「畑中純の世界」展を観て(連載5)

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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


畑中純の世界」展を観て
大日方詩梨花


多くの人にとって「畑中純」と聞き一番馴染みが深いのはやはり、私がそうであるように宮沢賢治作品の版画ではないだろうか。私は幼少期に目にした「注文の多い料理店」のぎょっとこちらを見るような大口を開けた猫が忘れられない。展示されていた版画をみて子供のころの様々な記憶までもがふとよみがえってくるような気がした。畑中純の世界は子供にとっては中々難解とまではいかないにしろ少々馴染みのない賢治の言葉をイメージとして想像させる大きないちじょうになっていたのではないだろうか。その証拠にそれほど宮沢賢治の作品に関心を持っていなかった私にも宮沢賢治の世界はとても馴染みのある幼少の原風景の一部になっている。「いーはとーぶ」とはどんなところだろうか?とよくよく空想を巡らした覚えがある。しかし、一転して畑中の本業である漫画の世界はがらりと様子が違う。
はじめてこの展示で挿絵以外の畑中純の絵を見た。正直ぎょっとした。というより呆気にとられた。こんな世界があるのかということにおどろいたのだ。奔放と言うのだろうか、喧騒と言うのだろうかある種の大らかさの様なものを持ったその世界は人物の線ひとつひとつとっても自由であった。何が自由かと言えばほとんどの人物が動物から人間に至るまで裸でそこにいるのだ。しかし、自然と猥雑という感じも受けない。畑中の世界は自然と調和している。大げさな言い方かもしれないが人類有史以前の原野とはこんな感じだったかもしれないと思えてくるのだ。しかし、大げさなのは元々畑中の世界の方だ。いくら言っても差支えはないだろう。決して写実的な訳でも描写に富んでいる訳でもないしかしそこに強い人間らしさを感じるのだ。では人間らしさとはなんだろうか。私たち現代人にとっての人間らしさとは道徳的なことだったり、人情だったりするだろう。しかし本当にそうだろうか。本当の人間らしさとは現代において抑圧され粗野とされてきた「性」であったり「暴力」であったりする、小奇麗な化粧棚や見るからに品のいい背広の中に覆い隠され隠ぺいされつづけ終いには私たち自身もそれがどんなものであったのか、それが何であったのか分からなくなっている生きることそのものへの渇望ではないだろうか。それは生への愛ではないだろうか。過去に本当にそんな始祖たちの原野が存在していた如何に関わらず心の中で常に私たち人間が自由を欲し追い求めるのは、私たち自身が現在と言う抑圧の構造を本能的にも道義的にも理解し自由を、始祖たちの原野を求め続けているからではないだろうか。(あえて始祖といって過去のものにしなくとも、これから来るべき未来と捉えてもいいかもしれないが。)フロイトによれば、文明は人間の本能を永久に抑圧する。ならば抑圧の存在しない文明を目指すべきなのではないだろうか。文明的理性主義ともいえる進歩信仰は本能的な自己を否定し理性的な自己を肯定するあまり人間性と本能とを混同してしまっているのではないか。我々人間は決して万人が野に放たれれば人殺しになるわけではない。そう信じることができないことこそが理性主義最大の瑕疵ではないのか。理性主義が理性的である最大の所以はその理性が人間性に由来するからではないのか。人間が本来的に内在する人間性を信じること、肯定することこそ理性としての自己の在るべき姿なのではないのか。
畑中の描いた世界をある種の理想郷とするならば、それは決して本能や後進性への憧れではなくよりよくあろうとするむしろとても人間主体の進歩的なアプローチの世界解釈だったのではないだろうか。畑中は人間が人間である所以たる人間性の実在を信じていたからこそその理想郷を理性による自己支配ではなく、人間性による自己支配に委ねたのではないだろか。しかしそれはまた同時に完全なる委任ではない。その人間性にもとづく人間の自由を自らを信じつづけることによって、人はよりよくあろうとすることができるのだと、世界が決して残酷なものにならない為に、行為し志向することなしに維持することはできない。理性や本能の境界線上で見失ったものをもう一度見つけ出し我々人間の手に取り戻すことが出来たならばきっと我々が生きる世界は決して悲観しなくてもいいものになるはずだ。
本来的に我々が求める世界とはどんなものであるか。どんなものであるべきなのか。どう我々人間はあろうとしているのか。それこそが畑中の最大の問いかけの様気がしてならないのだ。