文学の交差点(連載11) ■〈おしゃべり〉から〈行動〉へ  ――ロジオンが目指した〈アレ〉の秘密――  

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載11)

清水正

■〈おしゃべり〉から〈行動〉へ

 ――ロジオンが目指した〈アレ〉の秘密――  

    ロジオンはプリヘーリヤによってラスコーリニコフ家再建の使命を背負わされた息子であったが、すでに母親の期待に沿う気持ちはなかった。ロジオンは三年前ペテルブルクに上京してきた時点で、母親の呪縛から解放された気分でいたことは、先に指摘したチンメルマン製の丸型帽子やナターリヤとの婚約が端的に示している。が、母親との絆がそうそう簡単に切れるはずもない。ナターリヤが腸チフスで死んだのは一年前だが、大学除籍処分と相まってロジオンの生活は乱れ始める。ロジオンはプリヘーリヤが望んでいたルージンの途、つまり現実の世界で地道に立身出世するという現世的野望を打ち捨てていた。ロジオンの屋根裏部屋での生活そのものが、そのことを端的に示している。

 ロジオンの生活の大半は空想と散策に費やされている。彼が哲学や文学で身を立てるというのなら話は別だが、描かれた限りでみれば彼が〈思弁的生活〉に積極的な意味を見いだすことはなかった。彼には月刊雑誌に掲載されるほどの優れた「犯罪に関する論文」を執筆する能力が備わっていながら、大学教授や文学者になろうとする意志はなかった。彼が望んでいたのは〈おしゃべり〉ではなく行動であった。彼の意識を不断に妖しく刺激し続けていたのは「はたして私にアレができるのだろうか」(Разве я способен на это?」ということであった。彼は、その思いが〈幻想〉(фантазия)であり、一人遊びの観念上の〈игрушка〉(玩具)でしかないことをよく知っている。が、彼は遂に屋根裏部屋の空想家から、〈アレ〉(этоのイタリック体)へと踏み越えてしまう。

 作者がわざわざイタリック体で記した〈アレ=это〉には、当時の検閲官に絶対に看破されてはならない仕掛けが組み込まれていた。つまり〈アレ〉は表層的には〈老婆アリョーナ殺し〉であるが、実はそこには〈リザヴェータ殺し〉や〈皇帝殺し〉、最終的には〈復活〉が隠されていた。いずれにしても、ロジオンはアリョーナ婆さんとリザヴェータを殺したことによって、母親とドゥーニヤとの絆をも断ち切ったのである。

    ロジオンは母親や妹が望む〈すべて〉〈希望の星〉であることをやめて、新たなる者との新生活を選んだ。それでは母親と妹に代わる新たなる者とは誰か。言うまでもない、マルメラードフの告白話の中に登場してきたソーニャである。もしロジオンがソーニャという一家の犠牲になって娼婦にならざるを得なかった娘のことを知らなかったならば、彼の第一の犯行はなされなかったに違いない。ロジオンはマルメラードフの告白を聞いた時点で、犯行の告白の相手にソーニャを選んでいたとわたしは思っている。

文学の交差点(連載10)■未亡人カチェリーナの〈踏み越え〉とソーニャ ■息子ロージャのために身売りする母と妹ドゥーニャ

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載10)

清水正

■未亡人カチェリーナの〈踏み越え〉とソーニャ  

    未亡人カチェリーナ・イワーノヴナは愛も尊敬もないマルメラードフの求婚を受け入れた。なぜなら、この求婚を受け入れなければ幼い子供三人を道連れに一家心中でもするほかはなかったからである。つまりカチェリーナにとってマルメラードフとの結婚は、追いつめられた果てでの〈踏み越え〉であった。この不本意にも〈踏み越え〉せざるを得なかったカチェリーナが、継子となったソーニャに「この穀つぶし、ただで食って飲んで、ぬくぬくしてやがる」「なにを大事にしてるのさ! たいしたお宝でもあるまいに!」と〈踏み越え〉を迫る。カチェリーナに言わせれば、「私も踏み越えたんだからおまえも踏み越えな」というわけである。

 もちろん、カチェリーナは好きこのんでこんな乱暴な口をきいているのではない。彼女がソーニャに〈踏み越え〉を迫る背景には、家主アマリヤからの三度にわたる誘惑があった。アマリヤの背後には女衒のダーリヤ・フランツォヴナがいた。この女衒は『罪と罰』の舞台に名前だけ登場するが、いわばソーニャの〈踏み越え〉の仕掛け人である。おそらくこの女衒はペテルブルク中の淫蕩なる高位高官の名簿を握っており、不断に獲物を物色していたのである。貧しい家の若い処女は、淫蕩漢たちの格好の獲物なのである。ソーニャの処女の対価を銀貨三十ルーブリに決めたのもダーリヤであったのかもしれない。作品において闇取引の実態に証明が当てられることはないので、読者は想像をたくましくするしかない。ソーニャが持ち帰った銀貨三十ルーブリのうちから、カチェリーナは手数料をダーリヤに支払う必要があったのかもしれない。が、どういうわけかアマリヤやダーリヤが納得するような〈挨拶〉がなかったので、ソーニャはアパートから追い出される羽目に追いやられたと考えることもできる。こういった描かれざる領域に想像力を働かせていくと、もう一編の〈小説〉を書かなければならないような気になってくる。

 

