文学の交差点(連載4) 『好色一代男』をめぐる雑談

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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文学の交差点(連載4)

清水正

好色一代男』をめぐる雑談

    八巻五十四話からなる長編『好色一代男』(天和二年・一六八二)は、小説家西鶴の処女作であるとともに、好色本のルーツでもある。内容は主人公・世之介の一代記で、とりわけ巻五以降の後半は、親の遺産二万五千貫目(約五百億円)を相続して大大大大尽になった世之介の遊郭ルポとして楽しめる。三十四歳の世之介は、その金力と体力にものいわせて高名な遊女を残らず自分のものにしようとする。その結果、三都を中心とした諸国遊郭の名妓列伝が展開するのである。(浅沼博『西鶴という俳人』52)

 

 暉峻康隆は世之介が父親から相続した二万五千貫目を二百五十億円と換算している。これは暉峻康隆が訳編『好色一代男』を出版した時と浅沼璞が『西鶴という俳人』を出版した時が違うためである。三百年前の貨幣価値を現代に正確に換算することはもともと無理なことであるが、無理を承知で換算すればこのようになる。暉峻と浅沼の換算額は倍の開きがあるが、金額が想像を絶する大金なので二百五十億という差額もさして気にならない。
 大学の授業で二十歳前後の受講生に「世之介が相続した金は、今の金額にしてどのくらいか」と聞くと「十万円」という冗談かと思うほどの低額から、「百万円」「三千万円」「一億円」「十億」、さらに「一兆円」というファンタジックな高額の答えが返ってくる。要するに学生たちは世之介の遺産相続金を具体的に想像することができない。否、これは学生に限ったことでもないだろう。スナック、キャバクラ、クラブ、フウゾクに通っている遊び人ですら的確に言い当てることはできないだろう。西鶴の愛読者ですら、特別な関心を持っていなければ読み過ごしてしまうかもしれない。
 いずれにしても、西鶴時代の貨幣を現代に換算することで世之介の女遊びは生々しい具体性を獲得する。世之介が二万五千貫目の遺産を継いだのは三十四歳の時である。


    西鶴の生涯は不明な点が多く、確かなことは分かっていない。妻があり子供があったことは知られているがその具体は知られていない。年譜によれば、西鶴が三十四歳の時に妻が二十五歳で亡くなっている。子供が三人いたとなっている。が、妻がどういう名前か分からず、西鶴と幼なじみと言われているが、どこでどのように知り合ったのか分からない。
 三人の子供のうち二人は男の子供、一人は女の子で盲目であった。息子二人は養子に出され、娘は西鶴と生活を共にする。なぜ息子二人を養子に出したのか。西鶴と盲目の娘がどのような生活を送ったのか。子供たちの名前すら分からないし、養子先も不明、ましてや養子に出された息子たちがどのような思いを抱いていたのかまったく分からない。
 西鶴は五十二歳で死んでいるが、その前年に娘が死んでいる。西鶴は妻が死んだ後、再婚せず、十八年後娘が死ぬと一年もたたずに死ぬ。不明な点が多い西鶴の生涯であるが、わたしの胸に伝わってくるのは、妻を亡くした悲しみ、娘を亡くした悲しみである。深い悲しみを内に抱え込んだ男の、いわば〈感情の爆発〉(ロシア語でнадрыв、この感情がドストエフスキーの主要人物たちに賦与されている)が異常なほどの量の俳句をはきだしと思われる。
 また『好色一代男』に始まる浮世草紙(小説)に描かれた人物たちに注がれたまなざしには運命を率直に受け入れる諦念がある。この諦念には三人の子供と夫西鶴を残して死んでいった妻の無念もこもっている。西鶴の人間に向けられたまなざしには、ドストエフスキーの人神論者に見られる絶対者に対する反抗反逆はない。あるがままの人間、生きるようにしかいきられない人間の諸相をあるがままに認めるそれである。


