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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載9)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

    商家の女房から恵まれた〈二十コペイカ〉は単なる〈大枚〉ではなく〈キリスト〉の隠喩でもある。つまり、ロジオンはここで〈キリスト〉を投げ捨ててしまっている。そのことでロジオンはすべての人と物とから切り捨てられた存在と化すのである。しかし、それにしてもなぜロジオンは〈二十コペイカ銀貨〉の代わりに自分自身をネヴァ河に投じなかったのであろうか。世界と断絶し、すべての人たちから切り離されてしまったロジオンは以後、どのような生を生きることができるというのであろうか。

 ロジオンは二人の女を殺した後で、はっきりと自分が〈非凡人〉ではないこと、〈踏み越え〉をする能力、才能がなかったことを認識する。ロジオンは自分が殺したアリョーナ婆さん以上に社会のゴミ、虱であることをにがにがしい思いで受け入れざるを得ない。そのくせ、自分の犯した犯罪に罪意識を感じることができない。ロジオンが今や恐れているのは、犯人が特定され逮捕されることである。ロジオンの犯行後の苦しみを、殺人に対する良心の疼きに求める読者は多いが、だまされてはいけない。

 実際に二人の女に斧を打ち下ろすことのできたこの青年は、アリョーナ婆さんにはもちろんのこと、リザヴェータに関してもいっさい懺悔していないことを忘れてはいけない。ロジオンはソーニャの前で、リザヴェータ殺しの犯人を〈打ち明け〉ているが、自分の罪を悔いて告白しているのでも懺悔しているのでもない。ロジオンは〈非凡人〉ではなかったが、〈凡人〉にもなれなかった青年だったのである。こういった厄介きわまる青年を作者は描いたわけだが、エピローグでのロジオンの〈回心〉は、わたしの目には作者がきれいごとの次元で厄介払いをしたようにも思える。

 ロジオンは〈神〉に唆されたというよりは、あるいは〈悪魔〉に唆されたというよりは、〈神と悪魔〉に唆された存在に見える。ヨブが神と結託した悪魔に試みられたようにである。

  わたしの目には、ロジオンの手から投げ出された小さく軽い〈二十コペイカ銀貨〉の飛ぶ姿が見える。放物線を描いてネヴァ河へと沈んでいった〈二十コペイカ銀貨〉がどこにその身を隠しているのかも分かる。わたしは小説を読むということは、作者が描かなかった場面をも透視できなければ本当に読んだとは言えないと思っている。ロジオンはこの時、確かに〈キリスト様〉を投げ捨ててしまったのだ。もし、ロジオンが、作者がエピローグで書いたように真実、復活の曙光に輝いたと言うのなら、自ら投げ捨てた〈二十コペイカ銀貨〉をネヴァの河底に潜って回収してこなければならないだろう。わたしは冗談でなくそう思っている。

 わたしは『罪と罰』のエピローグを何十回も読み返しているが、そこにロジオンの〈回心〉の姿は描かれていない。つまりロジオンは作者によって「思弁の代わりに命が到来した」と書かれていても、二人の女を叩き殺したことに依然として〈罪の意識〉を覚えてはいないということである。ロジオンは殺したアリョーナ婆さんはもとより、ただ目撃者として現れたリザヴェータを殺したことに関しても〈罪の意識〉を感じてはいないのである。罪の意識に襲われていないロジオンに懺悔や回心があるわけはなかろうというのがわたしの考えである。言い換えるなら、ロジオンの〈思弁〉(диалектика)はエピローグを書いた作者の力量をもってしてすら、〈命〉(жизнь)に代えることはできなかったということである。

 ドストエフスキーが『罪と罰』本編で描いたロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは、作者の手に負えないほどに、ある意味、巨大な怪物なのである。わたしが、執拗に問題にしているのはこの怪物なのであって、スヴィドリガイロフの援助でシベリアまでロジオンを追ってきたソーニャによって救済されるような青年ではないのである。