■息子ロージャのために身売りする母と妹ドゥーニャ

 さて、プリヘーリヤに戻ろう。プリヘーリヤが愛も尊敬もない〈商人〉アファナーシイと関係を持ったとすれば、それは彼女における〈踏み越え〉にほかならない。プリヘーリヤにとって〈一人息子〉のロージャは〈すべて〉であり〈希望の星〉である。ロージャは百二十年の歴史を持つラスコーリニコフ家を再建しなければならない、そういった使命を持った一人息子なのである。プリヘーリヤはこの息子のためなら身売りさえ厭わない、そういう母親なのである。だからこそ、すでに〈踏み越え〉たカチェリーナがソーニャに〈踏み越え〉を迫ったように、プリヘーリヤもまた娘ドゥーニャに愛も尊敬もない弁護士ルージンとの結婚を迫るのである。 ドゥーニヤは悩みに悩んだ末に母プリヘーリヤの願いを受け入れる。プリヘーリヤが手紙で書いていたように、ドゥーニャにとっても兄のロジオンは〈すべて〉であり〈希望の星〉なのである。賢いドゥーニャはルージンが俗物であることを瞬間的に見抜く。が、ルージンが現実の世界において成功を収めたやり手であることも十分に承知している。ドゥーニャは結婚の相手に尊敬できる男性を選ぶことはできなかった。一家の柱であり杖である兄ロジオンのためなら我が身を犠牲にすることも厭わなかったのである。が、いくら母親に勧められたとはいえ、ドゥーニャがルージンとの結婚を承諾したことは賢明ではなかった。 

文学の交差点(連載9) ■『罪と罰』、その描かれざる性的場面  ――ソーニャとブリヘーリヤの描かれざる〈踏み越え〉――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載9)

清水正

■『罪と罰』、その描かれざる性的場面

 ――ソーニャとブリヘーリヤの描かれざる〈踏み越え〉――

 わたしが近年執筆している『罪と罰』論は、その多くが書かれていない場面についての批評となっている。ソーニャの最初の男は誰か? この疑問に満足のいく答え(解釈)を出すために、ドストエフスキーを読み続けて三十年の歳月を要した。答えはイワン・アファナーシィエヴィチ閣下。マルメラードフの口から〈生神様〉(божий человек)とまで呼ばれた善良な男が、実はソーニャの処女を銀貨三十ルーブリで買った男となれば、今までの『罪と罰』百五十年の〈読み〉の歴史に激震が走ることになる。さらにソーニャがリザヴェータと共に観照派の秘密の会合に参加していたとすると、ソーニャの〈最初の男〉は観照派の男性信徒とも考えられる。ソーニャと肉体関係を結んだ男性信徒は謂わばキリストの化身であるから、そうなるとソーニャの〈最初の男〉はキリストということになる。このように、『罪と罰』は読み方によってはどんどん果てしない領域へと読者を誘っていく。

 マルメラードフの告白にはソーニャとイワン閣下の秘密が埋め込まれていたが、この告白とラスコーリニコフの母親プリヘーリヤの手紙を重ねて読むと、もう一つの恐るべき秘密が浮上してくることになる。プリヘーリヤの夫は妻と二人の子供を残して死んでしまう。ところでこの夫の名前がロマンということは息子ロジオンの父称ロマーノヴィチなので判るが、フルネームは判らず、また何が原因でいつ死んだのかも報告されない。夫のフルネームは報告されないのに、この夫の友人でプリヘーリヤによれば〈いい人〉(добрый человек)のフルネーム(アファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン=Афанасий Иванович Вахрушин)はしっかりと報告される。その場面を引用しておこう。ちなみにプリヘーリヤの手紙は四百字詰め原稿用紙に換算すると三十枚に及ぶおそるべき長編で、この量だけでも尋常を逸している。

 なつかしい私のロージャ。おまえと手紙で話をしなくなってから、もう二カ月の余になります。それが気になって、ときには考えごとで眠られぬ夜もあるほどです。でもおまえは、私が心ならずも黙っていたことを責めたりはしないでしょう。私がおまえをどんなに愛しているかはご存じのとおりです。おまえはうちのひとり息子、私とドゥーニャにとってのすべて、私たちの希望の星なのですから。おまえが生活費にも事欠いて、もう数カ月も大学へ行かれず、家庭教師やそのほかの口もなくなってしまったと知ったとき、私の驚きはいかほどだったでしょう! でも、年に百二十ルーブリの年金をいただいている身で、どうして私におまえの援助ができましょう? 四カ月前にお送りした十五ルーブリも、ご存知のとおり、この年金を抵当に、当地で商売をされているアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンさんからお借りしたものでした。あの方はいい方で、お父さまのお友達でもあった方です。けれど、年金受領の権利をあの方にお譲りしてしまったので、借金の返済がすむまで、待たねばなりませんでした。それが今度やっとすんだようなわけで、その間ずっと、おまえに何も送れなかったのです。けれど今度は、おかげさまで、おまえにも送金ができそうです。(江川卓訳・岩波文庫 上68~69)

 わたしは五十年以上も『罪と罰』を読み続けているが、読むたびに新しい発見があり、恐ろしささえ感じる。すでに指摘していることだが、ここでもっとも注目しなければならないのは、未亡人プヘーリヤの亡き夫の友人の名前と父称である。名アファナーシイはイワン閣下の父称で、父称イワーノヴィチはイワン閣下の名である。つまり彼の名前はイワン・アファナーシィエヴィチ閣下の名と父称をひっくり返しただけのものである。イワン閣下はソーニャの〈処女〉を銀貨三十ルーブリで買い上げてくれた〈生神様〉(божий человек)であることを考えれば、〈いい人〉(добрый человек)と書かれたアファナーシイがどのような〈淫蕩漢〉であったか容易に想像できよう。

