モーパッサン『ベラミ』を読む(連載10) ──『罪と罰』と関連づけながら──

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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載10)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ロジオンは屋根裏部屋の空想家、思弁家である。ペテルブルク大学法学部に通っていたエリートである。謂わばロジオンは知性的な青年で、自分自身の内部世界はもとより、世界の事象に関しても知性や理性に基づく眼差しを注いでいた。が、いつの頃からかロジオンは〈神か革命か〉というテーマを抱き、深く思い惑うことになる。

 『罪と罰』は表面上、主人公ロジオンから〈革命思想〉を慎重に排除している。従って多くの読者は、出だしの場面におけるロジオンの〈思い惑い〉を〈アレ〉ができるかどうか、すなわちアリョーナ殺しができるかどうかに限定してしまうことになる。十九世紀中葉を生きる大学生が革命思想に無関心であったはずはない。〈アレ〉は〈アリョーナ殺し〉にとどまるのではなく、〈皇帝殺し〉そして最終的には〈復活〉を意味している。ロジオンは大半の読者が考えているよりはるかに深く〈革命〉と〈神〉について考えている青年である。作者はそういった青年に敢えて殺人を起こさせ、改めて革命と神を問うているのである。

 ロジオンのネヴァ河幻想において特に注意しなければならないのは「彼にとっては、この花やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気にみちているのであった」(125)である。江川卓訳では「このはなやかな一幅の絵画が、唖、聾の鬼気にみたされているように彼には感じられるのだ」(上・231)、原典は「духом немым и глухим полна была для него эта пышная картина」(ア・90)である。この〈唖、聾の鬼気〉(духом немым и глухим)に関して江川卓はマルコ福音書九章に出てくる癲癇症状に襲われる少年をイエスが癒す箇所に注意を促している。

 

 〈おしの霊〉に憑かれた息子を連れてきた父親はイエスに向かって言葉を発する。その場面をマルコ福音書から引用する。

 

 「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。/その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」

  イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

  そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。

  イエスはその父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。/この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」

  するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

  イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」

  するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。

  しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。

  イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」

  すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(9章17~29節)

 

 ドストエフスキーは初期作品から狂気に陥る人物を描いている。最も有名なのは『分身』のゴリャートキンだが、『プロハルチン氏』のプロハルチン、『おかみさん』のオルドィノフなどもドストエフスキーの癲癇病理を色濃く反映している。この点に関してはドストエフスキー自身が、自分の病理を積極的に作品に利用したと述べている。わたしはドストエフスキーの癲癇は側頭葉癲癇(複雑性精神運動発作)と推測して、癲癇病理学の側面からも『分身』を考察したが、ここでは繰り返さない。一つ確かに言えることは、ドストエフスキーの人物たちの狂気が癲癇病理と密接に繋がっていること、つまり『弱い心』のアルカージイや『罪と罰』のロジオンもまた、作者の病理体験が色濃く投影されているということである。

 マルコ福音書を現代の癲癇病理学者が読んだらいったいどんな反応を示すのだろうか。前世紀から今世紀に至るまで精神病理学者は癲癇を科学的な実験を繰り返しながら、その原因の解明と治療方法を模索してきた。癲癇病理の複雑なメカニズムを解明するためにどれほど多くの脳科学者が実験を積み重ねてきただろうか。しかしマルコ福音書によればことは実に簡明である。イエスによれば、信仰さえあれば〈唖、聾の鬼気〉(癲癇の汚れた霊)を追い出すことができる。癲癇は自然科学的な治療法などによらなくても、確固たる信仰さえ持てばたちまち回復するということになる。世界中の精神医学者に、わたしはこのマルコ福音書のイエスの言葉と行為(奇跡)をどう思うか聞いてみたいと思うほどである。

 いずれにせよ、マルコ福音書のイエスは父親に連れてこられた〈おしとつんぼの霊に憑かれた息子〉を「この子から出て行きなさい」の一言で救い出してしまう。同時にイエスは「二度と、はいってはいけない」とも命じているので、この息子は二度と癲癇発作に襲われることはなかったことになる。イエスは〈汚れた霊〉に対する圧倒的な力を持っており、〈汚れた霊〉はイエスの命令に従うほかはなかった。このイエスの力は、弟子たちにはなく、弟子はイエス一行を取り囲んでいた群衆と同じく、イエスからみれば依然として真の信仰に至りついていない。イエスの言葉を文字通り受け止めれば、イエスと同じ信仰を持っていれば、イエスと同様に〈汚れた霊〉を息子から追放できたことになる。

 わたしは若い頃、福音書岩波文庫で読んで、イエスの弟子たちに対する苛立ちをしばしば感じた。わたしはイエスと弟子たちのあいだに横たわるどうしようもない深淵、せばまることのない距離を強く感じ、そういったイエスと弟子たちの関係を〈実存の異時性〉と名付けた。物理的には同じ空間と時間を共にしていながら、イエスと弟子たちは〈実存の同時性〉を獲得することができないのである。イエスの選んだ十二人の男弟子たちはただ一人の例外もなく、生前(十字架上で息を引き取るまで)のイエスの言葉を信じた者はなく、みな例外なく裏切る者でしかなかった。

 ここに出てくるイエスは果てしない同情憐憫の心は持っていても、病人を救済することのできない無力な存在ではない。イエスは癲癇発作に襲われる子供をその病から救い出すことのできる、すなわち〈奇跡〉を起こすことのできる大いなる神秘的な力を備えた聖者として登場している。わたしはキリスト者ではないから、福音書に記述された事柄に様々な疑問を持っている。荒野で石をパンに変えろという悪魔の誘惑を拒んだイエスが、どうしてここでは弟子や群衆の前で奇跡を起こすのか。ある時は奇跡を拒み、ある時は奇跡を起こす、イエスの言葉と行為に一貫性がない。このイエスの非一貫性をキリスト教を信じる者たちはどのように理解し、受け入れているのだろうか、ふしぎでたまらない。

