「畑中純の世界」展を観て(連載11)


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畑中純の世界」展を見て
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遠藤 敦美 


まず、「まんだら屋の良太」を授業内で配布され、読んだとき、「なんてハレンチな漫画なのだろう。なぜ先生はこの漫画をピックアップしたのだろう。」というのが正直な思いだった。雑誌研究で扱うのは「愛」がテーマのもので、こんな生々しい描写のあるものからどのようにして「愛」を感じたらいいのか初めは全く分からなかった。私が読んだことのある少女漫画でも、もちろんセックスシーンはあったが、すべてが美しく描かれていて、実際のものとは似ても似つかないくらいにデフォルメされている。しかし、中学生の私にとってみれば「世の中にはこんなにも愛を具象化した行為があるのだなあ。」とセックスに夢を抱いていたことは間違いない。しかし、今回読んだ「まんだら屋の良太」で描かれているセックスはお世辞にも美しい行為には見えなかった。「愛」というよりも「欲望」のおもむくままに行動しているような野性的な印象を受けた。特に主人公の良太は思春期真っ盛りの男子といった風であるので、染子とのセックスシーンも自慰行為をするシーンでも大きな差を感じることが出来なかった。さらに、この漫画にそのような印象をもってしまった理由としては舞台になっている九鬼谷温泉という土地が性に対して開放的であるように思えたからである。性に対して、よく言えばおおらか、悪く言えばだらしがないような土地はある意味で人間らしさ、本能的なものを醸し出している気がした。あまりいい印象を持たずにいたところで、この漫画に対する見方を少し変えてくれたのが畑中純の妻、眞由美さんの「まんだら屋の女房日記」である。畑中純が亡くなって三年が経とうとしている今、こんなにも鮮明な描写で彼との思い出を書き綴ることのできる人は彼女以外にはいないだろうと思う。長い時間を過ごしている二人のエピソードであるのに、なぜか初恋を思い起こさせるような甘酸っぱい日記であった。その文章を読んでいるとなんだか涙が出てくるというか、ただ思い出を綴っているだけなのに、一文字一文字に二人の歩んできた道のり、愛のかたちがあらわれていた。日常的な他愛のない話でも二人の間に愛という感情がある限り、それは愛のある話に違いはないのだと思う。この日記を読んだ後、もう一度「まんだら屋の良太」を読んでみた。確かに主人公の良太の性行為には「愛」は見えなかった。ずっと「欲望」という言葉の方がしっくりくる。ただよく読んでみると良太には純粋さや素直さが備わっている。「気は優しくて力持ち」そんな言葉が彼にはよく似合う。人柄の良さを感じることが出来るのである。今までわたしは「愛」というものは美しくあるべきと思っていたが、必ずしもそうではないのかもしれない。この漫画を読んでそう思い始めた。畑中純と眞由美さんとの関係性にこの漫画を深く読み取る鍵が隠されていると思い、たくさん伺いたいことがあったのだが足を怪我していけなかったのが残念であった。ただ少しでも畑中純の世界を感じるために「畑中純の世界」展に行った。そこで見たたくさんの展示は彼の全てを物語っているような素晴らしいものだった。特に私が一番感銘を受けたのは宮沢賢治の版画である。宮沢賢治の大人でも楽しめる深い世界に合ったすてきな版画だった。有名な「雨ニモ負ケズ」の詩につけられた絵が非常に印象的で宮沢賢治の憧れた世界と畑中純の夢見た世界が見事に融合している作品であった。「まんだら屋の良太」の絵もいくつか展示されていたが、もちろんエロスの要素満載だった。しかし、なぜかいやらしさを感じない。本当に不思議だと思う。まるで裸婦像を見ているかのような気持ちで畑中純の描く女性の裸を見ることが出来るのである。そればかりでなく、女性の裸に欲情している男性でさえもいやらしくは見えなかった。それを通り越して混浴の温泉の絵見て、日本の混浴の文化はいいなあとすら思ってしまった。ただ、彼の絵を見ているとどの絵も混沌としている。彼の頭の中をそのまま映したように人間らしさが存分に伝わってくる。人間の欲望に純粋に向き合っていて、それを隠すことをしない彼の作品は気持ちがいい。人間の「欲望」と「愛」に結び付けようとしない彼の作風に「愛」の深さ、難しさ、儚さ、重みを突き付けられた気がした。彼の表す「愛」のかたちは私の知っていたうわべだけの関係が作り出す「愛」の形とはまるで違っている。彼の表す「愛」はとても超越している。「まんだら屋の女房日記」に描かれている畑中純の姿からはあまり想像できないが、きっとふたりは深いところで分かり合うことのできる「愛」の形を知っていたのだと思う。彼は人間の美しいところも汚いところも全てありのままに描いている。その姿勢こそが彼の生き様なのだと感じた。畑中純の世界の全てを分かることは難しい。しかし、人間らしいとはこういうものだと彼の作品は教えてくれた。私ももっと深いところで分かり合える人と出会えたら畑中夫婦のように何年経っても初恋のような初々しさで語れるのかなと羨ましくなった。