 ところで、わたしはこのことを発見するのに約五十年の歳月を費やした。その一つの理由にわたしが長年読んできた『罪と罰』が米川正夫の訳だったことにある。米川訳では〈アファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン〉が〈ヴァシーリイ・イヴァーヌイチ・ヴァフルーシン〉となっている。どういうことか。所有する日本語訳『罪と罰』を調べてみると小沼文彦訳が〈ワシーリイ・イワーノヴィチ・ヴァフルーシン〉、北垣信行訳が〈ワシーリイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン〉で表記文字が違うだけで米川正夫訳と同じ。工藤精一郎訳は〈アファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン〉で江川卓訳と同じ。古い訳ではまずフレデリック・ウイショーの英訳から内田魯庵(奥付には内田貢、表紙には不知庵主人とある)が重訳した『罪と罰』(明治二十五年十一月 内田老鶴圃)には〈ワシーリー、イワーノウヰチ、ワクルーシン〉、同じく内田魯庵訳『罪と罰』(大正二年七月 丸善)には〈ワクルーシン氏〉となっている。因みに内田魯庵は二回ほど試みた『罪と罰』翻訳ではあったが、いずれも第三編の六までで中断している。

    日本で初めてロシア語原典から訳した中村白葉訳『罪と罰』(大正三年十月)は〈ワシーリイ・イワーノ井ツチ・ワ"フルーシン〉。生田長江・生田春月訳『罪と罰』(大正十三年十二月 三星社出版部)が〈ワシリイ、イワノヰツチ、ワツハルウシン〉。

 登場人物一人の名前だけでも調べていけばきりがない。わたしが現在使用しているアカデミア版三十巻全集では〈Афанасий Иванович Вахрушин)とあるので江川卓の表記が正しいということになる。プリヘーリヤの言う〈いい人〉の名が米川正夫訳の〈ヴァシーリイ=Василий〉となると、イワン閣下との近似性(淫蕩つながり)は発見されなかったことになるので、名前一つも疎かにはできない。まさに神は細部に宿るのであって、読者は感性豊かに、同時に緻密にテキストに参入していかなければならない。

   ここでマルメラードフの告白からプリヘーリヤの手紙文に密接に関わる箇所を引用しておこう。

 

  ところで、あなた、こんどは私のほうから、ひとつ私的な質問をさせていただきたいんだが、いったい貧乏ではあるが、純潔な娘がですよ、まともな仕事でどれくらいかせげるもんでしょう?……純血一方で、腕におぼえのない小娘じゃ、日に十五カペイカもかせげやしませんや。それも、働きづめに働いてですよ! そこへもってきて、五等官のクロプシュトク氏などは、つまりイワン・イワーノヴィチさんですがーーお聞きおよびですか? ワイシャツ半ダースの仕立賃をいまだによこさないばかりか、やれ襟の寸法があわないの、やれつけ方がゆがんでいるのと、地団駄踏んだり、悪口雑言を浴びせたりして、娘に門前払いをくわす有様です。ところが家じゃ、小さな子どもたちが空き腹をかかえておる……カチェリーナ・イワーノヴナは、手をもみしだんばかりにしながら部屋のなかを歩きまわって、頬っぺたには赤いしみを出しておるーーあの病気にはいつもあるやつですな。それで娘に向かって、「この穀つぶし、ただで食うって飲んで、ぬくぬくしてやがる」とやるわけです。(上・41)

    わたしは大学のゼミで四十年近く『罪と罰』を講義・討議しているが、娼婦に堕ちてまで一家の犠牲になるソーニャを理解しがたいと言う女子学生は毎年必ず何人かいる。中には、継母カチェリーナも三人の幼い連れ子も、そして酔いどれの父親も捨てて独立独歩の道を歩む方がどれほどいいか、と主張する者もいる。こういった意見は現代のみならず、『罪と罰』発表時においてさえあったかもしれない。理不尽な運命に従順な、狂信者のごときキリスト者ソーニャをそのままに受け入れることはいつの時代にあっても容易なことではない。いずれにせよ、マルメラードフは聞き手の中に娼婦ソーニャに疑義の念を抱く者があることを予想して、引用したようなセリフを吐くことになったのだろう。マルメラードフの言葉は予め他者の意識を先取りして、それに延々と応えるような体裁をとっている。聞き手のラスコーリニコフがいくら沈黙を守っていても、マルメラードフの言葉が途切れずに続くのは、彼の言葉が〈自己〉と〈想定した他者〉との内的対話の構造を持っているからにほかならない。

 さて、プリヘーリヤとの関係で言えば、年金百二十ルーブリの金で未亡人一家三人が暮らすことがどれほどたいへんであったかということである。しかも忘れてならないのは、プリヘーリヤは今で言う教育ママであったということである。ラスコーリニコフは舞台が開幕したときに二十三歳、彼がペテルブルク大学法学部に受験するため故郷リャザン県ザライスクから単身上京してきたのは三年前の一八六二年、二十歳の時である。作品の中ではまったく触れられていないが、一八六二年、ペテルブルク大学は封鎖されており、従って入学試験は行われなかった。史実に照合すれば、ラスコーリニコフがペテルブルク大学に受験し合格したのは翌年の一八六三年九月ということになる。ラスコーリニコフの〈現在〉(一八六五年七月)はすでに大学をやめているから、彼が大学に在学していたのはおよそ一年間ぐらいだったことになる。

