「畑中純の世界」展を観て(連載7)

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原生的疎外をこえて――「畑中純の世界」展を見て――
山下洪文



このとき青年がいやおうもなしに惹きつけられたのは、泉のほとりに生えた一本の丈の高い、淡い青色の花だったが、そのすらりと伸びかがやく葉が青年の体にふれた。(略)花は青年に向かって首をかしげた。その花弁が青いゆったりとしたえりを広げると、中にほっそりとした顔がほのかにゆらいで見えた(*1)。

青い花』の主人公ハインリヒは、こうして彼岸への、永遠に女性的なるものへの憧れに囚われる。
この一節を想い出したのは、「畑中純の世界」展に飾られた、ある神秘的な絵を見たからだった。
 向日葵の花のなかに、優しい女の顔が咲いている。その顔はしかし、ほのかにゆらいではいない。確かな存在感をもって、見る者の前に佇んでいる。それは、母のようにも姉のようにも、恋人のようにも見える――
 ノヴァーリス青い花は、幽明の境に咲いているかのような、儚いものの魅力をまとっていた。だが、畑中純の向日葵は、烈しい生命感、明日への意志、そして希望に溢れている。
 向日葵の絵をはじめとして、畑中の作品は、人間と植物・動物との交感を描いたものが多い。蝶のように虫取り網に捕らわれてしまう女、様々な動物に変成する少年、樹木と一体化した少女……これらはいったい何を寓意しているのか? それらの作品に私は、人間と自然が分離する以前の、楽園的ヴィジョンを見出すのである。

  自然は人間が認識し得る、存在の偉大な統一体である。(略)生の流れのなかにいると感じている者にとって、花咲き、実を結ぶ自然は、聖なるものの顕現であり、啓示となる。(マンフレート・ルルカー『シンボルとしての樹木(*2)』)

 畑中の作品世界で、人間の輪郭は溶け、「存在の偉大な統一体」としての自然と合流する。私たちは絵のなかで、原生的疎外以前の領域にたどりつくのだ。
 畑中の想像力は、表層でなく深層へ、記号でなく元型へと向かっていく。生起しては途絶え、消えていく「現在」の領域でなく、歴史の地層をひそかに流れつづける「深淵」の領域にその軸をおいている。この想像力の質が、宮沢賢治の童話世界と親和するものであることは、言うまでもない。畑中の版画は、賢治の脳髄が織りなす異形のイメージに、しっかり並走している。
 さて、表層から深層へ――この流れが、時代と逆行したものであることは明らかだろう。一九八〇年代から昨今にいたるまで氾濫しつづけているポストモダンの言説は、「深層」の否定に立脚している。蓮實重彦の『表層批評宣言』という駄作が、その潮流を象徴するものである。
 だから馬鹿者どもは、畑中純の作品を見てこう言うだろう。「彼はうしなわれた楽園的ヴィジョンを追っているだけだ。獣のようにたくましい男、花のように優しい女、そんなものが現代の何処にあるだろうか。そのような発想自体が時代遅れなのだ。深層なんてものはいらない。表層と戯れることだけが私たちの快楽なのだ」と。
こうした批判が無効であることを証明することはたやすい。だが、私たちは作品自身に語らせることにしよう。「2000.3.3」の日付が記された作品は、現代人の荒涼とした疎外を見事に描き切っている。
 暴れまわる海の怪物から、少女は逃げ惑っている。逞しい少年が、サーベルを片手に怪物に立ち向かおうとしている。少女も少年も裸である。そこには生命の躍動がある。私たちの社会からうしなわれた、愛と闘争のイメージがある。
 この一枚の絵を見つめる、学生服の少年が画面手前に描かれている。彼はうなだれているように見える。海の絵からは命の輝きが滲み出ているのに、学生の佇むこちら側には、孤独の影が深く垂れこめている。
 この重層的な構造の作品は、疎外以前の領域への、憧れと諦めを語っている。畑中は、ただ原始の楽園を希求しているのではない。そのもくろみの蹉跌をも、あらかじめ作品に織り込んでいる。
 畑中の精神の二重性――憧憬と諦念の混在――を、象徴的に描いた作品がある。少年は、坑道(のように薄暗い道)を掘り進んでいる。彼方にひとすじの光が見える。そこに向かって、少年はひたすらに足を進めているようだ。
 少年は「上昇」しているように見える。暗く渇いた空間から、光にみちた世界に脱出しようとしているかに見える。だが、絵を眺めているうちに、彼は「上昇」でなく「下降」しているように思えてくる。
 ダリに「ペルピニャン駅」という名画がある。夕暮れのようにほの赤い画面の中心に、光溢れる一点があって、男はそこにまっさかさまに落ちていくように見える。いや、そこから落ちてきたようにも見える。男の左右にはミレーの「晩鐘」から抜け出してきたような農民が祈りを捧げている――
 光のない領域から、光射す領域への脱出という主題自体は、ありふれたものだ。だが、見方を少し変えるだけで、意味深く私たちの瞳に映る。思うに、表層から遠く離れた元型の世界をあつかった作品――宮沢賢治であれ、畑中純であれ――に接するとき、私たちは複数の視覚を用意しておかなければならないだろう。そうでなければ、表面に描かれたヴィジョンに引きずられてしまう。
 エドガール・モランは、つぎのように書いている。