   十何年か前から江古田の中華料理店「同心房」を主な舞台として金曜会を主宰している。メンバーは日芸で教鞭をとる文芸批評家、マンガ家の講師たちや学生で、アルコールが入った分だけ教室では聞くことのできないオモシロイ話が飛び交うことになる。先日の金曜会は常連の講師三人とわたしの、男だけの席であったので、遠慮のないシモネタ文学論を展開することになった。ちなみに三人の先生方は現在七十歳である。三人ともに今まで西鶴を読んだことはないということであった。
「『好色一代男』の主人公世之介は七歳頃から女遊びをはじめ、親からは勘当されていたが、三十四歳の時に父親が死に財産を受け継ぐことになった。さて世之介は今の金にしていくらぐらいの遺産金をもらうことになったか」学生に聞いたことと同じ質問をする。「三億」「十億」「三十億」人生七十年を積み上げてきた先生方の考えに考えた末の答えである。「正解、五百億」この答えで一人は深く溜息をもらし、一人はいつもと同じく感情を表に出さず、一人は体をのけぞらせて「ええっ!」と低く叫声を発する。
 これでつかみはオッケー。「ところで世之介、七歳から六十歳まで何人の女と契りを結んだか」三人ともに七十年の人生を振り返り、様々な思いと計算をもとに「十人」「五人」「一万五千人」。期待を持ったリアリズム、リアリズムそのもの、そしてファンタジーの答え。いつの世でも男の思いは同じ。
 さて、使いきれないほどの遺産金を手に入れた世之助の生き方に微塵のブレもない。ここに世之介の世之介たる所以があり三百年の時空に耐えうる魅力がある。世之介の好色人生が突きつけてくるのは意外に切実である。人間から好色の要素を抜き去ったらもはや人間とは言えない。これは千年前の光源氏から百五十年前のドストエフスキー文学に登場する人物まで例外はない。
 さて、使いきれない大大大金を手に入れた時に、はたしてどのような生き方を選ぶかである。世之介の郭通いに説得力があるのは、彼が金の保証がないときも、有り余る保証ができたときにも、そこになんら心の変化がなかったことにあろう。動揺しない生き方、一途な生き方にはどこか善悪の判断を越えた説得力がある。世之介にしかわからない女の魅力があり、かけがえのなさがある。
 思わぬ大大大金を得て、政治的野望を遂げようとする者があり、金に関係なく自らの使命を全うしようと思う者がある。ドストエフスキーは人間の神秘を解きあかすべく生涯を通して小説を書き続けた。『未成年』の主人公アルカージイ・ドルゴルーキイは世界一の金持ちロスチャイルドになることを望んだ。その願望の究極は「平穏な力の意識」を獲得する事にあった。ということは別にアルカージイはロスチャイルドになる必要はない。山寺に籠もって禅修行に励んでもいいし、武道をきわめて平静な力の意志の境地に達することもできる。

文学の交差点(連載3)ドストエフスキー文学の形而下学 『罪と罰』――描かれざる性愛場面

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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文学の交差点(連載3)

清水正

ドストエフスキー文学の形而下学

罪と罰』――描かれざる性愛場面

 

   わたしはここ十年ほど『罪と罰』にこだわり続けている。五大作品のうち、わたしが批評していて最も飽きがこないのが『罪と罰』なのである。近頃、わたしの批評の眼差しは作品に描かれていない場面に注がれている。その多くの場面は性的場面である。十九世紀ロシアの検閲は露骨な性的描写を禁じていたため、ドストエフスキーの作品に性的場面が直に描かれることはなかった。マルメラードフと後妻のカチェリーナ、ロジオンの下宿の女将プラスコーヴィヤと情夫チェバーロフ、同じくプラスコーヴィヤとラズミーヒン、ドゥーニャとスヴィドリガイロフ、ソーニャとイワン・アファナーシィエヴィチ閣下、ロジオンの母親プリヘーリヤとアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン、ロジオンとソーニャ‥‥など人物間の性的関係の場面は暗示的に描かれるか、巧妙に隠されている。特にソーニャとイワン閣下、ソーニャとロジオン、プリヘーリヤとアファナーシイとの関係などは未だに多くの読者に隠されたままである。これらの指摘を初めて眼にする者は衝撃を受けるか、納得せずに反発すら覚えるかもしれない。]

 

