「畑中純の世界」展を観て(連載11)


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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


畑中純の世界」展を見て
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遠藤 敦美 


まず、「まんだら屋の良太」を授業内で配布され、読んだとき、「なんてハレンチな漫画なのだろう。なぜ先生はこの漫画をピックアップしたのだろう。」というのが正直な思いだった。雑誌研究で扱うのは「愛」がテーマのもので、こんな生々しい描写のあるものからどのようにして「愛」を感じたらいいのか初めは全く分からなかった。私が読んだことのある少女漫画でも、もちろんセックスシーンはあったが、すべてが美しく描かれていて、実際のものとは似ても似つかないくらいにデフォルメされている。しかし、中学生の私にとってみれば「世の中にはこんなにも愛を具象化した行為があるのだなあ。」とセックスに夢を抱いていたことは間違いない。しかし、今回読んだ「まんだら屋の良太」で描かれているセックスはお世辞にも美しい行為には見えなかった。「愛」というよりも「欲望」のおもむくままに行動しているような野性的な印象を受けた。特に主人公の良太は思春期真っ盛りの男子といった風であるので、染子とのセックスシーンも自慰行為をするシーンでも大きな差を感じることが出来なかった。さらに、この漫画にそのような印象をもってしまった理由としては舞台になっている九鬼谷温泉という土地が性に対して開放的であるように思えたからである。性に対して、よく言えばおおらか、悪く言えばだらしがないような土地はある意味で人間らしさ、本能的なものを醸し出している気がした。あまりいい印象を持たずにいたところで、この漫画に対する見方を少し変えてくれたのが畑中純の妻、眞由美さんの「まんだら屋の女房日記」である。畑中純が亡くなって三年が経とうとしている今、こんなにも鮮明な描写で彼との思い出を書き綴ることのできる人は彼女以外にはいないだろうと思う。長い時間を過ごしている二人のエピソードであるのに、なぜか初恋を思い起こさせるような甘酸っぱい日記であった。その文章を読んでいるとなんだか涙が出てくるというか、ただ思い出を綴っているだけなのに、一文字一文字に二人の歩んできた道のり、愛のかたちがあらわれていた。日常的な他愛のない話でも二人の間に愛という感情がある限り、それは愛のある話に違いはないのだと思う。この日記を読んだ後、もう一度「まんだら屋の良太」を読んでみた。確かに主人公の良太の性行為には「愛」は見えなかった。ずっと「欲望」という言葉の方がしっくりくる。ただよく読んでみると良太には純粋さや素直さが備わっている。「気は優しくて力持ち」そんな言葉が彼にはよく似合う。人柄の良さを感じることが出来るのである。今までわたしは「愛」というものは美しくあるべきと思っていたが、必ずしもそうではないのかもしれない。この漫画を読んでそう思い始めた。畑中純と眞由美さんとの関係性にこの漫画を深く読み取る鍵が隠されていると思い、たくさん伺いたいことがあったのだが足を怪我していけなかったのが残念であった。ただ少しでも畑中純の世界を感じるために「畑中純の世界」展に行った。そこで見たたくさんの展示は彼の全てを物語っているような素晴らしいものだった。特に私が一番感銘を受けたのは宮沢賢治の版画である。宮沢賢治の大人でも楽しめる深い世界に合ったすてきな版画だった。有名な「雨ニモ負ケズ」の詩につけられた絵が非常に印象的で宮沢賢治の憧れた世界と畑中純の夢見た世界が見事に融合している作品であった。「まんだら屋の良太」の絵もいくつか展示されていたが、もちろんエロスの要素満載だった。しかし、なぜかいやらしさを感じない。本当に不思議だと思う。まるで裸婦像を見ているかのような気持ちで畑中純の描く女性の裸を見ることが出来るのである。そればかりでなく、女性の裸に欲情している男性でさえもいやらしくは見えなかった。それを通り越して混浴の温泉の絵見て、日本の混浴の文化はいいなあとすら思ってしまった。ただ、彼の絵を見ているとどの絵も混沌としている。彼の頭の中をそのまま映したように人間らしさが存分に伝わってくる。人間の欲望に純粋に向き合っていて、それを隠すことをしない彼の作品は気持ちがいい。人間の「欲望」と「愛」に結び付けようとしない彼の作風に「愛」の深さ、難しさ、儚さ、重みを突き付けられた気がした。彼の表す「愛」のかたちは私の知っていたうわべだけの関係が作り出す「愛」の形とはまるで違っている。彼の表す「愛」はとても超越している。「まんだら屋の女房日記」に描かれている畑中純の姿からはあまり想像できないが、きっとふたりは深いところで分かり合うことのできる「愛」の形を知っていたのだと思う。彼は人間の美しいところも汚いところも全てありのままに描いている。その姿勢こそが彼の生き様なのだと感じた。畑中純の世界の全てを分かることは難しい。しかし、人間らしいとはこういうものだと彼の作品は教えてくれた。私ももっと深いところで分かり合える人と出会えたら畑中夫婦のように何年経っても初恋のような初々しさで語れるのかなと羨ましくなった。

