写真で
も人の気をとめることは可能であり、作品を作り上げるということは自分を作
り出すことに似ているということを。__

「畑中純の世界」展を観て(連載15)

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』は電子書籍イーブックジャパンで読むことができます。ここをクリックしてください。http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

四六判並製160頁 定価1200円+税


ここをクリックしてください エデンの南 

畑中純の世界」展を見て
忠石祥平




 平成二十四年に急逝した畑中純という漫画家、その作品は現代の芸術、エンターテイメント、ひいては社会が今まさに受容(消費ではない!) する必要のあるものである。それは単純に畑中純の再評価という意味だけではなく、また一大ムーブメントになるべきというわけでもない。畑中純の作品はいわば慢性的な飽食、食傷気味の現代社会の処方箋となりうると思われる。
 畑中純の代表的な作品として『まんだら屋の良太』があり、その特徴は、温泉街というローカルにおける日常生活や情事、珍事を描いたものである。素朴で線の太い絵のタッチもあいまって、生々しいとか、土臭さのようなもので満ちている。盛り時の良太が何かと女と関係を持とうとするところや、女の裸体(しかもそれらは必ずしも美しいわけではない)が頻繁に出てきて、心中ややくざ絡みの事件なども起こるので、あまり上品ではない。それは例えるなら、植物の青臭さや、昆虫の蛇腹、爪の間に入った土、また、腕にびっしりとある毛穴、排泄物の匂い、口の中の粘膜といったものを連想させる。それらは清潔さを信仰した生活スタイル(外界と明確に仕切りをつける住居や、諸々の殺菌剤)に慣れた現代人にとっては汚らしくて、できればあまり触りたくないようなものである。つまり『まんだら屋の良太』はじめ諸々の畑中作品はそうした人間世界に本来つきものの生々しさ、汚さがたっぷりと書かれているので、喜んで手に取ろうという人は多くないと思われる(宮沢賢治を原作としたシリーズなどはそれとは逆に幻想性やノスタルジーなど漫画家畑中純の別の一面を体現していて、こちらの方が比較的好まれるのではないだろうか)。
 畑中純の作品、その作風が人々の大きな関心、感心を集めず、ともすれば顔をしかめられてしまうのは、現代社会のありようを浮き彫りにしている。即ち、排泄や代謝といった生理機能、毛のもさもさした感じ、皺、汗や唾のような汁、性器のグロテスクさ、そうしたホモサピエンスに元来備わっている生理機能や、気遣い、遠慮、空気を読むといった世の中をどうにかうまくやっていくための煩わしい対人関係の忌避である。前述の通り清潔さは善とされ、洗剤や洗顔料、芳香剤、空気清浄器といったものによって人間の生活は潔癖となりつつある。またインターネットによって相手との直接的な関わりを経ることなく物品の購入やサービスの利用などができてしまう。それらは生活が豊かになるという意味では幸であり、人間元来の生々しさと向き合う頻度が激減し免疫が下がったという意味で不幸である。エンターテイメントにおいても少年と少女はプラトニックな恋愛を貫き、アイドル(女性タレント)は大衆の需要に応えんとその肌から肉体性を薄めていき、デフォルメされたキャラクターグッズの収集に莫大な金額をつぎ込み埋没していく……。
 畑中純の作品はそうした意味では現代社会の人々が嫌な顔をして目を背けるようなものに満ち満ちている。だがそれは同時に、本来人間がもっているもの、自然と受け入れ、寄り添うものを描いているのである。
『まんだら屋』という作品、それをてがけた畑中純は、人間の日常生活において普遍的に存在する肉体性、その生々しさや、人とのしがらみ、その中にあるささやかな歓びということを足掛け十年、単行本巻数にして五十三巻という長いスパンをもって描いたのだ。畑中純が描いた水彩画の一つに、沢の真ん中で河童の姿の良太がヒロインで良太の幼馴染である月子(何故か良太は月子とは肉体関係を結んでいない!)を肩に乗せ、捕まえたのであろう魚を片手にもっている、というものがあるが、良太の股間にしっかりとちんちんが描かれているのは象徴的である。
 恐らくこの先、畑中純とその作品が大々的に取り上げられ、大いなる称賛を受け、誰もが愛するものとなる日は、しばらく来ないかもしれない。しかし、何かのきっかけで畑中純の作品と出会い、その生々しさにむせながら、その情緒を見出し、感動し、人間世界の普遍性、素朴さ、ささやかさを肯定し、あるいは愛することができるようになる人々はいつのときも、時代の片隅にいて絶えることは無いだろう。畑中作品に通ずる人間らしさは、どんなに時代が際限なく加速していくとしても、いや、だからこそ、人の心を掴み、包み、魅了してくれるはずだ。