『貧しき人々』の形而下学

 ドストエフスキー文学の特質性を二つあげろと言われれば〈сострадание〉(同情・憐憫・共苦共感)と〈разврат、сладострастие〉(淫蕩・情欲)ということになる。ドストエフスキー文学において希代の淫蕩漢と言えば『カラマーゾフの兄弟』のフョードル・カラマーゾフということになるが、それ以前にも『悪霊』のニコライ・スタヴローギン、『白痴』のロゴージン、『罪と罰』のスヴィドリガイロフなどをあげることができる。しかしここにあげた人物に限らず、処女作『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキンからして淫蕩漢だっと言える。人間が人間である限り〈肉欲〉から解放されることはない。初老の万年九等官マカールが二十歳ばかりのうら若き乙女ワルワーラにどのような肉欲を感じていたのか。マカール自身はもとより、作者ドストエフスキーもまたそういった点に関しては詳らかにしてはいない。

 小説はその行間を読むことに醍醐味がある。ドストエフスキー文学の場合など、行間をのぞき込むとそこにいくつもの描かれざる物語が見えてくる。『貧しき人々』における描かれざるワルワーラとブイコフに照明を当てれば、そこに衝撃的な〈事実〉が隠されていたことに気づかざるを得ない。従来この処女作はずいぶんと初な読み方がされていた。ヒロインのワルワーラは貧しく薄幸な〈処女〉と見なされていた。どうしてこんな初な読み方がまかり通っていたのか不思議だが、要するに評論家や翻訳家が初であったのだろう。  『貧しき人々』を読み込めばワルワーラが〈処女〉であったはずはない。ワルワーラはすでに何回か淫蕩な地主貴族ブイコフと肉体関係を持っていたと見るほうがしぜんである。なぜ海千山千の淫蕩漢ブイコフがよりによってワルワーラに執着したのか。単純に考えれば、ワルワーラのナニがブイコフを虜にしたということである。ワルワーラ自身は「わたしが受けた侮辱を贖うためにはブイコフ氏と結婚するしかない」と書いている。ロシアの文芸評論家エルミーロフはワルワーラとブイコフの結婚は、ワルワーラにとって人生の墓場を意味すると書いたが、これなどは公式的な見解で、要するに人間というものが分かっていない。ワルワーラという女のしたたかさや、今のところまったく顕在化していないとも言える野心など、エルミーロフには分かっていない。ドストエフスキーが二十三、四歳ぐらいで執筆した『貧しき人々』に描き出された〈人間〉を、発表当時の批評家ベリンスキーはもとより、大半の読者が見逃したと言ってもいいだろう。

 ドストエフスキーの青春期の恋愛体験については具体的になにも分かっていない。が、彼の描いたワルワーラという女性が、初な男性のロマンチシズムなど瞬く間に乗り越えていくリアリストであったことに間違いはない。現実のドストエフスキーが生身の女にどのような苦汁を呑まされたのか、興味は尽きないが、彼の青春期の恋愛は依然として闇に包まれたままである。

 わたしたちが知ることのできるドストエフスキーの〈恋愛〉は、彼が『貧しき人々』で成功して、ペテルブルク文壇に登場してからである。まず彼はパナーエフ夫人にのぼせ上がって、その熱烈な思いを兄ミハイルに書き送っている。そこには病的と思えるほど自己中心的な感情の爆発が見える。パナーエワが人妻であることなど微塵も考慮しない。自分の才能に酔った異様にプライドの高い神経質な青年ドストエフスキーは文壇サロンに集まった上品な文学者の嘲笑愚弄の的になってしまうが、彼らだけを責めるわけにはいかないだろう。

 ドストエフスキーは良くも悪くも周囲の者たちと協調関係を取り結ぶことができない。ドストエフスキーの才能をいち早く認めて、彼を文壇サロンの一員として迎え入れたベリンスキーですら、彼と決別するのに何年もかからなかった。『貧しき人々』を誰よりも高く評価したベリンスキーであったが、第二作『分身』に関しては評価に迷いが生じている。そして第四作『おかみさん』にいたってはきっぱりと評価の旗をおろしてしまった。当時若くして大批評家と称されたベリンスキーですらドストエフスキーの大天才を理解し許容することはできなかった。ドストエフスキーの文学はベリンスキーの批評美学の範疇に収まることはできなかっったのである。第三作目の『プロハルチン氏』は別として、『分身』や『おかみさん』の狂気を理解するためには、大げさではなく百年以上の歳月を必要としたのである。