「畑中純の世界」展を観て(連載10)

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畑中純の世界」展を見て
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:large;">川上紗月 



漫画家であり版画家でもあるということは知っていましたが、資料館に入ってみて実際にその作品を自分の目で見てみると版画とは思えないような繊細な作品が並んでいて思わず足を止めたというよりは止めざるをえなかったというのが最初の印象でしたでした。順路に沿って歩いていくとまず目に留まるのは「畑中眞由美」という畑中純さんの奥さんの絵。私は、こういってしまうのも何ですが、若いころの畑中眞由美さんを知っているわけではないので断言はできませんが、確かにその絵はこの間日芸の授業で私たちに話をしてくださった畑中眞由美さんの面影があって、これが今より少し前の畑中眞由美さんなんだと何の疑いもなく頭に入ってきました。根拠もなにもなく「似てる!」と心の中で叫びました。10代の頃に二人は出会ってしかも生涯その人だけだったという二人の歩んできた道が示すように、畑中純さんが畑中眞由美さんをどんなふうに思っていたのか、きっとこの絵の温かみそのままなんだろうなと感慨深い思いでした。
人物画を通り過ぎて奥に進むと版画絵の作品が並び始めます。漫画家だからといってその作風は漫画とはまた違って同じ人が作っていると思えないような印象でした。木版 画の何割かは宮沢賢治の世界を描いたものが多かったような気がします。畑中純さんは宮沢賢治に影響を受けていたのでしょうか・・・。描かれているのは「雨にも負けず」や宮沢賢治の人物画までさまざまです。中でも強く心に残ったのは「注文の多い料理店」の文章をそのまま木版画で起こして作品にしたもの。本の文字ではイメージは自分の頭でするしかないけれど、木版画では文字一つ一つも形を成して作品の一部として視覚的に私たちに訴えかけます。その文字の力強さに思わず魅入ってしまいました。文章の木版画だけでなくて物語の情景を描いた作品にもひとつひとつに表情があり、その作品の表情をちゃん見ようと、作品ごとに足を止めてしばらくその一つの作品と向き合いました。こういうのもど うかと思いますが、作品がどれも「面白い」です。綺麗だからとか絵がうまいからとかではなくて作品がこちらに訴えてくる無の言葉に私自身も無意識にそれを受取ろうと必死だったのかもしれません。
木版画の作品が並ぶ壁から振り返ってみると今度は色のついた作品が並んでいました。木版画とはうってかわってまた違う作風でほんとに同じ人物による作品とは意識していないとわからないくらいです。でも共通して同じ点は線の強さです。それが淡い色使いと良いコントラストで独特な世界観を感じました。この並びの作品に書かれている男の子はどこか畑中純さんに雰囲気が似ているような気がします。畑中純さんでなかったとしても男の子に対する特別な思いがあって書いたのかなと思うくらい躍動感が あってまるで魂がこもっているかのような感覚にさせられました。今にも絵の中で動くんじゃないかとドキドキしました。
木版画と色のついた絵が並んだ壁を進むと、次は実際漫画に使われたいくつもの1ページが並んでいました。そこからは私の知っている畑中純さんの作品のイメージでした。最初に目に入ったのは「オバケ15話”明暗”より」の1ページです。「オバケ」という作品はまだ見たことがなくてネットで少しだけ画像をチェックした程度ですがこの1枚は強烈でした。私の勝手な想像ですが、風刺のようであり、ホラーのようであり、リアルでコミカルな印象です。「黒く塗れ」のその一言が本当にたくさんのことを述べているような気がして畑中純さんの書く漫画の1ページって読者にいろんな情 報と感情を湧き立たせてくれるのだなとふと考えました。白と黒のたったの2色だけでこんなにも伝わるものがあると思うと漫画の可能性は私が思っているよりも本当に大きいものだと思います。
最後に見たのは授業でも扱った「まんだら屋の良太」の展示です。授業で触れたからか、何もわからず見るということはなかったのでいろんなことを考えながら見ることができました。いやぁでもやっぱりこうして見てみるとぎりぎりなシーンが多い・・・。私の世代からすると男女の生々しい関係やシーンをはっきりと書いて世に出すことは勇気もいるし覚悟もいることで、もし出したとしても規制されてしまいそうな気がします。事実はっきりと書いていなくても近い表現のものはモザイクがかかるし、だいぶ制限 されたもんだなと日々思います。そんな中で、私たちが読むような少女漫画とは違えど、ここまで何も抑えない作品を出した畑中純さんの熱意は当時本当にすごかったんだなと感じました。私も芸術学部に在籍する生徒として今後考えていかなくちゃいけないことが詰まってたような気がします。表現の世界として畑中純さんの作品に触れることができたのは本当に良い経験でもあり、同時に自分の視野を広げなくちゃいけないんだなぁと痛感しました。