 当時、ペテルブルク大学は大学改革を求める急進的な学生たちによる抗議集会やデモなどが行われ、国家権力の介入などもあって彼らは厳しく弾圧され処罰されることになった。ラスコーリニコフが入学した時には、学生に対する監視体制は整えられ、授業料未納者に対する処置も厳しかった。ラスコーリニコフは授業料未納によって除籍処分されたのかもしれない。もし除籍処分が撤回される余地が残されていなかったとすれば、母プリヘーリヤと妹ドゥーニヤの期待を一身に背負って上京してきたラスコーリニコフの絶望は意外と深かったと言えよう。

 プリヘーリヤは手紙で「私がおまえをどんなに愛しているかはご存じのとおりです。おまえはうちのひとり息子、私とドゥーニャにとってのすべて、私たちの希望の星なのですから」と書いている。こんな手紙を母親からもらって喜ぶ息子はまずいまい。少なくともラスコーリニコフは喜ぶまい。喜ぶどころのさわぎではない。過剰に期待される〈一人息子〉が、その期待に背くことなく生きているうちはいいだろう。ラスコーリニコフに照らし合わせれば、彼が一家の期待を背負って上京した三年前から念願のペテルブルク大学に入学したばかりの頃は、その背負った期待の重さに苦しむこともなかっただろう。現に彼は、貧しい母親から仕送りを受けている身でありながら、身分不相応の、ドイツの青年紳士が愛用するようなチンメルマン製の丸型帽子をかぶってネフスキー大通りを散歩などしていた。『罪と罰』を若い頃一読しただけのような読者は、ラスコーリニコフを人類の苦悩を一身に背負った文学青年のように思いこんでしまうが、何回も読んでいくと、この若者、意外と軽薄で思慮の足りない者にも見えてくる。

 そもそもラスコーリニコフ(母親は二十三歳にもなった息子を〈私のロージャ〉などと愛称で呼んでいる)は母親の期待に応えるほどの現実的な青年ではない。プリヘーリヤも子供離れのできていない母親だが、同じく息子のラスコーリニコフも母親離れができていない。ラスコーリニコフがペテルブルクに上京してすぐに下宿の娘ナターリヤと婚約したり、身分不相応の丸型帽子を被って散策する空想家を気取ったりしているうちはまだよかったかもしれない。プリヘーリヤを驚かしたのは結婚騒ぎよりは、ロージャが「生活費にも事欠いて、もう数カ月も大学へ行かれず、家庭教師やそのほかの口もなくなってしまったと知ったとき」なのである。これを端的に言えば、プリヘーリヤは〈希望の星〉であるべき〈一人息子のロージャ〉が、その輝きを一挙に失うという絶望的な最悪の事態を突きつけられたということである。なにしろプリヘーリヤとドゥーニャにとってロージャは〈すべて〉なのであるから、ロージャが〈希望の星〉から失墜すれば、彼らラスコーリニコフ一家は絶望の淵に沈まなければならない。プリヘーリヤはどんなことをしてでもロージャを再び〈希望の星〉へと返り咲かせなければならないと考える。だが、年金百二十ルーブリで細々とやりくりしているプリヘーリヤにはロージャに金銭的な援助をすることができない。いったいどうしたらいいんだ。そこで彼女が唯一当てにできたのが、亡き夫の友人で〈いい人〉(добрый человек)のアフアナーシイ・イワーノヴィチだったということになる。

 さて、アファナーシイはリャザン県ザライスクで〈商売をしている人〉であったことを忘れてはならない。プリヘーリナヤがわざわざ〈いい人〉(добрый человек)と書き記している亡き夫の友人〈アファナーシイ〉という〈商人〉(купец)は〈年金〉(пенсион)を抵当にしなければ十五ルーブリの金さえ貸してはくれなかった。わたしたちは十九世紀ロシア中葉期を支配していた功利主義的な経済観念を無視することはできない。ロシア最新思想の信奉者であったレベジャートニコフは、今日、〈同情〉(сострадание)などというものは本場イギリスでは学問上ですら禁じられていると言ってはばからなかった。老いも若きも女も男も高利貸しの真似事をして生きていると言われた時代にあって、アファナーシイが特別に計算高い男であったわけではない。が、こういった男は〈いい人〉とか〈友人〉である前に骨の髄から〈商人〉であることを失念してはならない。