 さて、この辺でロジオンのネヴァ河幻想に戻ろう。もし、ロジオンの掌に握りしめられていた〈二十コペイカ銀貨〉がまさしく〈キリスト〉としての力を発揮していたなら、ロジオンの眼前に現出した幻想的光景はたちまち消え失せたのであろうか。小説で描かれた現実においては、ロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉(キリスト)と共にありながら、〈唖、聾の鬼気〉(汚れた霊)に取り憑かれてしまったことになる。結果として、ロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉(キリスト)をネヴァ河に投げ捨ててしまう。

 今度はこちらが幻想を視ることにしよう。確かにロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉をネヴァ河に放り投げ、その瞬間、彼は自分が世界から、人間社会から切り離されたように感じる。もはやロジオンは自殺することもできなければ、再生することもできない、絶対孤立の境涯に置かれてしまう。が、この直後、ロジオンがネヴァ河に背を向けて歩き去っていく後ろ姿を、ネヴァ河の河底から上昇した〈二十コペイカ銀貨〉が、ネヴァ河の上空に〈キリスト〉として現出し、静かに慈愛溢れる眼差しで見送っている。これがわたしの視た幻想だ。が、これは幻想であるから、たちまち雲散霧消してしまうことになる。

 

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清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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目次

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載9)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

    商家の女房から恵まれた〈二十コペイカ〉は単なる〈大枚〉ではなく〈キリスト〉の隠喩でもある。つまり、ロジオンはここで〈キリスト〉を投げ捨ててしまっている。そのことでロジオンはすべての人と物とから切り捨てられた存在と化すのである。しかし、それにしてもなぜロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉の代わりに自分自身をネヴァ河に投じなかったのであろうか。世界と断絶し、すべての人たちから切り離されてしまったロジオンは以後、どのような生を生きることができるというのであろうか。

 ロジオンは二人の女を殺した後で、はっきりと自分が〈非凡人〉ではないこと、〈踏み越え〉をする能力、才能がなかったことを認識する。ロジオンは自分が殺したアリョーナ婆さん以上に社会のゴミ、虱であることをにがにがしい思いで受け入れざるを得ない。そのくせ、自分の犯した犯罪に罪意識を感じることができない。ロジオンが今や恐れているのは、犯人が特定され逮捕されることである。ロジオンの犯行後の苦しみを、殺人に対する良心の疼きに求める読者は多いが、だまされてはいけない。

 実際に二人の女に斧を打ち下ろすことのできたこの青年は、アリョーナ婆さんにはもちろんのこと、リザヴェータに関してもいっさい懺悔していないことを忘れてはいけない。ロジオンはソーニャの前で、リザヴェータ殺しの犯人を〈打ち明け〉ているが、自分の罪を悔いて告白しているのでも懺悔しているのでもない。ロジオンは〈非凡人〉ではなかったが、〈凡人〉にもなれなかった青年だったのである。こういった厄介きわまる青年を作者は描いたわけだが、エピローグでのロジオンの〈回心〉は、わたしの目には作者がきれいごとの次元で厄介払いをしたようにも思える。

 ロジオンは〈神〉に唆されたというよりは、あるいは〈悪魔〉に唆されたというよりは、〈神と悪魔〉に唆された存在に見える。ヨブが神と結託した悪魔に試みられたようにである。

  わたしの目には、ロジオンの手から投げ出された小さく軽い〈二十コペイカ銀貨〉の飛ぶ姿が見える。放物線を描いてネヴァ河へと沈んでいった〈二十コペイカ銀貨〉がどこにその身を隠しているのかも分かる。わたしは小説を読むということは、作者が描かなかった場面をも透視できなければ本当に読んだとは言えないと思っている。ロジオンはこの時、確かに〈キリスト様〉を投げ捨ててしまったのだ。もし、ロジオンが、作者がエピローグで書いたように真実、復活の曙光に輝いたと言うのなら、自ら投げ捨てた〈二十コペイカ銀貨〉をネヴァの河底に潜って回収してこなければならないだろう。わたしは冗談でなくそう思っている。

 わたしは『罪と罰』のエピローグを何十回も読み返しているが、そこにロジオンの〈回心〉の姿は描かれていない。つまりロジオンは作者によって「思弁の代わりに命が到来した」と書かれていても、二人の女を叩き殺したことに依然として〈罪の意識〉を覚えてはいないということである。ロジオンは殺したアリョーナ婆さんはもとより、ただ目撃者として現れたリザヴェータを殺したことに関しても〈罪の意識〉を感じてはいないのである。罪の意識に襲われていないロジオンに懺悔や回心があるわけはなかろうというのがわたしの考えである。言い換えるなら、ロジオンの〈思弁〉(диалектика)はエピローグを書いた作者の力量をもってしてすら、〈命〉(жизнь)に代えることはできなかったということである。

 ドストエフスキーが『罪と罰』本編で描いたロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは、作者の手に負えないほどに、ある意味、巨大な怪物なのである。わたしが、執拗に問題にしているのはこの怪物なのであって、スヴィドリガイロフの援助でシベリアまでロジオンを追ってきたソーニャによって救済されるような青年ではないのである。

 なぜ、ロジオンはキリスト様のお恵みである〈二十コペイカ銀貨〉を握りしめながら、そのキリスト様の力によって救済されなかったのか。ロジオンはもはやキリストの力によってさえどうすることもできない地点にまで追いやられているのか。わたしが先に引用した場面で(中略)とした箇所に一つの謎を解く鍵があるように思える。

 

   いつもこの壮麗なパノラマが、なんともいえぬうそ寒さを吹きつけて来るのだった。彼にとっては、この花やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気にみちているのであった……彼はそのつど、われながら、この執拗ななぞめかしい印象に一驚を喫した。そして、自分で自分が信頼できないままに、その解釈を将来へ残しておいた。ところが、いま彼は急にこうした古い疑問と怪訝の念を、くっきりとあざやかに思いおこした。そして、今それを思い出したのも、偶然ではないような気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止まったという、ただその一事だけでも、奇怪なありうべからざることに思われた。まるで、以前と同じように思索したり、ついさきごろまで興味を持っていたのと同じ題目や光景に、興味を持つことができるものと、心から考えたかのように……彼はほとんどおかしいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去いっさいが――以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかもが見え隠れに現われたように感じられた……彼は自分がどこか高いところへ飛んで行って、凡百のものがみるみるうちに消えて行くような気がした……(125)