「畑中純の世界」展を観て(連載14)

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。




清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
畑中純の世界」展を見て
松井亜樹


 私はこの「畑中純の世界」展で、初めて畑中純さんの作品を目の当たりにしました。畑中純さんのことは全然知らなかったし、興味もあまり無かったので正直なところこの展示にはそこまで期待していませんでした。しかし行ってみると少し小さなスペースに、原画、版画、漫画などがぎっしりとあって、とても見応えがありました。そして私はこの「畑中純の世界」にまんまと引き込まれることになりました。
 順路はまず版画のゾーンから。この版画が私はとても気に入りました。細かく、そして力強いなと思いました。宮沢賢治の本の版画が多くみられ、文字までも版画になっているものもあり、文字が一緒に彫られているものは初めて見たのでとても驚きました。それと、畑中純さんの版画は可愛らしいもの(どんぐりと山猫など)もたくさんあったり、見ていてとても「懐かしい」ような、穏やかな気分になる作品が多かったです。この版画の中で私が特に気に入ったのは「風の又三郎」と「銀河鉄道の夜」でした。「風の又三郎」は横長の版画に文字も一緒に彫られていて、季節やキャラクターで彩られていました。とても綺麗だったしイメージにぴったりでそれにも驚きました。真ん中にいるマント?を羽織ったキャラクターもなんだか魅力的に感じてしまいました。そして「銀河鉄道の夜」。この作品は四枚に分かれていて、とてもインパクトがありました。なんといっても汽車の迫力と星達の輝きが美しく、見ていて溜息が出るような作品でした。本になっているものも是非手に取って見てみたいなと思いました。
 次からは漫画と一枚絵のゾーンに。漫画は「オバケ」などから始まりました。この辺の絵を見ていて思ったのですが、「この人、絵がすごく上手だったんだ。」と気付かされました。版画とは違い細い線でなめらかに描かれていたそれらの絵は、とても上手で綺麗でした。漫画も細かく描きこまれていました。「オバケ」が数ページ展示されていたのですが、その数ページでも面白そうだなと思えました。大きな妖怪のようなものが出てきたりしていて迫力がありました。「まんだらやの良太」の絵もたくさんありました。温泉旅館の一人息子「良太」が温泉街という世界で生きていく話なのかなと見ていて思いました。たくさんの人が温泉に入っている絵があったのですが、そこには老若男女が色々やりながらもひとつの温泉に入り仲良くしている姿があり、古き良き日本なのかなとも思えました。「性」の要素は入っていても、嫌な感じはなかったです。馬鹿らしくて可笑しいし、そこから生まれるストーリーがあるからこそ面白くなるということが伝わってきました。山がお尻に見える絵も見ていて笑ってしまいました。
 展示されていた絵には、ファンタジーなものが多くありました。森の中に女の人が一人立っているものなど。とても綺麗でした。そこにも「性」の要素が見え隠れしており、まさに「大人のファンタジー」なんだなと思いました。カラーの絵は色使いがとても綺麗でした。特に海辺に男女が立っている絵が印象的でした。夜の海、空には満月が浮かんでいるのですが、それが濃い黄色で彩られていて青い海とのコントラストが美しく、魅力的でした。あとは小学生の男女の絵があったのですが、それは小学生の頃の男女のもどかしさなどを思い出してとても懐かしい、そして甘酸っぱい気持ちになりました。
 展示の中には畑中眞由美さんの肖像画もありました。やわらかに描かれていて、愛情を感じました。肖像画の眞由美さんも微笑んでいて、幸せな気持ちにさせられる絵でした。そしてやっぱり絵が上手くて見とれてしまいました。
 畑中眞由美さんらがお話に来られた授業の回は、就職活動で参加出来なかったので、それがとても残念です。畑中純さんの魅力を、家族の視点からお話頂けるのは貴重な体験になったはずだなあと思いました。先週の授業で先生と他の生徒さんがお話していた「親がああいう漫画家だったら、子供の頃は嫌だと思ってしまう。」という話。たしかに女性のお尻などが描かれている漫画を父親が描いていたら嫌だとは思いますが、あんなに素敵な版画もあったので「あれを父親が描いていたら羨ましいな。」と思いました。
 「畑中純の世界」展。この展示を見ることが出来てとても良かったです。全体を通して、温かみのある作品が多かったなと思いました。たくさんの絵が展示されていてとても見応えがあり、じっくりと見ることが出来ました。漫画もかなり良かったのですが、版画に本当に感動しました。今まで見た版画の中で一番良かったし、版画で感動したのも初めてでした。見ることが出来て、そしてこんな作品に出会えて本当に良かったです。これからも、授業で触れる作品達をもっと知っていきたいなと思いました。ありがとうございました。