「畑中純の世界」展を観て(連載9)

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畑中純の世界」展を見て
齋藤響 




 女を描くのには二種類の方法がある。片方の手は女自身の手、もう片方は異性である男の手である。言うまでもないが、畑中純さんは後者に該当する。どちらも女を題材としているが、アプローチの仕方が根本的に異なる。男は女のように、女を語ることはできない。
 畑中純の漫画絵に登場する女性たちは、どれも現実のそれとは異なる。漫画なのだから、至極当然だが、人物の造形において男よりも女の方がより一層メタ化されて描かれているように感じる。それは、迷い人が暗い森の中で、木々を怪物のように勘違いしてしまうのに似ている。私も含めて、男は女の身体を知らない。外側から、その裸体を眺め、触れることはできても、その身体を自分の体の一部として感じ、自ら動かすことはできない。まったく未知の存在なのだ。だからこそ、多くの男性達が嘆いてきたように、女性は神秘なのである。他者に未知のものを語る時、私たちはそのものの特徴的な部位に焦点を合わせ、そこを拡大してみせる。要所を繋げて、そのものの概要を示すことができる。細部は明記されなくても、点と点を結んでいけば、夜空には星座の動物が現れる。男は女に未知や無知から来る、畏怖を抱くために、実際よりも誇張され、角ばった存在として女を認識してしまうのだ。
 また彼女たちは、みな開放的である。畑中純の世界にでてくる女性たちは、みんなで温泉に入っていたり、あるいは今にも男に襲われそうになっていたりと、その状態は様々だ。しかし、一貫しているのは、どんな状況であれ、そこから女性のダイナミズムが表出している点だ。彼女たちは力強い。背筋はピンと伸び、口元には笑みを絶やさず、長い黒髪が下がる。男性の論理が台頭するこの世の中でも、彼女たちの存在は霞むことがない。
 こういった女性像はどこからモチーフを取っているのだろうか?無論、自分が体験してきた作品にもその影響の一部を垣間見ることができるだろう。話によればつげ義春山上たつひこらの影響を受けていたらしい。しかし、それだけだろうか?自分が実際に見たことがないものを描けるだろうか?もしかすると彼女らの原本は、畑中純の近くにいたのかもしれない。あるいはもっと身近に、女友達、昔付き合った女、妻だった可能性もある。だが、個人的にはそのどれでもない。自分が女性を描くにあたって、一番身近な女性を挙げるなら、答えは一つだからだ。それは、母親である。自分をこの世に産み落とし、幼少期、様々な危険から守ってくれた存在。畑中純の女たちが持つ力は、そういった母性に基づく力なのかもしれない。