 

 人知ではとうてい計り知れぬような光景の出現、ロジオンが眼前に見るのはまさにこれである。ネヴァ河幻想と呼ばれるこういった光景をドストエフスキーが最初に描いたのは初期作品の『弱い心』においてであった。わたしは大学の一年時でドストエフスキーの長編小説の批評を書き終え、ドストエフスキーとはおさらばするつもりでいたのだが、処女作『貧しき人々』から順番に批評をすることになって、結局、ドストエフスキーから抜け出せなくなった。

 『弱い心』は同じアパートに住むワーシャ・シュムコフとアルカージイの物語だが、弱い心の持ち主であるワーシャは、陽気でお節介焼きのアルカージイの度を越した介入を拒むことができずに発狂してしまう。善意に基づく過度のお節介が、相手をどれほど精神的に追いつめるかの見本のような物語である。アルカージイがワーシャに与えた自分の〈罪〉をどこまで自覚したかは不明だが、ワーシャが精神病院に送られた後、橋の上で体験するのが、ここに引用したのと同様のネヴァ河幻想である。

 ペテルブルクというフィンランドの沼地に建造された人工的な都市は、ヨーロッパに開かれた文化の窓であると同時に軍事的要塞をも兼ねていた。この都市は世界一美しい幻想的な人工都市であり、そこに住む人たちを狂気へと誘う官僚的な要素を持っていたとも言われる。ワーシャ・シュムコフの発狂はこの人工的・官僚的なペテルブルクという都市を抜きにしては語れないが、しかしそれ以上にわたしは同宿人アルカージイのお節介にあったと思っている。アルカージイの罪深さは、彼がまったく自分のお節介、ワーシャの心の領域に無遠慮に踏み込んでいくことに対する反省がないことである。

 ドストエフスキーの描く善人にはこういったタイプが多い。『虐げられた人々』のアリョーシャ・ワルコフスキーがそうだし、代表的なのは『白痴』のムイシユキン公爵である。ドストエフスキーほど純粋無垢な人物の破壊的な毒を描いた作家はいないかも知れない。ドストエフスキーの描く人物に限らず、善や正義を絶対と信じる純な人間ほど恐ろしい残酷な行為に走るのだということを、多くの者がきちんと認識したほうがいい。

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載8)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 もう一つ、『罪と罰』における硬貨のことで、じっくり見ておきたい場面がある。ロジオンは〈三日目〉に最初の〈踏み越え〉(アリョーナ婆さんとリザヴェータ殺し)を成し遂げ、翌日の〈四日目〉、警察署から呼び出しを受け、逮捕を覚悟する。しかし未だ警察はロジオンを犯人と特定してはいなかった。呼び出しは、女将から借りていた百十五ルーブリの借用証書の件であった。ロジオンはラズミーヒンのアパートに立ち寄った後、ニコラエフスキー橋をぼんやり歩いていると、いきなりほろ馬車の御者に鞭で背中を打たれる。ロジオンは激しい憤怒に震え憎々しげに歯ぎしりするが、周りにいた群衆はどっと大声で笑い「いい気味だ!」「どっかのやくざ野郎よ」と罵倒される。酔っぱらいの振りした〈当たり屋〉と間違えられたのである。その後の叙述場面を引用する。

 

  けれどそのとき、彼はまだ依然として欄干のそばに立ったまま、背中をさすりながら、しだいに遠ざかって行く馬車の後ろを、無意味な毒々しい目つきで見送っていたが、ふとだれかが手に金をつかませるのに気がついた。見るとそれは頭巾をかぶって山羊皮のくつをはいたもう年ぱいの商家の女房で、そばには帽子をかぶって緑色のパラソルを持った女の子がいた。たぶん娘なのであろう。『取っておくんなさいよ、お前さん、クリストさまのためにね』彼は受け取った。ふたりはそのまま通りすぎた。金は二十コペイカ銀貨だった。身なりと全体の様子で、ふたりは彼をまったくの乞食、街頭における本物の袖乞いと思いこんだらしい。大枚二十コペイカ奮発したのも、あのむちが女に惻隠の情をおこさせたからにちがいない。(124)

  

 商家の女房がロジオンの手に握らせた〈二十コペイカ銀貨〉(двугривенный)とはどのようなものだろう。わたしはこの場面を読んで無性に〈二十コペイカ銀貨〉が欲しくなった。そこで前から欲しいと思っていた〈一ルーブリ銀貨〉と共に入手することにした。幸いにしてヤフオクで〈一ルーブリ銀貨〉二枚と〈二十コペイカ銀貨〉一枚を落札することができた。届いた〈一ルーブリ銀貨〉は二枚だけだが、三十枚あるつもりで、同時に身売りしたソーニャの気持ちになったり、カチェリーナの顔をのぞき込むような感じで、何度もテーブルに並べてみたりした。さて〈二十コペイカ銀貨〉だがこれは思ったよりずいぶんと小さく、軽かった。右掌に乗せて、思わず「こんなに小さいのか、だったらロジオンの手の中にすべりこませることもできるな」と呟いた。