  原―社会ばかりでなく、その後のすべての発展を考察してみた時、もっとも重要な現象は、精神化の奇跡による文化の中での自然の開花ではなくて、しだいに複雑かつ微妙になってゆく両者の統合だ、ということになる。(『失われた範列(*3)』)

 表層の、現在の、理性の領域が絶対的に在るのではない。深層の、歴史の、自然の領域が確かに存在し、その両者は、相互に影響しあっている。
 私たちの社会を織りなす要素のうち、いずれが前者に属し、後者に属するものであるか、特定することは難しい。ひとつ言えることは、表層の領域ばかりを持ちあげて、世界はここしかないと言うことは馬鹿げたことであるし、深層の領域だけを掘り下げて、現在を見ようとしないことは、おなじように愚昧である。
 畑中は、疎外以前の領域=彼岸への憧憬と、その挫折を作品に織り込むことによって、どちらの危機をも回避した。畑中の世界のなかでは、まさにエロスとカオスとファンタジーが、混ざり合い、犯しあい、また生成しあっているのである。
 最後に私たちは、畑中がなぜ「漫画」「版画」というジャンルを選んだのか、考えてみよう。彼の精神にとりついた憧れとその否定は、どうしてこのようなかたちで表現されたのだろうか? 思うに、絵だけでは憧れしか表現できなかった。言葉だけでは、憧れを否定することしかできない。絵と言葉の合流するジャンル――漫画において、彼の屈折した情緒ははじめて十全に表現できたのではないか。

  人間が元型の密林のなかで周期的に自らを喪失することは宿命的である。これが生じるのは、日常生活の実在に内蔵されている現実的元型の意味をあきらかにさせる夢のなかにおいてである。(略)ところが、夢だけでは十二分ではない。われわれは生存してゆくためには、必ず周期的に消滅し、また十二分に覚醒し、元型のなかに入らなければならない。(エレミーレ・ゾラ『元型の空間(*4)』)

 ここでゾラの言う「元型の意味をあきらかにさせる夢」の意味を、畑中の絵は負うていた。「生存してゆくための覚醒」の役割は、言葉が負う。漫画という畑中の選択は、このようになされたのではないか。版画については、言うまでもない。あの灰色の画面は、夢と現実のあいだにあるものでなくて何だろうか。
 こうして畑中純は、絵と言葉のあいだで、元型的空間を造形しようとする。本展示会では、その試みが、凝縮されたかたちで表現されている。人はそこに、一個の精神の孤独と苦闘を感じ取るだろう。
   註
 1――青山隆夫訳。
 2――林捷訳。
 3――吉田幸男訳。
 4――丸子哲雄訳。