「畑中純の世界」展を観て(連載8)

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原生的疎外をこえて――「畑中純の世界」展を見て――
目黒眞奈美



 畑中純という作家の存在は、本講義を受けて初めて知った。そもそも漫画に明るくないというのもあるが、とりわけ性欲という人間の本能を包み隠さず、寧ろテーマの根幹に据えた作品の類いには、敬遠している感があった。
 ところが今回、畑中純の世界をまじまじと見る…いや、見ざるを得ない機会に恵まれた。私は学芸員課程をとっているため、芸術資料館にて実習を行っている。そして運良く、「畑中純の世界」展の搬入作業に立ち会えたのだ。
 「まんだら屋の良太」に表される作品たちは、1枚ずつ手に取ってワイヤーに引っかけ高さを調整して…という作業の最中には、正直なところ特に魅力を感じなかった。女性が下半身を何の躊躇いも無いかのように露わにして、大股を広げていたりする。男からの欲望に晒されているようで、嫌悪感さえ持っていた。ところが、「どんぐりと山猫」や「銀河鉄道の夜」も加わって全てを陳列し終えた展示室には、どこか異様な雰囲気が漂っていた。
 宮沢賢治作品を中心とした版画作品は、切り裂くようなタッチである。板に魂を彫りつけているような、そんな力強さだ。と同時に登場人物である少年なんかを見ると、どこかキョトンとしているようで、愛らしい。
 「まんだら屋の良太」も、筆遣いは異なっているが、こうした相反する二極が共存していると言えるのであろう。まさに企画展のキャッチコピーにも取り入れられている、「エロス」と「ファンタジー」が混ぜこぜになった「カオス」なのである。
 畑中純は絵一枚が訴える力よりも、絵と絵が重なって生まれる「世界観」にこそ希望を見たのではないだろうか。だからこその、「漫画」という選択。エログロナンセンスを描き興味の対象にしてしまうのは簡単であった。しかし単なる欲望の捌け口としてではなく、欲望そのものを真っ正面から見つめることで、人間そのもののあり方を問いかけたかったのかもしれない。それには、この現実の世界ではあまりに不都合が多過ぎた。そこで宮沢賢治が理想郷イーハトーブを造ったように、九鬼谷温泉という架空の温泉郷を用意したのである。
 今回の企画展はその世界観を誰に気兼ねすることもなく、また惜しみなく構築できる場であったという点でも、非常に有意義なものであったと思う。

「畑中純の世界」展を観て(連載7)

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原生的疎外をこえて――「畑中純の世界」展を見て――
山下洪文



このとき青年がいやおうもなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。(略)花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、中にほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた(*1)。

青い花』の主人公ハインリヒは、こうして彼岸への、永遠に女性的なるものへの憧れに囚われる。
この一節を想い出したのは、「畑中純の世界」展に飾られた、ある神秘的な絵を見たからだった。
 向日葵の花のなかに、優しい女の顔が咲いている。その顔はしかし、ほのかにゆらいではいない。確かな存在感をもって、見る者の前に佇んでいる。それは、母のようにも姉のようにも、恋人のようにも見える――
 ノヴァーリス青い花は、幽明の境に咲いているかのような、儚いものの魅力をまとっていた。だが、畑中純の向日葵は、烈しい生命感、明日への意志、そして希望に溢れている。
 向日葵の絵をはじめとして、畑中の作品は、人間と植物・動物との交感を描いたものが多い。蝶のように虫取り網に捕らわれてしまう女、様々な動物に変成する少年、樹木と一体化した少女……これらはいったい何を寓意しているのか? それらの作品に私は、人間と自然が分離する以前の、楽園的ヴィジョンを見出すのである。