1ルーブリ銀貨1832年35㎜20.73g 1860年  20コペイカ銀貨22mm3.5g

    彼は二十コペイカ銀貨をてのひらに握りしめて、十歩ばかり歩いてから、宮殿の見えるネヴァ河流れへ顔を向けた。空には一片の雲もなく、水はほとんどコバルト色をしていた。それはネヴァ河としてめずらしいことだった。寺院のドーム(円屋根)はこの橋の上からながめるほど、すなわち礼拝堂まで二十歩ばかりへだてた辺からながめるほど、あざやかな輪郭を見せるところはない。それがいま燦爛たる輝きを放ちながら、澄んだ空気をすかして、その装飾の一つ一つまではっきりと見せていた。むちの痛みはうすらぎ、ラスコーリニコフは打たれたことなどけろりと忘れてしまった。ただ一つ不安な、まだよくはっきりしない想念が、いま彼の心を完全に領したのである。彼はじっと立ったまま、長いあいだひとみをすえて、はるかかなたを見つめていた。ここは彼にとってかくべつなじみの深い場所だった。彼が大学に通っている時分、たいていいつも――といって、おもに帰り途だったが――かれこれ百度ぐらい、ちょうどこの場所に立ち止まって、真に壮麗なこのパノラマにじっと見入った。そして、そのたびにある一つの漠とした、解釈のできない印象に驚愕を感じたものである。(中略)彼は思わず無意識に手をちょっと動かしたはずみに、ふとこぶしの中に握りしめていた二十コペイカをてのひらに感じた。彼はこぶしを開いて、じっと銀貨を見つめていたが、大きく手をひと振りして、水の中へ投げ込んでしまった。それから踵を転じて、帰途についた。彼はこの瞬間、ナイフかなにかで、自分というものをいっさいの人と物から、ぶっつり切り放したような思いがした。(124~125)

 

 〈二十コペイカ銀貨〉はここでは〈大枚〉と言われている。商家の女房の慎ましい心優しさが伝わってくる。彼女が連れていた〈緑色のパラソルを持った少女〉は明らかにキリストの隠喩として現れており、女房が口にした『取っておくんなさいよ、お前さん、クリストさまのためにね』(江川卓訳では「さっ、取っときなさい、キリストさまのお恵みだよ」、原典では《Прими, батюшка, ради Христа》)と連動している。ロジオンの側にはいつも〈神〉と〈悪魔〉が連れ添っている。

 ところでロジオンは〈二日目〉、酔っぱらいの少女の警護のために警察官に二十コペイカ銀貨を与えている。その日の食費にも難儀しているロジオンではあるが、後先考えずに金を放出する傾向がある。それにしても二日前に少女のために使った二十コペイカが、おもわぬところで再びロジオンの手に戻ってきたというのに、しかもその金はただの金ではない、信心深い商家の女房の手を経たキリスト様のお恵みであるにもかかわらず、ロジオンはその銀貨をネヴァ河へ放り投げてしまうのである。

 ロジオンがアリョーナ婆さんの頭上に斧を振り上げた時、その振り上げた斧を押さえる大いなる力はどこからも働かなかった。もしこの時、斧を押さえる力が働いていれば、ロジオンは殺人を犯さなくてもすんだはずである。いったいだれがなんのために、ロジオンに斧を振り下ろさせたのか。まさか〈神〉がロジオンの〈踏み越え〉に加担しているわけはなかろう。否、はたしてそう断言できるのか。

 わたしの不信と懐疑は果てしなく続く。『罪と罰』は小説である。神を持ち出さなくても、主人公の運命を支配統治しているのは作者に他ならない。それなら、ロジオンに斧を振り下ろさせたのは作者ということになる。作者と神の問題は複雑で簡単に言い切ることはできないが、しかし作者がロジオンの〈踏み越え〉を通して、神そのものを深く問うていたことは確かであろう。作者はロジオンに斧を降り下ろさせた。わたしの批評は、ロジオンの斧を押さえる方に向いている。だからこそ、ここでも、つまりロジオンがキリスト様から恵まれた〈二十コペイカ銀貨〉を投げ捨てたこの場面に立ち止まらざるを得ないのである。

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載7)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 さて、今回わたしがクローズアップして見せたい場面は、帰ってきたソーニャがカチェリーナを眼前にして、テーブルに銀貨三十枚を一枚、一枚……最後の三十枚まで並べるシーンである。

 先に引用したマルメラードフの言葉をもう一度見てもらいたい。マルメラードフはソーニャが一ルーブリ銀貨三十枚の並べ方などにこだわっていない。こだわったのはわたしである。ソーニャは設定上娼婦であるが、一般的なイメージとしては〈聖なる処女〉である。ロジオンの要請に応えて〈ラザロの復活〉場面を朗読するソーニャは、まさに彼女自身が人類の全苦悩を背負ったキリストのように輝いている。しかしわたしはソーニャを設定された娼婦としてもきちんと見ていかなければならないと考えている。ソーニャを形而下的次元で見れば、彼女は文字通り、イヴァン閣下に身売りし、その対価として銀貨三十枚を得たことになる。処女ソーニャがどのような思いで身を売ったか、その口には出せない思いを深く胸に沈めて、ソーニャはカチェリーナの前で銀貨三十枚を一枚一枚並べていくのだ。一度、このようにこの場面をイメージしてしまうと、このイメージから脱することは容易ではない。

 肉体を持ったソーニャを余りにもきれいごとの世界に置き去りにすることはわたしにはできない。ソーニャが聖女として読者の脳裡に刻印されてしまうのは、作者がソーニャの淫売稼業の実態を完璧に描かなかったことによる。もし作者が、ソーニャの最初の身売りの場面や、黄色い鑑札を受けて淫売稼業の泥沼を生きるソーニャの紛れもない現実を描いていれば、ソーニャに対する印象はだいぶ違ってくるのではないかと思う。ソーニャを〈自己犠牲〉〈愛と赦し〉の美しい言葉で覆い尽くすのは、かえって生身のソーニャを見損なうのではないか、十八歳の少女の原寸大の苦しみ、悲しみ、悶えに限りなく寄り添ってみようとすれば、やはり身売りの対価銀貨三十枚は、一枚、一枚、テーブルの上に並べられなければならないのだ。

