「畑中純の世界」展を観て(連載8)

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原生的疎外をこえて――「畑中純の世界」展を見て――
目黒眞奈美



 畑中純という作家の存在は、本講義を受けて初めて知った。そもそも漫画に明るくないというのもあるが、とりわけ性欲という人間の本能を包み隠さず、寧ろテーマの根幹に据えた作品の類いには、敬遠している感があった。
 ところが今回、畑中純の世界をまじまじと見る…いや、見ざるを得ない機会に恵まれた。私は学芸員課程をとっているため、芸術資料館にて実習を行っている。そして運良く、「畑中純の世界」展の搬入作業に立ち会えたのだ。
 「まんだら屋の良太」に表される作品たちは、1枚ずつ手に取ってワイヤーに引っかけ高さを調整して…という作業の最中には、正直なところ特に魅力を感じなかった。女性が下半身を何の躊躇いも無いかのように露わにして、大股を広げていたりする。男からの欲望に晒されているようで、嫌悪感さえ持っていた。ところが、「どんぐりと山猫」や「銀河鉄道の夜」も加わって全てを陳列し終えた展示室には、どこか異様な雰囲気が漂っていた。
 宮沢賢治作品を中心とした版画作品は、切り裂くようなタッチである。板に魂を彫りつけているような、そんな力強さだ。と同時に登場人物である少年なんかを見ると、どこかキョトンとしているようで、愛らしい。
 「まんだら屋の良太」も、筆遣いは異なっているが、こうした相反する二極が共存していると言えるのであろう。まさに企画展のキャッチコピーにも取り入れられている、「エロス」と「ファンタジー」が混ぜこぜになった「カオス」なのである。
 畑中純は絵一枚が訴える力よりも、絵と絵が重なって生まれる「世界観」にこそ希望を見たのではないだろうか。だからこその、「漫画」という選択。エログロナンセンスを描き興味の対象にしてしまうのは簡単であった。しかし単なる欲望の捌け口としてではなく、欲望そのものを真っ正面から見つめることで、人間そのもののあり方を問いかけたかったのかもしれない。それには、この現実の世界ではあまりに不都合が多過ぎた。そこで宮沢賢治が理想郷イーハトーブを造ったように、九鬼谷温泉という架空の温泉郷を用意したのである。
 今回の企画展はその世界観を誰に気兼ねすることもなく、また惜しみなく構築できる場であったという点でも、非常に有意義なものであったと思う。