  自然は人間が認識し得る、存在の偉大な統一体である。(略)生の流れのなかにいると感じている者にとって、花咲き、実を結ぶ自然は、聖なるものの顕現であり、啓示となる。(マンフレート・ルルカー『シンボルとしての樹木(*2)』)

 畑中の作品世界で、人間の輪郭は溶け、「存在の偉大な統一体」としての自然と合流する。私たちは絵のなかで、原生的疎外以前の領域にたどりつくのだ。
 畑中の想像力は、表層でなく深層へ、記号でなく元型へと向かっていく。生起しては途絶え、消えていく「現在」の領域でなく、歴史の地層をひそかに流れつづける「深淵」の領域にその軸をおいている。この想像力の質が、宮沢賢治の童話世界と親和するものであることは、言うまでもない。畑中の版画は、賢治の脳髄が織りなす異形のイメージに、しっかり並走している。
 さて、表層から深層へ――この流れが、時代と逆行したものであることは明らかだろう。一九八〇年代から昨今にいたるまで氾濫しつづけているポストモダンの言説は、「深層」の否定に立脚している。蓮實重彦の『表層批評宣言』という駄作が、その潮流を象徴するものである。
 だから馬鹿者どもは、畑中純の作品を見てこう言うだろう。「彼はうしなわれた楽園的ヴィジョンを追っているだけだ。獣のようにたくましい男、花のように優しい女、そんなものが現代の何処にあるだろうか。そのような発想自体が時代遅れなのだ。深層なんてものはいらない。表層と戯れることだけが私たちの快楽なのだ」と。
こうした批判が無効であることを証明することはたやすい。だが、私たちは作品自身に語らせることにしよう。「2000.3.3」の日付が記された作品は、現代人の荒涼とした疎外を見事に描き切っている。
 暴れまわる海の怪物から、少女は逃げ惑っている。逞しい少年が、サーベルを片手に怪物に立ち向かおうとしている。少女も少年も裸である。そこには生命の躍動がある。私たちの社会からうしなわれた、愛と闘争のイメージがある。
 この一枚の絵を見つめる、学生服の少年が画面手前に描かれている。彼はうなだれているように見える。海の絵からは命の輝きが滲み出ているのに、学生の佇むこちら側には、孤独の影が深く垂れこめている。
 この重層的な構造の作品は、疎外以前の領域への、憧れと諦めを語っている。畑中は、ただ原始の楽園を希求しているのではない。そのもくろみの蹉跌をも、あらかじめ作品に織り込んでいる。
 畑中の精神の二重性――憧憬と諦念の混在――を、象徴的に描いた作品がある。少年は、坑道(のように薄暗い道)を掘り進んでいる。彼方にひとすじの光が見える。そこに向かって、少年はひたすらに足を進めているようだ。
 少年は「上昇」しているように見える。暗く渇いた空間から、光にみちた世界に脱出しようとしているかに見える。だが、絵を眺めているうちに、彼は「上昇」でなく「下降」しているように思えてくる。
 ダリに「ペルピニャン駅」という名画がある。夕暮れのようにほの赤い画面の中心に、光溢れる一点があって、男はそこにまっさかさまに落ちていくように見える。いや、そこから落ちてきたようにも見える。男の左右にはミレーの「晩鐘」から抜け出してきたような農民が祈りを捧げている――
 光のない領域から、光射す領域への脱出という主題自体は、ありふれたものだ。だが、見方を少し変えるだけで、意味深く私たちの瞳に映る。思うに、表層から遠く離れた元型の世界をあつかった作品――宮沢賢治であれ、畑中純であれ――に接するとき、私たちは複数の視覚を用意しておかなければならないだろう。そうでなければ、表面に描かれたヴィジョンに引きずられてしまう。
 エドガール・モランは、つぎのように書いている。

  原―社会ばかりでなく、その後のすべての発展を考察してみた時、もっとも重要な現象は、精神化の奇跡による文化の中での自然の開花ではなくて、しだいに複雑かつ微妙になってゆく両者の統合だ、ということになる。(『失われた範列(*3)』)

