「畑中純の世界」展を観て(連載9)

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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


畑中純の世界」展を見て
齋藤響 




 女を描くのには二種類の方法がある。片方の手は女自身の手、もう片方は異性である男の手である。言うまでもないが、畑中純さんは後者に該当する。どちらも女を題材としているが、アプローチの仕方が根本的に異なる。男は女のように、女を語ることはできない。
 畑中純の漫画絵に登場する女性たちは、どれも現実のそれとは異なる。漫画なのだから、至極当然だが、人物の造形において男よりも女の方がより一層メタ化されて描かれているように感じる。それは、迷い人が暗い森の中で、木々を怪物のように勘違いしてしまうのに似ている。私も含めて、男は女の身体を知らない。外側から、その裸体を眺め、触れることはできても、その身体を自分の体の一部として感じ、自ら動かすことはできない。まったく未知の存在なのだ。だからこそ、多くの男性達が嘆いてきたように、女性は神秘なのである。他者に未知のものを語る時、私たちはそのものの特徴的な部位に焦点を合わせ、そこを拡大してみせる。要所を繋げて、そのものの概要を示すことができる。細部は明記されなくても、点と点を結んでいけば、夜空には星座の動物が現れる。男は女に未知や無知から来る、畏怖を抱くために、実際よりも誇張され、角ばった存在として女を認識してしまうのだ。
 また彼女たちは、みな開放的である。畑中純の世界にでてくる女性たちは、みんなで温泉に入っていたり、あるいは今にも男に襲われそうになっていたりと、その状態は様々だ。しかし、一貫しているのは、どんな状況であれ、そこから女性のダイナミズムが表出している点だ。彼女たちは力強い。背筋はピンと伸び、口元には笑みを絶やさず、長い黒髪が下がる。男性の論理が台頭するこの世の中でも、彼女たちの存在は霞むことがない。
 こういった女性像はどこからモチーフを取っているのだろうか?無論、自分が体験してきた作品にもその影響の一部を垣間見ることができるだろう。話によればつげ義春山上たつひこらの影響を受けていたらしい。しかし、それだけだろうか?自分が実際に見たことがないものを描けるだろうか?もしかすると彼女らの原本は、畑中純の近くにいたのかもしれない。あるいはもっと身近に、女友達、昔付き合った女、妻だった可能性もある。だが、個人的にはそのどれでもない。自分が女性を描くにあたって、一番身近な女性を挙げるなら、答えは一つだからだ。それは、母親である。自分をこの世に産み落とし、幼少期、様々な危険から守ってくれた存在。畑中純の女たちが持つ力は、そういった母性に基づく力なのかもしれない。