「畑中純の世界」展を観て(連載13)

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。




清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
畑中純の世界」展を見て
畑中純という人 山田靖乃


 畑中先生の漫画を初めて見たとき、第一印象は“強烈だな”ということだった。生々しい描写にストーリー、見方によったら官能漫画だと言われてしまうかもしれない作風だ。失礼なことに、私はこれまで畑中先生を存じ上げておらず、このような印象を受けたのが率直な思いだ。
 そして先日、奥様の眞由美さんの講演を聞くことができた。とても穏やかで笑顔の素敵な方だと思った。娘さん二人も美人さんで、息子さんもしっかりしている。私の中の畑中純像からは少し違った、幸せそうなご家族。学生の頃から数十年間、純さん一筋ということはにわかには信じがたかったが、眞由美さんが昔を懐かしみながら純さんを語る姿を見たとき、納得した。そして同時に己を恥じた。好きな人と一緒にいればずっと共に生きたいと思うのが普通なのだ。周りから攻撃されたり、決定的な要因がない限りその人と別れるだとか、別の人を選ぶという選択肢は浮かばないはずだ。私達は見栄を張るように恋愛遍歴を語るが、裏を返せばそれは“自分は飽き性で乗り換えが早く、簡単に股を広げます”と公表しているようではないか。世の中には、眞由美さんのような人をつまらない人生だと揶揄する人間はいるかもしれないが、私は羨ましいと思った。出会った人が最初で最後の人なんて、素敵だ。それから、眞由美さんと畑中先生の間には愛情以上の繋がりがあるように感じた。そしてそれが決して一方的なものではないことも。漫画家という職業は完全に個人の仕事なので、もしかしたら眞由美さんが寂しい思いをしたことも一度はあるかもしれない。(私と原稿、どっちが大事なの。)それでも四十年以上連れ添ったのだから、眞由美さんは心から“漫画家・畑中純”を尊敬し尊重し、きっと彼の一番のファンだったのだと思う。眞由美さんが畑中先生のことをお話する口ぶりや表情が本当に優しく、愛に溢れていて、野暮な質問をしてしまったことを後悔している。また、娘さんが涙ながらに思い出話をしてくださった。畑中先生は父親としても偉大な方だったのだろう。私もいまのうちに思い出をたくさん作って、親孝行しなければなと、名古屋にいる父のことを思った。
 畑中先生の作風は、どこかシュールで色使いが鮮やかなものが多い、そう思いきやモノクロで繊細な絵や版画も描いている。『まんだら屋の良太』の絵柄と比較したら、版画などは同一人物が描いたとは思えない。それから、独特の世界感を持っている。そしてその世界感を大事にしている。頭の中に浮かんだものをそのまま書き写したような、縛られていない絵だと思った。自分が描きたいものを描く、その信念と情熱が彼の絵からはビシビシと伝わってきた。良い意味で自由奔放。頭から何かが生えていたり、くちばしが生えていたり、全裸で踊っていたり、意味不明な世界感がとても良いと思った。
 数々の展示のなかでも、特に目を惹いたのは『畑中眞由美 像』だ。他の作品のタッチとは全く違う、本格的な油絵。何を思って彼はこの絵を描いたのだろう。描いてと頼まれたのだろうか。少し俯いているところから、ひっそり描いたのだろうか。畑中先生が何よりも愛してやまない絵という手段で、自分の肖像画を描いてもらった眞由美さんはさぞ嬉しかっただろうし、幸せだろうと思う。
 畑中先生のことをお話する方々を見ていると、畑中純という人がどれほど愛され、大きな存在だったかが伝わってきた。そして畑中先生の死去は多くの人に惜しまれたのだろう。まるでその場に彼がいるようにお話する眞由美さんの横顔が忘れられない。畑中先生のことは何も知らなかったが、確かにあの講演会で、彼の自分のやり方に対する信念と、情熱を感じた。ほんの少しでも、畑中純の世界を知れただろうか。