 表層の、現在の、理性の領域が絶対的に在るのではない。深層の、歴史の、自然の領域が確かに存在し、その両者は、相互に影響しあっている。
 私たちの社会を織りなす要素のうち、いずれが前者に属し、後者に属するものであるか、特定することは難しい。ひとつ言えることは、表層の領域ばかりを持ちあげて、世界はここしかないと言うことは馬鹿げたことであるし、深層の領域だけを掘り下げて、現在を見ようとしないことは、おなじように愚昧である。
 畑中は、疎外以前の領域=彼岸への憧憬と、その挫折を作品に織り込むことによって、どちらの危機をも回避した。畑中の世界のなかでは、まさにエロスとカオスとファンタジーが、混ざり合い、犯しあい、また生成しあっているのである。
 最後に私たちは、畑中がなぜ「漫画」「版画」というジャンルを選んだのか、考えてみよう。彼の精神にとりついた憧れとその否定は、どうしてこのようなかたちで表現されたのだろうか? 思うに、絵だけでは憧れしか表現できなかった。言葉だけでは、憧れを否定することしかできない。絵と言葉の合流するジャンル――漫画において、彼の屈折した情緒ははじめて十全に表現できたのではないか。

  人間が元型の密林のなかで周期的に自らを喪失することは宿命的である。これが生じるのは、日常生活の実在に内蔵されている現実的元型の意味をあきらかにさせる夢のなかにおいてである。(略)ところが、夢だけでは十二分ではない。われわれは生存してゆくためには、必ず周期的に消滅し、また十二分に覚醒し、元型のなかに入らなければならない。(エレミーレ・ゾラ『元型の空間(*4)』)

 ここでゾラの言う「元型の意味をあきらかにさせる夢」の意味を、畑中の絵は負うていた。「生存してゆくための覚醒」の役割は、言葉が負う。漫画という畑中の選択は、このようになされたのではないか。版画については、言うまでもない。あの灰色の画面は、夢と現実のあいだにあるものでなくて何だろうか。
 こうして畑中純は、絵と言葉のあいだで、元型的空間を造形しようとする。本展示会では、その試みが、凝縮されたかたちで表現されている。人はそこに、一個の精神の孤独と苦闘を感じ取るだろう。
   註
 1――青山隆夫訳。
 2――林捷訳。
 3――吉田幸男訳。
 4――丸子哲雄訳。

「畑中純の世界」展を観て(連載6)