 学問上ですら禁じられている同情を存分に発揮してこそ亡き夫の友人にふさわしいのであり、わずかばかりの金を貸すに際して抵当をとるような男を文字通りの意味で〈いい人〉などとは言えない。この〈いい人〉アファナーシイ・イワーノヴィチが、マルメラードフの言う〈生神様〉イワン・アファナーシィエヴィチ閣下と重なって見えてきてしまうのは致し方ないだろう。大胆に言えば、アファナーシイが要求した〈抵当〉は〈年金〉ばかりではなかったということである。おそらくプリヘーリヤはリャザン県ザライスク一番の美しい未亡人であり、アファナーシイは〈抵当〉に〈年金受給者〉その人をも考えていたにちがいない。ソーニャがまじめに働いて〈十五〉カペイカを稼ぐのはたいへんなのだ。プリヘーリヤが〈年金〉だけで〈十五〉ルーブリ借りるのも同じくたいへんなのである。 ドストエフスキーはプリヘーリヤとアファナーシイの肉体関係に関してはいっさい触れていない。が、触れていないからといって、二人の間にそういう関係はなかったと断言することはできない。むしろあったと見た方がリアルである。 『罪と罰』という小説は主人公ラスコーリニコフの〈踏み越え〉(殺人・自白・復活)に関しては現在進行形のかたちで逐一描かれているが、その他の人物の〈踏み越え〉に関しては読者が想像するよりほかはない。ソーニャの場合、〈踏み越え〉(イワン閣下に処女を捧げ、銀貨三十ルーブリを得たこと)のドラマはまったく描かれていないので、イワン閣下のヒヒ爺の実態がさらけ出されない間は、想像することさえできなかった。ソーニャの最初の男がイワン閣下であると最初に指摘したのは拙著『宮沢賢治ドストエフスキー』(一九八九年五月 創樹社)においてである。『罪と罰』が発表(一八六六年一月~十二月にかけて「ロシア報知」に連載)されてから実に百二十三年が経過している。  ソーニャの処女を奪った男がイワン閣下であると判明したことで、さらにプリヘーリヤとアファナーシイの描かれざる関係が浮上することになった。

文学の交差点(連載8) 『源氏物語』を読むには想像力が不可欠 ――闇の豊饒――  

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載8)

清水正

源氏物語』を読むには想像力が不可欠
――闇の豊饒――  

 

 作品を批評するためには基本的な知識がなければならないが、素人のわたしは平安朝時代の様々な生活様式や法律に詳しくない。とんでもない見当違いで論を展開していく危険性がある。しかし素人には素人の強みもある。疑問な点についてはそのまま率直に疑問を提示しつつ批評を進めていくことにしたい。

 『源氏物語』の引用テキストは特別に断らない限り、瀬戸内寂聴の現代語訳(講談社文庫版)を使用する。なお漢字に付けられたルビは()内に記した。

 

  僧都の坊は、なるほど同じ草木にしても心遣いして風情のあるように植えてあります。月もない頃なので、遣水のほとりに篝火(かがりび)をともし、燈籠(とうろう)などにも火が入れてありました。南側の部屋を座席としてたいそう立派に用意してあります。室内には、空薫物(そらだきもの)がほのかに漂っていて、仏前の名香(みょうごう)の香りも部屋に匂いみちていてます。その上、源氏の君のお召物にたきしめた香までもが、風にただよい送られてきますのが、とりわけすばらしい匂いなので、奥の部屋にいる女房たちも、何となくそわそわして緊張しているように見えます。

  僧都は、この世の無常のお話や、来世のことなどをお聞かせになります。

  源氏の君は御自分の人知れぬ罪の深さも恐ろしく、そうはいっても、どうしようもなくあきらめられぬつらい思いに心を締めつけられて、

  「この世に生きるかぎり、この秘密の恋に苦しみ悩まねばならないのだろう。まして死んだあの世ではどんな劫罰(ごうばつ)を蒙(こうむ)ることやら」

  と思いつづけていらっしゃいます。

  いっそ出家遁世(とんせい)して、このような山住みの暮しもしてみたいものだとお考えになるのですが、昼間御覧になった可憐な少女の俤(おもかげ)がお心にかかり恋しいので、

 「こちらにお泊まりになっていらっしゃるのはどなたでしょうか。そのお方のことをお尋ねしたくなるような夢を、以前に見たことがございます。その夢のことが、今日はたと、思いあたりまして」

  とおっしゃいますと、僧都は笑って、

 「どうも突然な夢のお話でございますね。折角お尋ねくださいましても、素性がわかるとかえってがっかりなさるにちがいございません。故按察使(あぜち)の大納言(だいなごん)、と申しましても、亡くなりましてからずいぶん久しくなりますので、御存じではいらっしゃらないでしょう。その北の方が、実はわたしの妹でございます。按察使の死後、出家いたしましたが、最近病気がちになりましたので、こうして京にも出ず山籠りしているわたしを頼って参り、この山に籠っているのでございます」

  と申し上げました。(巻一「若紫」255~257)

 

 

源氏物語』を読むためには想像力を必要とする。もちろんどんな作品でも読者に想像力が欠けていたのでは〈読み〉のダイナミズミを体験することはできないが、『源氏物語』における省略は半端ではない。わたしたち読者は光のように美しいといわれる光源氏の顔かたち、姿を具体的に報告されているわけではない。藤壷が光源氏の母親と瓜二つと言われても、その桐壷更衣の具体的な容姿は記されず、従って読者が想像力の限りを尽くして脳内にその容姿をつくり上げる他はない。身長、体重、座高はもちろんわからず、眼も鼻も口も、要するに自分好みの美女にでも仕立てて満足するしかない。