 なぜ、ロジオンはキリスト様のお恵みである〈二十コペイカ銀貨〉を握りしめながら、そのキリスト様の力によって救済されなかったのか。ロジオンはもはやキリストの力によってさえどうすることもできない地点にまで追いやられているのか。わたしが先に引用した場面で(中略)とした箇所に一つの謎を解く鍵があるように思える。

 

   いつもこの壮麗なパノラマが、なんともいえぬうそ寒さを吹きつけて来るのだった。彼にとっては、この花やかな画面が、口もなければ耳もないような、一種の鬼気にみちているのであった……彼はそのつど、われながら、この執拗ななぞめかしい印象に一驚を喫した。そして、自分で自分が信頼できないままに、その解釈を将来へ残しておいた。ところが、いま彼は急にこうした古い疑問と怪訝の念を、くっきりとあざやかに思いおこした。そして、今それを思い出したのも、偶然ではないような気がした。自分が以前と同じこの場所に立ち止まったという、ただその一事だけでも、奇怪なありうべからざることに思われた。まるで、以前と同じように思索したり、ついさきごろまで興味を持っていたのと同じ題目や光景に、興味を持つことができるものと、心から考えたかのように……彼はほとんどおかしいくらいな気もしたが、同時に痛いほど胸が締めつけられるのであった。どこか深いこの下の水底に、彼の足もとに、こうした過去いっさいが――以前の思想も、以前の問題も、以前のテーマも、以前の印象も、目の前にあるパノラマ全体も、彼自身も、何もかもが見え隠れに現われたように感じられた……彼は自分がどこか高いところへ飛んで行って、凡百のものがみるみるうちに消えて行くような気がした……(125)

 

 人知ではとうてい計り知れぬような光景の出現、ロジオンが眼前に見るのはまさにこれである。ネヴァ河幻想と呼ばれるこういった光景をドストエフスキーが最初に描いたのは初期作品の『弱い心』においてであった。わたしは大学の一年時でドストエフスキーの長編小説の批評を書き終え、ドストエフスキーとはおさらばするつもりでいたのだが、処女作『貧しき人々』から順番に批評をすることになって、結局、ドストエフスキーから抜け出せなくなった。

 『弱い心』は同じアパートに住むワーシャ・シュムコフとアルカージイの物語だが、弱い心の持ち主であるワーシャは、陽気でお節介焼きのアルカージイの度を越した介入を拒むことができずに発狂してしまう。善意に基づく過度のお節介が、相手をどれほど精神的に追いつめるかの見本のような物語である。アルカージイがワーシャに与えた自分の〈罪〉をどこまで自覚したかは不明だが、ワーシャが精神病院に送られた後、橋の上で体験するのが、ここに引用したのと同様のネヴァ河幻想である。

 ペテルブルクというフィンランドの沼地に建造された人工的な都市は、ヨーロッパに開かれた文化の窓であると同時に軍事的要塞をも兼ねていた。この都市は世界一美しい幻想的な人工都市であり、そこに住む人たちを狂気へと誘う官僚的な要素を持っていたとも言われる。ワーシャ・シュムコフの発狂はこの人工的・官僚的なペテルブルクという都市を抜きにしては語れないが、しかしそれ以上にわたしは同宿人アルカージイのお節介にあったと思っている。アルカージイの罪深さは、彼がまったく自分のお節介、ワーシャの心の領域に無遠慮に踏み込んでいくことに対する反省がないことである。

 ドストエフスキーの描く善人にはこういったタイプが多い。『虐げられた人々』のアリョーシャ・ワルコフスキーがそうだし、代表的なのは『白痴』のムイシユキン公爵である。ドストエフスキーほど純粋無垢な人物の破壊的な毒を描いた作家はいないかも知れない。ドストエフスキーの描く人物に限らず、善や正義を絶対と信じる純な人間ほど恐ろしい残酷な行為に走るのだということを、多くの者がきちんと認識したほうがいい。

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令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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表紙

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