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畑中純の世界」展を観て
福山香温

私は畑中純さんの漫画作品を、雑誌研究の講義内で初めて読んだ。このとき、男性は平凡に、女性は何か特別に、美しく描かれているなぁと思ったことは印象に深い。私が読んだことのある少女漫画や少年漫画は、男の子も女の子も目がキラキラしているイメージが強かった。だから男女で目の描かれ方がこのように違うのは一つ興味を持った点でもあった。日常の中で、異性が見るのと同性が見るのとでは感じ方も人物の受け取り方も違うのはよく気づかされる。特に一番目に見えるのは、同性には嫌われるのに異性には好かれる、そのようなタイプの人間がどこにでもいるということである。男性から見る女性、女性から見る女性、そのような様々な見方について、畑中さんの漫画作品では男性から見る女性が描かれているような気がした。個々の「男」や「女」としてのやりとりのリアルさは、最初こそ驚いてしまうものであるが、それをきちんと描かなければ伝わらないものも多くあるのだろうと感じた。そのような点も含めて、更に畑中さんの作品を読んで味わっていきたいと思えたのは、講義内でお話しを伺った畑中さんの奥様や娘さん、そして畑中さんの作品のことは苦手だと仰っていた息子さんたちの様々な言葉が興味深かったおかげである。
畑中純の世界」の展示では、たくさんの作品を見ることができたが、その中でも版画の数々に大きな魅力を感じた。一つ一つの線の力の入りと、常に強く掘られていく曲線の中にも伸びやかな線が多く、作品のそれぞれにストーリーが豊かに描き出されている。私が特に好きだと感じた作品が「銀河鉄道の夜」の空に浮かぶ鉄道を描いたものである。4枚に及びこの作品は、一つずつ見てもとても奥深い。左から順に見てみたい。まず一枚目、煙がもくもくと車両を包み込んでいる。その奥を流れる星を描く線が、長くも少しのブレもなくスーッと通っている様子が、何とも心地よい。二枚目、車両には引き続きたくさんの煙が巻かれている。後方は車両の窓も隠れてしまうほどの煙の量である。窓の一つ一つに、ほとんど人影はないが、後方の3つの窓に少しだけ乗客がいることを確認することができる。そして星がキラキラとたくさん瞬いている様子が1枚目よりも更に豪華に描かれている。この2枚目の版画からは、鉄道に夢を乗せているようなワクワク感と、星が瞬く夜ならではの寂しさのようなものも秘めているように感じた。三枚目、視点は更に車両に近くなる。遠くから「モクモクしたもの」として認識されていた煙が、いくらか薄く感じるほどに視点が煙に近いのだ。その煙の曲線と同じように鳥も描かれており、自由に羽ばたくその姿が印象的だ。この鉄道は自由に飛んでいる。しかし鉄道はもともとレールの上を走るものだ。そのような矛盾も賢治の世界感を盛り上げているのだと感じるが、この1枚に羽ばたいている鳥たちの姿が、よりいっそうこの空気を盛り上げているように感じた。そしてこの1枚になって初めて、人の表情を確認することができる。ジョバンニとカンパネルラであろうか、2名だけの顔が描かれている。2人を取り巻く現実と幻想の世界が、1枚目や2枚目とは異なった世界感を作り上げていると思った。4枚目、この1枚には煙は描かれていない。ただ、夜空に浮かぶ車両の車輪を中心とした1枚だ。普段はレールの上をまっすぐに走っているはずの車輪が空に浮かんでいる様子と、その下に見ることができる翼は、3枚目にもあった矛盾を再び表現しているのだろうか。しかしながら今回は翼のみ描かれており、鳥の全体を見ることはできない。鳥の翼の向こうに伺うことの出来る山肌は、どこか銀河鉄道とは程遠く思われるような地上の緑を想像させる。しかしそのまわりに多くの星が瞬き、その中でも一際輝く1つの星が、希望や夢を強く訴えているようにも思える。このような4枚の作品を一歩後ずさった距離から見てみると、ただ美しく自由なだけでは決してない銀河鉄道の幻想的な不思議な世界感を、版画という方法で力強くも優しく、静かに描き出していると感じた。宮沢賢治ならではの独特の世界感が、版画によって更におもしろく、味わいある世界へとなって登場している。
 この他にも、私は少年と少女が魚をじっと見ている作品が気になった。様々な種類の魚や虫がまっすぐに必死に、それぞれの確かな目的地へと向かって飛んだり、泳いだりしている様は非常に美しい。そしてその様子を静かに、かたずを飲んで食い入るように見ている少年少女の姿が、背中からも感じられるのである。この1枚は二人の背中を描いたものと、二人を正面から伺った2枚がある。正面から二人を見た1枚では、女の子も男の子も驚いている様子が描かれている。特に男の子は、女の子よりも驚いているような、そして女の子は男の子よりも落ち着いているような空気を感じることができた。生き物の不思議について、二人は驚いているのであろうか。魚の1匹1匹の細やかさや、虫の羽根の細やかさに私は魅せられた。必死に生きる生き物は必ず美しいのだ。
 展示室に貼られた作品はどれも、リアルさが必ず含まれているものであった。幻想的な世界感であったり、シュールさを感じさせるものであっても、そこには必ず現実を見ることの出来る要素が入っていたように思う。これこそが我々に語りかけているものの何かであるのかもしれない。そして何より、我々はその不思議で身近な世界感に魅せられて止まないのだ。畑中さんの様々な魅力を体感できるひと時であった。

「畑中純の世界」展を観て(連載5)