 その一枚、一枚を、身売りを強制したカチェリーナがどのような思いで見つめていたか、カチェリーナはソーニャの苦しみを自分の苦しみとして受け止めて深い沈黙のなかにたたずんでいる。二人は一家共有の大きな緑色のショールを被って抱き合い、肩をふるわせて泣きつづける。マルメラードフは酒を飲んで酔いつぶれていたのではない。マルメラードフはソーニャの描かれざる三時間の〈踏み越え〉のドラマの〈立会人〉であり、ソーニャの苦悩を共にする者であり、ソーニャとカチェリーナの内的外的やりとりすべての〈目撃者〉なのである。大きな緑色のショールはソーニャとカチェリーナだけを包んでいたのではない。カチェリーナの三人の連れ子、そしてマルメラードフをも包み込んでいるのである。

 この場面はその他、重要な情報が隠されている。純粋無垢なソーニャが純粋無垢な仕事で一日に稼げる金は十五コペイカという話を、ロジオンの母親の手紙に重ねて読むと、そこにプリヘーリヤの秘密が隠されている。夫亡き後、二人の子供を育てあげた、リャザン県ザライスク村一番の美人と推測される未亡人プリヘーリヤの秘密とは何か。年金百二十ルーブリ、年間に稼ぐ内職代が二十ルーブリ、計百四十ルーブリ、日本円に換算して百四十万円の金で、一家三人が暮らしていくのがどんなに大変なことか誰にでも想像がつこう。しかも息子ロジオンはペテルブルク大学法学部に入学している。受験勉強にもそれなりの金がかかったであろう。未亡人が、純粋無垢な仕事(内職)で稼ぐ金とは、要するにソーニャが純粋無垢な仕事で稼ぐ金と同じだということである。ソーニャの場合は、イヴァン閣下への身売りと、その後の淫売稼業によってマルメラードフ一家の経済を支えることになるが、プリヘーリヤの場合はどうだったのかということである。

 結論だけ先に言おう。プリヘーリヤが唯一あてにできたのは、亡き夫の友達アファナーシイ・イヴァーノヴィチ・ワフルーシンという名の商人である。この友達は〈добрый человек〉(良い人)と書かれている。ドストエフスキーが人物を〈божий человек〉(生神様)とか〈добрый человек〉(良い人)などと賛美した時には要注意なのである。イヴァン閣下の場合のように、慈悲深いお方が、実は貧しい家の処女を食い物にする淫蕩漢であったように、〈良い人〉アファナーシィもとんでもないくわせ者であった可能性が高い。描かれた限りでは、彼はプリヘーリヤの年金証書を担保にロジオンに仕送りする金を貸しているが、かつての友人の妻に担保をとらなければ金を貸さないような男を〈良い人〉などと呼ぶ必要はない。彼もまた、当時社会を支配していた高利主義的経済原則に忠実なだけの〈商人〉にすぎない。

 こういう説を荒唐無稽なずいぶんと勝手な解釈と思う読者ならびにお堅い研究者がいることは容易に想像できるが、しかし謙虚にテキストを掘り下げていけば、作者が予め仕掛けておいた〈謎〉であったことに気づかざるを得ない。まずヒントはこの商人ワフルーシンの名(アファナーシイ)と父称(イヴァーノヴィチ)にある。この名と父称を反対にするとイヴァン・アファナーシエヴィチ、すなわち淫蕩閣下イヴァンのそれになる。商人ワフルーシンの肖像が一挙に〈良い人〉から〈淫蕩漢〉に変換することになる。

 因みにワフルーシンの名が最初に登場するのはプリヘーリヤの手紙においてであった。が、そこにはどういうわけか名がワシーリイと書かれていた(ワシーリイという名は『罪と罰』創作ノートの段階では主人公の名前であった)。このワシーリイという名を〈アファナーシイ〉に変えたのがドストエフスキー10巻全集(1957年)を編纂したロシアの著名な研究者たち(グロスマン、ドリーニン、エルミーロフ、キルポーチン、ネチャーエフ、リュリコフ)であった。

10巻全集第5巻モスクワ

 『罪と罰』全編を読み通せば、確かに商人ワフルーシンの名は〈アファナーシイ〉に統一した方がよいように思える。しかし、わたしは作者ドストエフスキーが敢えてプリヘーリヤの手紙の中でのみ〈ワシーリイ〉と書いた点に、作者からの信号(この男に注意せよ)を受け取る。そして、商人ワフルーシンを〈淫蕩漢〉と見たとき、プリヘーリヤは息子ロジオンの仕送りのために〈年金証書〉以外のものをも担保として提供していたと見ることもできるのである。ドストエフスキーは残酷な才能の持ち主と言われているが、しかしその〈残酷〉を目の当たりにする読者は希である。プリヘーリヤは手紙の中で、ロジオンに何一つ隠すことなくすべてを書くといっているが、肝心要の〈担保〉に関しては完璧に沈黙を守っている。ロジオンが母のその秘密を知っていたかどうかについては、作者もまた完璧に沈黙を守っている。

 

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モーパッサン『ベラミ』を読む(連載6)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ところで、わたしが作品中の〈金銭〉にこだわるのは、『罪と罰』の中に重要な場面があるからである。ここでは二つの場面を見ておきたい。まず一つ目はマルメラードフの告白話に出てくる。ソーニャが最初の〈踏み越え〉、すなわち継母カチェリーナに強制されて身売りに出かけて行く場面である。ロジオン相手のマルメラードフの声にじっくり耳を傾けてみよう。ちなみに『罪と罰』からの引用は、特に断らない限り米川正夫訳(河出書房新社版世界文学全集18)に拠る。

 

