「畑中純の世界」展を観て(連載15)

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畑中純の世界」展を見て
忠石祥平




 平成二十四年に急逝した畑中純という漫画家、その作品は現代の芸術、エンターテイメント、ひいては社会が今まさに受容(消費ではない!) する必要のあるものである。それは単純に畑中純の再評価という意味だけではなく、また一大ムーブメントになるべきというわけでもない。畑中純の作品はいわば慢性的な飽食、食傷気味の現代社会の処方箋となりうると思われる。
 畑中純の代表的な作品として『まんだら屋の良太』があり、その特徴は、温泉街というローカルにおける日常生活や情事、珍事を描いたものである。素朴で線の太い絵のタッチもあいまって、生々しいとか、土臭さのようなもので満ちている。盛り時の良太が何かと女と関係を持とうとするところや、女の裸体(しかもそれらは必ずしも美しいわけではない)が頻繁に出てきて、心中ややくざ絡みの事件なども起こるので、あまり上品ではない。それは例えるなら、植物の青臭さや、昆虫の蛇腹、爪の間に入った土、また、腕にびっしりとある毛穴、排泄物の匂い、口の中の粘膜といったものを連想させる。それらは清潔さを信仰した生活スタイル(外界と明確に仕切りをつける住居や、諸々の殺菌剤)に慣れた現代人にとっては汚らしくて、できればあまり触りたくないようなものである。つまり『まんだら屋の良太』はじめ諸々の畑中作品はそうした人間世界に本来つきものの生々しさ、汚さがたっぷりと書かれているので、喜んで手に取ろうという人は多くないと思われる(宮沢賢治を原作としたシリーズなどはそれとは逆に幻想性やノスタルジーなど漫画家畑中純の別の一面を体現していて、こちらの方が比較的好まれるのではないだろうか)。
 畑中純の作品、その作風が人々の大きな関心、感心を集めず、ともすれば顔をしかめられてしまうのは、現代社会のありようを浮き彫りにしている。即ち、排泄や代謝といった生理機能、毛のもさもさした感じ、皺、汗や唾のような汁、性器のグロテスクさ、そうしたホモサピエンスに元来備わっている生理機能や、気遣い、遠慮、空気を読むといった世の中をどうにかうまくやっていくための煩わしい対人関係の忌避である。前述の通り清潔さは善とされ、洗剤や洗顔料、芳香剤、空気清浄器といったものによって人間の生活は潔癖となりつつある。またインターネットによって相手との直接的な関わりを経ることなく物品の購入やサービスの利用などができてしまう。それらは生活が豊かになるという意味では幸であり、人間元来の生々しさと向き合う頻度が激減し免疫が下がったという意味で不幸である。エンターテイメントにおいても少年と少女はプラトニックな恋愛を貫き、アイドル(女性タレント)は大衆の需要に応えんとその肌から肉体性を薄めていき、デフォルメされたキャラクターグッズの収集に莫大な金額をつぎ込み埋没していく……。
 畑中純の作品はそうした意味では現代社会の人々が嫌な顔をして目を背けるようなものに満ち満ちている。だがそれは同時に、本来人間がもっているもの、自然と受け入れ、寄り添うものを描いているのである。
『まんだら屋』という作品、それをてがけた畑中純は、人間の日常生活において普遍的に存在する肉体性、その生々しさや、人とのしがらみ、その中にあるささやかな歓びということを足掛け十年、単行本巻数にして五十三巻という長いスパンをもって描いたのだ。畑中純が描いた水彩画の一つに、沢の真ん中で河童の姿の良太がヒロインで良太の幼馴染である月子(何故か良太は月子とは肉体関係を結んでいない!)を肩に乗せ、捕まえたのであろう魚を片手にもっている、というものがあるが、良太の股間にしっかりとちんちんが描かれているのは象徴的である。
 恐らくこの先、畑中純とその作品が大々的に取り上げられ、大いなる称賛を受け、誰もが愛するものとなる日は、しばらく来ないかもしれない。しかし、何かのきっかけで畑中純の作品と出会い、その生々しさにむせながら、その情緒を見出し、感動し、人間世界の普遍性、素朴さ、ささやかさを肯定し、あるいは愛することができるようになる人々はいつのときも、時代の片隅にいて絶えることは無いだろう。畑中作品に通ずる人間らしさは、どんなに時代が際限なく加速していくとしても、いや、だからこそ、人の心を掴み、包み、魅了してくれるはずだ。