 桐壷帝の寵愛を一身に受けていた桐壷更衣、彼女の死後に同じく特別の寵愛を受けることになった藤壷の姿は夫の帝の他には身の回りの世話をしていた女房たちにしか見ることが許されなかった。藤壷の場合は、元服を迎えるまでの光源氏には御簾(みす)に入ることが〈子〉として許されていたが、元服を迎えた十二歳以降はその特別な処置は禁じられてしまう。それでなくても平安朝の后たちは衝立や御簾、それに暗闇によって二重三重に守られていた。近くに接近することが許されたにしろ、彼女たちの身体・容姿は十二単衣や扇などによって隠され、それを知るものは世話係りの女房と契りを結んだ男だけである。しかも、たとえ内裏の女君と契りを結んだとはいえ、闇の中での契りであるから、相手の容姿を明確に知ることはできない。現代人は蛍光灯の明かりの元での生活が当たり前になっているので真の闇を忘れてしまっている。わたしは昭和二十四年生まれなので、幼い頃ランプで明かりをとっていたことを知っているが、昭和の後期、平成生まれの人はランプはおろか電灯さえ知らないかもしれない。

 蛍光灯文化とは要するに自然科学的な世界観に基づいた文化で、人間は究極的には世界の隅々まで明晰に認識できるのだという、わたしから言わせれば楽観的な思想に立脚している。この世界観によれば闇はいずれ〈正義〉である光によって征服されなければならない〈悪〉として認識される。

 この光優先の世界でもっとも重要とされる感覚は視覚ということになる。とうぜん女性の美も視覚優先で判断されることになる。痩せているか太っているか、背が高いか低いか、眼が大きいか小さいか、鼻が高いか低いか、眉は、口は、歯は、髪は……細かく示していけばきりがないが、要するに視覚でとらえられたものによって美醜が判断されることになる。

 ところが、謂わば光よりも闇が支配的であった平安朝にあっては視覚よりも遙かに臭覚や触覚、聴覚が重要となる。現代人は十九世紀ロシアの文豪ドストエフスキーやトルストスイが蝋燭の明かりのもとで小説を書いていたことさえ失念しがちである。わたしは半世紀にわたって原稿を書き続けてきているが、一度も蝋燭の明かりで執筆したことはない。若い頃、実験的に蝋燭の明かりで書こうとしたこともあるが、実際にすることはなかった。レンブラント風の光と闇の交錯する書斎で原稿を書いたらどうなのだろうか、今も興味はあるのだがどうも横着な気持ちになってしまう。

 平安朝時代、内裏ではどのような灯火が使用されていたのか、その明るさはどれくらいであったのか。発火はだれがどのような方法でしていたのか。場所によっては一晩中灯火はつけられていたのか。防火対策はどうしていたのか。夜中に后が用があるとき、女房たちとどのように連絡をとっていたのか。闇を想定して当時の内裏生活を考えると次々に疑問がわいてくる。

 洗面、トイレ、風呂など必要不可欠の事柄に関しても具体的に知らないとどうしようもない。身長以上に長く延ばした髪、十二単衣を纏った女君たちの洗髪、トイレ、風呂など想像するだに疲労感を覚える。風呂というと現代人は家庭風呂や銭湯、温泉などを連想するが、平安朝時代はからだを塗れた布などで拭いてすましていたのだろうか。詳しいことはわからないが、洗髪、からだ拭きなどは世話係の女房にしてもらえただろうが、トイレは自分でするほかはないだろう。専用の箱があったようだが、その中に特別の砂や草が置かれていて、臭いを消すような対策もほどこされていたのだろうか。始末をする世話係りは、どのような気持ちであったのか、そんなことまで気になる。高貴な姫君の糞便に対する下賤な者たちの思いには特別な感情が潜んでいるだろうが、内裏内で姫君たちの糞便の始末をしていた世話係りはいったいどのような身分の者が当たっていたのか。藤壷に何人のどのような身分の女房たちがついていたのか、作品には書かれていない。ましてや糞便始末係りの女ついては全く触れられていない。内裏の闇はさまざまなレベルにおいて多層的である。

 深い闇の中からほのかに姿を現すのは王命婦だけである。読者は王命婦が、藤壷の女房たちの中で筆頭株の位置を占めていること、藤壷の信頼を最も受けている女房であることぐらいしかわからない。桐壷更衣や藤壷といった帝の后ですらその容姿が具体的に示されていないのであるから、女房の一人でしかない王命婦のそれに照明が当てられることはない。ましてやいるかいないのかもわからない他の女房たちの存在はまさに闇の中の闇に捨て置かれている。

文学の交差点(連載7)  王命婦と女中ナスターシャ 『源氏物語』の人物関係

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載7)

清水正

 王命婦と女中ナスターシャ

 ラズミーヒンは意識を覚醒したラスコーリニコフに栄養をつけさせるべく、ナスターシャに犢肉やビールを運んでくるように命じる。女将と情を結んだラズミーヒンならではの言いつけである。ナスターシャはなにもかも承知の上でラズミーヒンをさかりのついた〈牡犬〉(пёс)と見なしてからかったりもする。作者はナスターシャもまたラズミーヒンにまんざらでもなかったように描いている。

 二人の女を殺害して四日もの間意識不明に陥ったラスコーリニコフ、その間にラズミーヒンはちゃっかり下宿の未亡人といい仲になっている。『罪と罰』を深刻一途に読む者はこういった人物間の微妙で生々しい形而下の関係を見逃すことになる。女中ナスターシャの眼差しで『罪と罰』を読み返せば、余りにも多くの〈日常〉場面を見落としていたことに気づいて唖然とするだろう。

 さて、王命婦である。彼女は『罪と罰』のナスターシャと同様に決して主人公格の人物ではない。しかし彼女はナスターシャのように〈秘密〉を覗き見る人物であったことに間違いはない。

 