 「ところで学生さん、こんどはわたしのほうから、ついでに質問を提出することにしますが――どうですあなたのご意見は? 貧乏な、けれど純粋無垢な娘がですな、純粋無垢な働きで、どれだけのかせぎができましょうぞ?……正直一方ではありながら、かくべつ腕に覚えもない小娘風情では、手も休めずに働いたところで、日に十五コペイカはむずかしいですからなあ! 五等官のクロプシュトック、イヴァン・イヴァーノヴィチ――お聞きでがすかな?――この人なんかワイシャツ半ダースの仕立代をいまだによこさんばかりか、やれえりの寸法が違うの、やれ形がゆがんでるのと難くせつけ、地だんだ踏みながらあくたいまでついて、あれを無法に追いかえしてしまいました。ところが子供たちはひもじがっているし……カチェリーナは手も折れよとばかりもみながら部屋じゅう歩きまわっておりましてな、しかもほっぺたには赤いしみができておる――この病気にはえてありがちなやつで。カチェリーナを娘をつかまえて、『このごくつぶし、お前はただで食って飲んで、ぬくぬくとすましているね』とやるんでがす。ところが、小さいやつらまで三日ぐらい、パンの皮一つ見ずにおるのに、飲むも食うもあったもんじゃごわせん! その時わしは寝ておりましたよ……いや、おていさいをいったってしようがない! 酔っぱらって寝ておったんで――そして、ソーニャのいうことを聞いておると(それは口数の少ない娘でがす……白っぽい毛をして、顔はいつも青白くやせておる)、それがこういうのでがす。『じゃ、なんですの、カチェリーナ・イヴァーノヴナ、わたしどうしてもあんなことをしなくちゃなりませんの?』というのは、ダーリヤ・フランツォヴナといって、たびたび警察のごやっかいになった性わる女が、主婦さんをつうじて、もう三度ばかりも口をかけてきたことがあるので。『それがどうしたのさ』とカチェリーナは鼻の先でせせら笑って、『何をたいせつがることがあるものかね? 大した宝ものじゃあるまいし!』という返事でがす。だが、あれを責めないでくださいよ。責めないでね、あなた、責めないで! これは落ちついた頭でいったんじゃない。感情がたかぶって、おまけに病気で、飢えた子供らの泣き立てる中でいったことで、ほんとうの言葉の意味よりか、まああてつけにいったことなんでがすからな……なにせカチェリーナはそうしたたちなんで、子供たちが泣きだせば、よしんばひもじくて泣くのでも、すぐひっぱたくというふうでしてな。ところで、五時過ぎになると、ソーネチカは立ちあがりましてな、ショールをかぶって、マントをひっかけ、そのまま家を出て行きましたが、八時過ぎに戻って来ました。はいるといきなり、カチェリーナのところへ行って、黙って三十ルーブリの銀貨をその前のテーブルへならべました。しかも、何ひとつ口をきかないどころか、見やりもしないで、ただ大きな緑色のドラゼダームのショールを取ったと思うと(うちには皆で共同に使うショールがあったのでがす、ドラゼダームのがね)、それで頭と顔をすっぽり包みましてな、壁のほうを向いてベッドへ倒れてしまいました。ただ肩とからだがのべつふるえているばかり……ところでわしは、やはり前とおなじていたらくで寝ておりましたが……そのときわしは見ましたよ、なあ、学生さん――やがてカチェリーナが、これもやはり無言で、ソーニャのベッドのそばへ寄りましてな、一晩じゅうその足もとにひざをついて、足に接吻しながら、いっかな立とうとしない――それをわしは見たんでがす。やがてふたりはそのままいっしょに寝てしまいました、じっと抱き合ったままでな……ふたりとも……ふたりとも……ところがわしは……酔っぱらったままごろごろしておったので」(19~20)

 

 『罪と罰』に関しては何度も批評しているし、この場面だけに関しても何度も考察を繰り返している。ドストエフスキーのテキストは一筋縄ではいかず、何度読み返していてもそのたびに何らかの新しい発見がある。今回は特にソーニャの身売り金〈三十ルーブリの銀貨〉をめぐっていろいろと考えてみることにしたい。

 『地下生活者の手記』の地下男が、自分のアパートを訪ねてきた娼婦リーザに支払った金は緑色の五ルーブリ紙幣である。リーザはその金を受け取らず、吹雪の外へと駆けだして行ってしまう。この辺のこみいった関係についてはわたしの『地下生活者の手記』論を読んでもらうことにして、ここでは〈五ルーブリ紙幣〉に注意しておこう。つまり額面〈三十ルーブリ〉なら、五ルーブリ紙幣六枚でもよかったということだ。〈三十ルーブリの銀貨〉の内訳はどうなのか。当時、流通していた〈一ルーブリ銀貨〉三十枚ということなのか。数字〈三十〉はイスカリオテのユダがキリストを売った銀貨〈三十〉枚と関連づけられる。だとすれば、銀貨十枚でも二十枚でもダメなわけで、強いて言えば〈三十〉を数秘術的減算して〈三〉と見なせば銀貨三枚はありだが、それでは余りにも少ない額ということになってしまう(一ルーブリ=一万円だと三万円で、地下男が提供した五ルーブリより安いということになってしまう)。

 マルメラードフはソーニャが身売りした相手を口にしていないが、わたしはイヴァン・アファナーシェヴィチ閣下と踏んでいる。マルメラードフの表面的な言い方によれば〈божий человек〉(江川卓は〈生神様〉と訳している)であるイヴァン閣下こそが、ペテルブルク中でだれ一人知らない者がいないほどの〈淫蕩漢〉であったということである。この淫蕩な高位高官とつるんで、ペテルブルクの貧しい家の処女を提供していたのが、作中に名前だけ出ていてその姿をついに現すことのなかった女衒ダーリヤ・フランツォヴナである。この女衒と家主アマリヤは裏で通じており、以前から極貧家族マルメラードフ一家の長女ソーニャに目を付けていたのである。つまり、ダーリヤとアマリヤとカチェリーナの間で、ソーニャはイヴァン閣下に〈三十枚の銀貨〉で身売り契約が済んでいたということである。知らなかったのは『罪と罰』の読者ばかりで、世界中の読者が百五十年の長きにわたってソーニャ売春劇(ソーニャの最初の〈踏み越え〉劇)の実態を封印されていたということである。ソーニャがアパートを出たのは〈五時過ぎ〉(第六時=五時から六時の間)で、戻って来たのは〈八時過ぎ〉(第九時=八時から六時の間)である。数字の象徴性で言えばソーニャの〈踏み越え〉は〈六~九〉の間に行われたことになる。

