「畑中純の世界」展を観て(連載12)

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畑中純の世界」展を見て
佐野優香里

 鬼の描かれている絵が数枚、特に印象に残った。人間と鬼が共存している世界、というだけでも興味深いが、私は鬼の配置が少し気になった。
 畑中氏の仕事場の写真が、当展示会のチラシに載っている。その仕事場を見守るようにして一枚の絵が飾られていた。入り口から一枚目に展示されていた、マユミ夫人の絵である。モデルがまだ少女の時分であろう、赤いベストセーターを着ており、可憐で美しく、凛とした強さを感じられる絵だった。
 沢山の人間や物の怪が混浴している大きな温泉。これが漫画『まんだら屋の良太』に出てくる、九鬼谷温泉だろうということは一目で分かった。そこには実に多くの、表情豊かな存在たちが描かれている。そして、冒頭で触れた鬼。それは赤く、大きな体を持ち、湯には浸かっていない。鬼は、最後列の真ん中にいる。山の間から、まるで温泉に入っているものたちを見守るようにして。不思議なことに、その姿がマユミ夫人と重なって見えてきたのだ。
 もちろん、美醜の問題ではない。存在の大きさ、とでも言うのだろうか。例えば畑中氏の仕事場に飾られている夫人の絵は、その空間をまさに「一望出来る」場所に掛けられている。もし描かれているのが夫人ではなく、仮に畑中氏のご子息、ご息女だとしたら、その絵はもっと畑中氏の手の届く位置、座った時の目線の先なんかに置かれるのが良いのかもしれない。
 私は七月十日の講演会で、マユミ夫人から、女性特有の強かさと大胆さを感じた。畑中氏が「結婚しようやの?」と言い続けた気持ちも分かる気がするのだ。この人ならば、自分に付いてきてくれるだろう、というよりも、この人ならば、自分を見守り続けてくれるだろう、と感じたのではないだろうか。その、「見守る姿勢」というのが、鬼の描かれている位置と重なって見えたのかもしれない。そして、夫人の絵が飾られるべき場所にぴったりと飾られているように見えたのだ。
 これは全く私的な意見であるのだが、男性は弱く臆病な生き物だと思っている。そんな男性漫画家が、「人間の上半身も下半身も丸ごと描きたい」というのは、実に勇気が必要な決意だったのではないかと推測する。その決意を、黙って見守り、力を添え続けたのがマユミ夫人だという。見守ってくれる人が在る人間というのはとても伸び伸びとしているように感じる。マユミ夫人に見守られていた畑中氏が自分の描きたい漫画を描き続けたように、九鬼谷温泉に入っているものたちが思い思いの格好でゆったりと湯に浸かっているように。
 「純さんのだけ絵が汚い」、だなんて話をマユミ夫人がなさっていた。確かに、私が読んだことのある漫画に比べて、多少大胆なタッチで描かれているような気もする。しかし、そんなことは些末な問題で、見たものを惹きつけるか否かは、絵に込められた思いに比例するのではないだろうか。私は、今回の展示で畑中氏の、まかり間違えると卑屈さにも捉えられかねない激情を感じた。漫画も、墨絵も、油絵も、どれひとつとして手抜きのない、渾身の一作。作品群に、腕を引かれて畑中純の世界に連れて行かれるような、そんな錯覚を起こされた時間であった。