源氏物語』の人物関係  

 まずは簡単に『源氏物語』の人物関係を確認しておこう。主人公光源氏は桐壷帝と桐壷更衣の間に生まれた第二皇子である。第一皇子は桐壷帝が皇太子の時に一緒になった弘徽殿女御との間に生まれた朱雀院である。光源氏の母桐壷更衣は桐壷帝の特別の寵愛を受け、弘徽殿をはじめ他の女房たちから嫉妬され数々の嫌がらせにあい、心身ともに弱り果て、若くして亡くなる。光源氏三歳の時であった。

 桐壷帝は幼くして母を失った光源氏を自分のそばからはなさず育てることにした。やがて桐壷帝は桐壷更衣によく似た藤壷を見初め妻とする。子供であった光源氏は藤壷のところへ行くことが許されていた。光源氏は女房たちから藤壷が亡き母桐壷更衣に瓜二つであることを聞いていた。光源氏は継母藤壷を実の母親のように慕って育った。が、十二歳で元服となった光源氏は四歳年上の葵の上と結婚することになり、もはや藤壷のところへ出入りすることはできなくなった。葵の上は家柄もよくプライドの高いお嬢様育ちで、四歳年下の光源氏とそりが合わない。光源氏は藤壷と会うこともかなわず、思いは日増しに募るばかり。

    さてどうするか。 光源氏と王命婦 光源氏は藤壷の女房の一人王命婦に接近し、藤壷に取り次いでもらうように懇願する。もはや子供が母を慕うような次元での思いではない。藤壷は父桐壷帝の后であり、光源氏の継母である。藤壷と光源氏が女と男の関係になれば、不義密通となり発覚すれば大事となる。とうぜん王命婦光源氏の懇願を断固拒否する。もし王命婦が最後まで光源氏の懇願を拒み続けていればどうなっていただろうか。おそらくそれでは『源氏物語』が成立し得なかったことになろう。それほど重要な役割を付与されていたのが王命婦である。

 『罪と罰』を長年読んでいると女中ナスターシャのような端役が面白くなる。『源氏物語』も王命婦に焦点を合わせると思いもかけない発見があるのではないかと思っている。わたしは別に『源氏物語』の研究家ではないので、あくまでも一人の読者として自由にその世界に参入したいと思っている。

 

 

文学の交差点(連載6) 王命婦と女中ナスターシャ

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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文学の交差点(連載6)

清水正

 

命婦と女中ナスターシャ
 金曜会で「王命婦って知っていますか」と訊くとだれも知らない。要するに三人共に七十歳まで『源氏物語』を一度も読んだことがない。何年か前に、一年生のゼミの女子学生で熱烈な『源氏物語』の愛読者がいた。ゼミは『罪と罰』を専ら扱っていたので、『源氏物語』に言及することはなかった。先日の大学院の授業で修了生の一人が遊びに来ていたので訊いたところ、『源氏物語』は高校時代からよく読んでいたとのこと。が、源氏愛読者の彼女も王命婦については思い出せないようであった。
 ドストエフスキーの愛読者にナスターシャを知っているかと訊けば、おそらく『白痴』の女主人公ナスターシャ・フィリポヴナを思うだろう。ラスコーリニコフが下宿していたアパートの女中のことなどそもそも記憶にさえ残っていないかも知れない。が、この女中ナスターシャ、わたしの眼から見るとなかなか面白い女性なのである。「家政婦は見た」というテレビドラマがあったが、さして注目されない脇役中の脇役が作品の中で重要な役割を密かに付与されている場合がある。
 女中ナスターシャは女将プラスコーヴィヤの性的領域の秘密を知っている。プラスコーヴィヤは結婚して一人娘ナタリヤを生んだが、この娘は〈不具〉(урод)で一風変わった女であった。どういうわけかラスコーリニコフはこの娘に一目惚れして結婚しようとする。が、娘は当時流行っていた腸チフスに罹患しあっけなく死んでしまう。プラスコーヴィヤの夫がいつ、どのような原因で亡くなったのかは報告されていないが、いずれにせよ未亡人となったプラスコーヴィヤは女手一つで不具の娘を育てていた。表面だけを見ればそういうことだが、未亡人プラスコーヴィヤが亭主亡き後、貞操を守っていたわけではない。注意深く読まないとわからないが、プラスコーヴィヤには文官七等官チェバーロフという情夫が存在していた。
 このチェバーロフについて作者は〈事件屋〉とさりげなく紹介している。プラスコーヴィヤは寝物語の中で、ラスコーリニコフに貸していた百五十ルーブリ取り立ての件でチェバーロフに相談していたことは明白である。ラスコーリニコフが警察署に呼び出されたのはチェバーロフの〈働き〉によってである。ナスターシャは情夫チェバーロフがプスコーヴィヤの部屋を定期的に訪ねては、情を交わしていたことを知っている。要するにプラスコーヴィヤは貞淑な未亡人などではなく、発展家とも言えるほどの女なのである。
 ところでプラスコーヴィヤはチェバーロフ一人と情を交わしていた女でない。ラズミーヒンがラスコーリニコフの居所を探し出したとき、ラスコーリニコフは意識不明に陥っていたが、ラスコーリニコフが息を吹き返すまでの間に、プラスコーヴィヤはラズミーヒンと男と女の関係になっている。これはどちらが先に手を出したのかという問題ではない。要するに好き者同士が出会えば、情を結ぶのに時間はかからないということである。