 さて、高位高官のイヴァン閣下は、銀貨三十枚でなく、五ルーブリ紙幣六枚で支払ってもよかったはずである。しかし、作中では明かされなかった〈身売り契約〉、ないし〈口約束〉での支払いは、紙幣ではなくあくまでも〈三十枚の銀貨〉となっていたのかもしれない。当時の一ルーブリ銀貨は一ルーブリ紙幣の三、五倍ほどの価値を持っていたと言われる。マルメラードフの給料二十三ルーブリ四十コペイカが紙幣で支払われていたとすれば、ソーニャのたった一回の〈踏み越え〉料金は〈三十×三、五=一〇五〉で紙幣に換算すると百ルーブリを越えることになる。

 

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──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

  『罪と罰』の舞台は七月初めの異様に熱い日の夕方、一人の青年が屋根裏部屋から通りに出て思い惑いながらК橋の方へ向かって歩いていくところから始まっていた。一八六五年のペテルブルクの夏(七月初め)は木陰でも三十度近くの酷暑であったと伝えられているが、『ベラミ』の舞台となったパリの〈六月二十八日〉はどうだったのであろうか。西暦が明確になれば、当時の新聞の記録などみれば正確な気温が分かるかもしれない。

 二十八日現在、ジョルジュの所持金は〈三フランと四十サンチーム〉ということであるから、〈1フラン=2000円〉とすると日本円で六千四百円に相当する。月末の三十日に給料が支払われるまで、この金で飲食費を賄わなければならないというわけだ。しかし、細かい点、たとえば給料は月末の退社時間に与えられたのか、それとも出社時に与えられたのか、月末が休日の場合は前日に支払われたのか、そういう点にこだわり始めると逆に正確なイメージを持ちにくくなる。六千四百円で二日賄うのか、三日賄うのかでも、金の持つリアリティは異なってくる。というわけで、ここでも細かな点に関しては、専門家の考察に委ねることにしよう。なにしろフランス文化に関するど素人のわたしは〈1サンチーム〉硬貨が存在していたのかどうかさえ知らなかったのであるから。

    急遽、「フランスフラン」をネットで調べると「最初のフラン硬貨は1サンチーム・5サンチーム・1ドゥシーム・2ドゥシーム(以上銅貨)、1/4フラン・1/2フラン・1フラン・2フラン・5フラン(以上銀貨)、20フラン・40フラン(以上金貨)が発行されていた。ただし、1801年から1848年の期間、銅貨は発行されず、1/4フランが最小価値の硬貨であった。この時期は、フラン以前に流通していた銅貨が、1スー=5サンチームとして通用していた。/1848年には青銅貨が作られはじめ、1853年からは1サンチーム・2サンチーム・5サンチーム・10サンチームの硬貨が発行されるようになった。この時1/4フランはなくなり、代わりに1849年から1868年までは20サンチーム銀貨が発行されていた。さらに金貨にも変化があり、40フラン硬貨が消えて、5フラン・10フラン・50フラン・100フラン硬貨が導入された。5フラン金貨は1869年、5フラン銀貨は1878年を最後に発行が終わった。1903年には25フランニッケル貨が作られるようになった」とある。

 ついでに紙幣に関する記事も見ておこう。次のように書かれている「最初に登場したフランの紙幣は1795年にアッシニアとして発行された100フラン・10,000フランである。翌1796年には25フランから50フランのものが、さらに100フランのものが発行された。/1800年、この年に設立されたフランス銀行がフラン紙幣の発行を開始する。この時は500フラン・1,000フランの2種類であった。1840年代に100フラン・200フラン紙幣が追加され、1860年代から1870年代にかけて5フラン・20フラン・50フランが加わるが、200フランは発行されなくなった」。ちなみに〈アッシニア〉に関しては「1789年12月19日から1796年3月10日までの間、フランス革命期のフランスおよびその姉妹共和国で使用された紙幣である」と書かれている。

〈ドゥシーム〉に関しては「フランは十進法で1フラン=10ドゥシーム=100サンチーム」とあるから〈1ドゥシーム=10サンチーム〉となるが、ドゥシーム硬貨が存在しなかったのであれば、〈10サンチーム〉を〈1ドゥシーム〉、〈20サンチーム〉を〈2ドゥシーム〉と呼んでいたのだろうか。

 十九世紀パリで発行されていた硬貨と紙幣が分かったので、ジョルジュの所持金〈三フランと四十サンチーム〉の内訳は〈1フラン銀貨〉三枚と〈10サンチーム硬貨〉が四枚の計七枚と想像できる(1/4フラン・1/2フラン・1フラン・2フラン銀貨〉の組み合わせで〈三フラン〉の内訳を考えると面倒なので、とりあえずこのように見なしておく)。ジョルジュが食事代として〈5フラン硬貨〉一枚を差しだし、お釣りにいくらもらったのか明記されていないので、食事代がいったいいくらだったのか分からない。いずれにしてもジョルジュの所持している小銭に必要以上にこだわっていると、こちらの頭が小銭並にジャラジャラしてくるのでこのへんでやめておこう。

 

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──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 ドストエフスキーの作品を読み続けてきた者にとって、モーパッサンのジョルジュの描き方が新鮮で面白い。生まれつき男ぶりのいいジョルジュの立ち居振る舞いが興味深い。こういった男は自分が周囲の者、特に女たちからどのように見られているかを不自然でなく意識し、それに対応することができる。日本の言葉で言えば、要するに嫌みでなく粋な対応ができるというわけだ。勘定の場で、つまり去りゆく場で、ぐっと反り身になり、軍人風の慣れた手つきで口髭をひねって、残る客たちをすばやくぐるりと見まわすことなど、安レストランのふつうの客がするワザではない。こういった行為をさりげなく出来るジョルジュは、ふだんから他者の眼差しを意識し、そういった術を身につけているということである。