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畑中純の世界」展を観て
大日方詩梨花


多くの人にとって「畑中純」と聞き一番馴染みが深いのはやはり、私がそうであるように宮沢賢治作品の版画ではないだろうか。私は幼少期に目にした「注文の多い料理店」のぎょっとこちらを見るような大口を開けた猫が忘れられない。展示されていた版画をみて子供のころの様々な記憶までもがふとよみがえってくるような気がした。畑中純の世界は子供にとっては中々難解とまではいかないにしろ少々馴染みのない賢治の言葉をイメージとして想像させる大きないちじょうになっていたのではないだろうか。その証拠にそれほど宮沢賢治の作品に関心を持っていなかった私にも宮沢賢治の世界はとても馴染みのある幼少の原風景の一部になっている。「いーはとーぶ」とはどんなところだろうか?とよくよく空想を巡らした覚えがある。しかし、一転して畑中の本業である漫画の世界はがらりと様子が違う。
はじめてこの展示で挿絵以外の畑中純の絵を見た。正直ぎょっとした。というより呆気にとられた。こんな世界があるのかということにおどろいたのだ。奔放と言うのだろうか、喧騒と言うのだろうかある種の大らかさの様なものを持ったその世界は人物の線ひとつひとつとっても自由であった。何が自由かと言えばほとんどの人物が動物から人間に至るまで裸でそこにいるのだ。しかし、自然と猥雑という感じも受けない。畑中の世界は自然と調和している。大げさな言い方かもしれないが人類有史以前の原野とはこんな感じだったかもしれないと思えてくるのだ。しかし、大げさなのは元々畑中の世界の方だ。いくら言っても差支えはないだろう。決して写実的な訳でも描写に富んでいる訳でもないしかしそこに強い人間らしさを感じるのだ。では人間らしさとはなんだろうか。私たち現代人にとっての人間らしさとは道徳的なことだったり、人情だったりするだろう。しかし本当にそうだろうか。本当の人間らしさとは現代において抑圧され粗野とされてきた「性」であったり「暴力」であったりする、小奇麗な化粧棚や見るからに品のいい背広の中に覆い隠され隠ぺいされつづけ終いには私たち自身もそれがどんなものであったのか、それが何であったのか分からなくなっている生きることそのものへの渇望ではないだろうか。それは生への愛ではないだろうか。過去に本当にそんな始祖たちの原野が存在していた如何に関わらず心の中で常に私たち人間が自由を欲し追い求めるのは、私たち自身が現在と言う抑圧の構造を本能的にも道義的にも理解し自由を、始祖たちの原野を求め続けているからではないだろうか。(あえて始祖といって過去のものにしなくとも、これから来るべき未来と捉えてもいいかもしれないが。)フロイトによれば、文明は人間の本能を永久に抑圧する。ならば抑圧の存在しない文明を目指すべきなのではないだろうか。文明的理性主義ともいえる進歩信仰は本能的な自己を否定し理性的な自己を肯定するあまり人間性と本能とを混同してしまっているのではないか。我々人間は決して万人が野に放たれれば人殺しになるわけではない。そう信じることができないことこそが理性主義最大の瑕疵ではないのか。理性主義が理性的である最大の所以はその理性が人間性に由来するからではないのか。人間が本来的に内在する人間性を信じること、肯定することこそ理性としての自己の在るべき姿なのではないのか。
畑中の描いた世界をある種の理想郷とするならば、それは決して本能や後進性への憧れではなくよりよくあろうとするむしろとても人間主体の進歩的なアプローチの世界解釈だったのではないだろうか。畑中は人間が人間である所以たる人間性の実在を信じていたからこそその理想郷を理性による自己支配ではなく、人間性による自己支配に委ねたのではないだろか。しかしそれはまた同時に完全なる委任ではない。その人間性にもとづく人間の自由を自らを信じつづけることによって、人はよりよくあろうとすることができるのだと、世界が決して残酷なものにならない為に、行為し志向することなしに維持することはできない。理性や本能の境界線上で見失ったものをもう一度見つけ出し我々人間の手に取り戻すことが出来たならばきっと我々が生きる世界は決して悲観しなくてもいいものになるはずだ。
本来的に我々が求める世界とはどんなものであるか。どんなものであるべきなのか。どう我々人間はあろうとしているのか。それこそが畑中の最大の問いかけの様気がしてならないのだ。