 ラズミーヒンは意識を覚醒したラスコーリニコフに栄養をつけさせるべく、ナスターシャに犢肉やビールを運んでくるように命じる。女将と情を結んだラズミーヒンならではの言いつけである。ナスターシャはなにもかも承知の上でラズミーヒンをさかりのついた〈牡犬〉(пёс)と見なしてからかったりもする。作者はナスターシャもまたラズミーヒンにまんざらでもなかったように描いている。
 二人の女を殺害して四日もの間意識不明に陥ったラスコーリニコフ、その間にラズミーヒンはちゃっかり下宿の未亡人といい仲になっている。『罪と罰』を深刻一途に読む者はこういった人物間の微妙で生々しい形而下の関係を見逃すことになる。女中ナスターシャの眼差しで『罪と罰』を読み返せば、余りにも多くの〈日常〉場面を見落としていたことに気づいて唖然とするだろう。
 さて、王命婦である。彼女は『罪と罰』のナスターシャと同様に決して主人公格の人物ではない。しかし彼女はナスターシャのように〈秘密〉を覗き見る人物であったことに間違いはない。

文学の交差点(連載5) 『源氏物語』が面白い ドストエフスキーと言えば『罪と罰』

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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文学の交差点(連載5)

清水正

源氏物語』が面白い
     金曜会の常連メンバー三人は七十歳(平成29年2月現在)、わたしは彼らより二つ年下である。いずれにしても人生のなんたるかをそれなりに知り尽くした爺さんたちには違いない。酒を飲みながらたわいもない戯れ言を交わしていても、世之介死後十年を生きてきた謂わば人生の強者たちである。世の無情もはかなさも存分に体感している。
 わたしはドストエフスキーを五十年読み続けてきて、今『源氏物語』がかくべつに面白い。いったい『源氏物語』のどこに惹かれるのか。書き続けることで徐々に判明していくにちがいないが、今言えることは『源氏物語』にドストエフスキーと並ぶ、あるいはそれ以上に人間が描かれているということである。


 ドストエフスキーは十七歳の時に兄ミハイル宛の手紙で「人間は謎である。その謎を解くために生涯を費やしても、時を空費したとは言えません」と書いた。そしてドストエフスキーは『貧しき人々』から最晩年の『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、小説を書くことで人間の謎に挑戦し続けた。
 ドストエフスキーの描く人物たちは〈淫蕩なる人々〉である。この淫蕩な人間たちに宿る同情、残酷、狂気、信仰、不信などが極端な形をとって描かれる。


ドストエフスキーと言えば『罪と罰
 『罪と罰』と言えばラスコーリニコフでありソーニャである。ところが何十年にもわたって『罪と罰』を読み続けてくると、注目する人物も異なってくる。ラスコーリニコフよりもはるかにスヴィドリガイロフやポルフィーリイ予審判事の方が興味深いし、惹かれる女性人物もソーニャからドゥーニャへ、さらに下宿の女中兼料理人のナスターシャへと移っていく。
 作者はソーニャやドゥーニャに対しては多くのページをさいて描いている。家族関係や年齢はもちろんのこと、彼女たちの内面に関しても多くの情報を読者に与えている。が、女中ナスターシャに関しては、屋根裏部屋でのラスコーリニコフとの対話を通してのみ彼女の性格を想像するしかない。ナスターシャの家族、年齢、給金、その他彼女の日常生活のほとんどすべてが報告されていない。にも関わらず、描かれた限りで見てもナスターシャという女性は、わたしにとっては魅力的である。
 わたしが初めて『罪と罰』を読んだときは二十歳前で、まるで自分がラスコーリニコフであるかのような気分であった。当然最も惹かれた人物はソーニャで、彼女が信じる神の問題は重要であった。ところが齢を重ねるにつれ、ソーニャという狂信者は徐々にリアリティを失い、それに代わってラスコーリニコフの美しい妹ドゥーニャが魅力的に思えてきた。が、このプライドの高い美女が俗物のルージンと婚約したり、スヴィドリガイロフではなくラズミーヒンを選んだりしたことが余りにも愚かしく思えてきた。狂信者ソーニャと誇り高き美女ドゥーニャに代わって台頭してきたのが女中ナスターシャであった。
 この一見平凡などこにでもいるような女のどこに魅力を感じたのか。それはラスコーリニコフが、考えていることが仕事だと口にしたとき、いきなりナスターシャがからだ中をふるわせて笑いだしたことにある。日本の詩人や評論家、研究家はラスコーリニコフの〈考えていること=仕事〉に注目する余り、ナスターシャの健全な反応を見逃してしまった。
 ラスコーリニコフは自分の〈考え〉に従って二人の女の頭に斧を振り下ろした。が、この冷酷な殺人者は最後の最後まで自分の〈犯罪行為〉(преступление)に〈罪〉(грех)の意識を持つことはなかった。驚くべきことに、作者はこの無罪意識に苦しむ殺人者を元淫売婦ソーニャと共に〈愛〉(любовь)によって復活させている。『罪と罰』の世界では淫売婦と殺人者が復活の曙光に輝き、淫売稼業の現場と殺人の現場は忘却の彼方へと押しやられてしまう。
罪と罰』の読者のいったい何人が、殺された老婆アリョーナとリザヴェータを思い起こし哀悼の意を示すだろうか。淫売婦ソーニャの罪の現場は完璧に封印され、その狂信的な信仰によって聖化される。ラスコーリニコフもまた犯した殺人よりも、殺人による〈苦悩・受難〉(страдание)によって聖化される。