モーパッサンは「まるで投網のようにパァーッとひろがる美男の独身者に独特の視線だった」と書いている。〈投網の眼差し〉などという表現をわたしは今まで読んだことがない。モーパッサンはこういったまさに彼独自の表現を使うことで、美男子ジョルジュの〈独特の視線〉を強烈に読者に印象づける。〈投網〉の眼差しで、ジョルジュは後に残った安レストランの魚どもを一挙にとらえ、そしてすべての獲物を置き去りにして立ち去っていくのである。安レストランの常連の下層社会の女たち〈小柄な三人の女工〉〈中年の音楽教師〉〈亭主同伴のふたりの細君〉……要するに、ジョルジュのお好みの獲物は一匹もいなかったということである。安レストランで安い料理を食し、ポケットにおさまった少額の金を意識しているこの美男子とはいったい何者なのか。作者は、残った客以上に、読者の心をとらえることに成功している。

 ところで、モーパッサンは主人公ジョルジュ・デュロワの〈美男子〉を具体的に描いていない。帽子は被っていたのか、被っていたとすればどのような帽子なのか。上着、ズボン、靴などジョルジュが身につけているものを完璧に省略している。肝心の顔はどうか。髪の色、髪型、額、眉、瞳の色、鼻、口、顎……これらすべてを描いていないので、読者は〈美男子〉という一つの言葉から勝手に美男子ジョルジュの容貌を想像するほかはない。『ベラミ』を映画化した作品を何一つ観ていないので、主役を演じた男優のイメージにとらわれることはない。〈美男子〉と言ってもアラン・ドロンジャン=ポール・ベルモンドではまったく印象が違う。とりあえず、ジョルジュの〈美男子〉をあいまいなままにして徐々にそのイメージを固めていくことにしよう。そのうちカメラがジョルジュの顔をアップにして見せてくれるかも知れない。

 『ベラミ』は出だしの場面からして、主人公の造形の仕方、主人公の容貌とその性格など、読者の好奇心を強く刺激する。次の場面が異様に楽しみになる。では、じっくりと、ゆっくりとさらなる場面を堪能することにしよう。

 

  往来へでると、彼はちょっと足をとめて、これからどうしようと考えた。六月もまだ二十八だというのに、ポケットには、月末までの金が三フランと四十サンチームしか残っていなかった。つまり朝飯を抜きにして夕食を二度くうか、夕飯をあきらめて朝飯を二度くうか、どちらかを選ばなければならないわけだった。そこで、彼は考えた。朝は二十二スーで、晩は三十スーだから、朝飯だけで我慢すれば一フラン二十サンチームの余りがでる。それだけあれば、パンとソーセージの昼飯が二度くえて、おまけに大通りでビールが二杯ひっかけられる。それはいちばん入費がかからずにできる、毎晩の彼の楽しみだった。彼は思案をきめると、ノートル=ダム=ド=ロレット街のほうへおりていった。(291)

 

 ここに記された事細かな金勘定をいちいち検証することはしない。理由は簡単、面倒だからである。同時代の読者にとってはこの数字が頻出する描写で、ジョルジュの食事を中心とした日常生活が具体的にイメージされるだろう。どんなものを食べ、何を飲んでいたのか。それこそ具体的に想像できるだろう。

罪と罰』では高利貸しのアリョーナ婆さんがロジオン相手に細かな利息計算を展開していたが、その金銭に関する容赦のない執着が妙に印象に残っている。十四等官(最も下っ端の役人)の夫を亡くしたアリョーナは生き馬の目を抜くペテルブルクの現実を高利貸しとして逞しく生き抜いている。この、ある意味けなげな老婆に対してロジオンは一片の同情すら抱かず、それどころか醜悪な社会のゴミ、一匹の強欲なシラミぐらいにしか思わなかった。ロジオンには高利貸しアリョーナ婆さんの生きる必然性に対する優しく寛容な眼差しはまったくない。一方、描かれた限りでのアリョーナ婆さんも、いわば商売相手の客に対して人間的な暖かみのある対応がまったくできていない。まさにアリョーナ婆さんは功利主義的経済原則に忠実に従って生きている高利貸しで、相手を見て柔軟に対応することができない。彼女のこの徹底した人間不信がどこから生じたのか、ロジオンも、そして作者にも興味がなかったのか、いっさい言及されることはなかった。

    さてジョルジュだが、彼の関心はとにかく月末までどのようにわずかばかりの金をやりくりして過ごすか、その一点に向けられている。ロジオンは「おれにアレができるだろうか?」と思いまどいながらペテルブルクの街を歩いているが、ジョルジュの頭にあるのは食い物とビールのみと言っていい。このパリの美男子はペテルブルクの美男子と違って、なんら壮大な夢も野心も抱いていなかったのだろうか。ただ美男子だけの知性に欠けた貧乏な青年を主人公に、はたして作者はどんな筋書きを用意しているのか。

 『罪と罰』の出だしの場面は〈七月はじめ〉に設定されている。作者ドストエフスキーは西暦を記さず、正確な日付・曜日を最後の最後まで記すことはなかった。敢えてそれらを記さなかったというとは、それらがこの作品において重要な意味を隠しているわけだが、考察を進めれば進めるほど厄介な迷宮へと踏み迷ってしまう。

 モーパッサンは『ベラミ』の第一日をはっきりと〈六月二十八日〉と書いている。ドストエフスキーと同じく西暦は記していないが、さていずれ判明するものやらどうやら楽しみにしておこう。因みにわたしが『ベラミ』論を書き始めたのは一日違いの二〇二二年〈六月二十七日〉である。今は同年七月一日で、ここ何日間か、日中は三十五度を越す日々が続いている。天候だけを考えれば、今、わたしが『ベラミ』を『罪と罰』と関連づけて批評しているのは何か意味が潜んでいるのかもしれない。わたしにとって偶然は必然であるから、こんなことにも神秘的な思いを馳せることになる。

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