 

「畑中純の世界」展を観て(連載12)

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。




清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。
畑中純の世界」展を見て
佐野優香里

 鬼の描かれている絵が数枚、特に印象に残った。人間と鬼が共存している世界、というだけでも興味深いが、私は鬼の配置が少し気になった。
 畑中氏の仕事場の写真が、当展示会のチラシに載っている。その仕事場を見守るようにして一枚の絵が飾られていた。入り口から一枚目に展示されていた、マユミ夫人の絵である。モデルがまだ少女の時分であろう、赤いベストセーターを着ており、可憐で美しく、凛とした強さを感じられる絵だった。
 沢山の人間や物の怪が混浴している大きな温泉。これが漫画『まんだら屋の良太』に出てくる、九鬼谷温泉だろうということは一目で分かった。そこには実に多くの、表情豊かな存在たちが描かれている。そして、冒頭で触れた鬼。それは赤く、大きな体を持ち、湯には浸かっていない。鬼は、最後列の真ん中にいる。山の間から、まるで温泉に入っているものたちを見守るようにして。不思議なことに、その姿がマユミ夫人と重なって見えてきたのだ。
 もちろん、美醜の問題ではない。存在の大きさ、とでも言うのだろうか。例えば畑中氏の仕事場に飾られている夫人の絵は、その空間をまさに「一望出来る」場所に掛けられている。もし描かれているのが夫人ではなく、仮に畑中氏のご子息、ご息女だとしたら、その絵はもっと畑中氏の手の届く位置、座った時の目線の先なんかに置かれるのが良いのかもしれない。
 私は七月十日の講演会で、マユミ夫人から、女性特有の強かさと大胆さを感じた。畑中氏が「結婚しようやの?」と言い続けた気持ちも分かる気がするのだ。この人ならば、自分に付いてきてくれるだろう、というよりも、この人ならば、自分を見守り続けてくれるだろう、と感じたのではないだろうか。その、「見守る姿勢」というのが、鬼の描かれている位置と重なって見えたのかもしれない。そして、夫人の絵が飾られるべき場所にぴったりと飾られているように見えたのだ。
 これは全く私的な意見であるのだが、男性は弱く臆病な生き物だと思っている。そんな男性漫画家が、「人間の上半身も下半身も丸ごと描きたい」というのは、実に勇気が必要な決意だったのではないかと推測する。その決意を、黙って見守り、力を添え続けたのがマユミ夫人だという。見守ってくれる人が在る人間というのはとても伸び伸びとしているように感じる。マユミ夫人に見守られていた畑中氏が自分の描きたい漫画を描き続けたように、九鬼谷温泉に入っているものたちが思い思いの格好でゆったりと湯に浸かっているように。
 「純さんのだけ絵が汚い」、だなんて話をマユミ夫人がなさっていた。確かに、私が読んだことのある漫画に比べて、多少大胆なタッチで描かれているような気もする。しかし、そんなことは些末な問題で、見たものを惹きつけるか否かは、絵に込められた思いに比例するのではないだろうか。私は、今回の展示で畑中氏の、まかり間違えると卑屈さにも捉えられかねない激情を感じた。漫画も、墨絵も、油絵も、どれひとつとして手抜きのない、渾身の一作。作品群に、腕を引かれて畑中純の世界に連れて行かれるような、そんな錯覚を起こされた時間であった。