文学の交差点(連載2)  西鶴とドストエフスキー

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載2)

清水正

西鶴ドストエフスキー

  何年か前、大学院の女子学生で井原西鶴を研究対象にしたものがあった。たまたまわたしが彼女を指導することになった。せっかくの機会なので本格的に西鶴を読み込もうと思ったのだが、ドストエフスキー林芙美子の作品批評を継続していたので、なかなか思うように時間がとれなかった。
 わたしはドストエフスキーの作品を読み続けながら、日本的なるものに心引かれていた。落語、浪曲、歌謡曲、そして映画では小津安二郎成瀬巳喜男の映画作品などに関していずれ批評したいと思い続けていた。しかし、なにしろ時間がない。ドストエフスキー林芙美子だけで、批評の時間は埋め尽くされてしまう。
 西鶴は今から三百年前に活躍した俳人、小説家(浮世草子作家)である。三百年の時を経ても生き延びてきた作品であるから、時間だけで言えばドストエフスキーよりも古い作家ということになる。わたしが西鶴の作品を読んで批評すれば、やはりドストエフスキー文学との関連性においてということになる。ドストエフスキーは〈人間とは何か〉、その謎を解くために満五十九年の生涯を費やした。彼は処女作『貧しき人々』から最晩年の作『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、徹底して人間を描き続けた。彼にとって人間を描くことは、人間と神との関係を描くことでもあった。
 ドストエフスキーの文学を理解しようと思えばユダヤキリスト教における神の問題を度外視することはできない。彼の人物たちはキリスト者も反キリスト者も含め、すべて彼らの眼差しは神に向けられている。神に対する反逆者ほど、神と真剣に向き合っている。神を否定することは、同時に自らの破綻を引き受けなければならないほどに、彼らにとって神の存在は実存に食い入っている。

 

文学の交差点(連載1) 浅沼璞『西鶴という俳人』を読む 

本日より「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載1)

清水正

■浅沼璞『西鶴という俳人』を読む

 『西鶴という俳人』(玉川企画、二〇一四年)は『西鶴という方法』(鳥影社、二〇〇三年)『西鶴という鬼才』(新潮社、二〇〇八年)に続く浅沼璞の三冊目の井原西鶴論である。浅沼の西鶴研究は学生時代に遡るから、すでに四十年の歴史を刻んでいる。本書は西鶴の俳句や小説の世界に自在に切り込み、独自の世界を展開している。まず感じられるのは著者の西鶴に対するのめり込み、惚れ込みようである。もちろん研究は対象に対する冷静、客観的な姿勢を要請する。しかしそれ以上に必要とされるのは研究対象に対する情熱である。情熱や愛の欠如した研究は底が知れている。浅沼西鶴の独自性は、論者浅沼が対象である西鶴の俳句や小説の人物たちにかぎりのない愛を注いでいるということにある。特に本書において西鶴の小説の人物たちは現代日本の現実舞台に生き生きと蘇生している。『日本永代蔵』『西鶴織留』『好色一代男』『好色一代女』など西鶴の代表的な作品を、〈ケーザイ俳人の目〉〈フーゾク俳人の目〉〈ゲーノウ俳人の目〉〈エンタメ俳人の目〉という複数の観点から照明をあてることで、西鶴作品を先鋭的に現代に蘇らせることに成功している。
 浅沼璞は西鶴の多面性に関して早くから注目し、ドストエフスキー文学のポリフォニイ性を指摘したミハイル・バフチンの著書(新谷敬三郎訳『ドストエフスキー創作方法の諸問題』冬樹社)にも深い関心を寄せていた。実は、わたしと著者の親密な関係性は、研究対象の〈多面性〉を問題にしていたことにあった。著者は第三章「エンタメ俳人の目」の最後に、西鶴の小説十二編を翻案して『新釈諸国噺』を書いた太宰治の言葉「西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのような仕事に依って、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義ではないと思われる」を引用している。とりあえずメリメ、モオパッサンは脇に置いておくとして、〈世界で一ばん偉い作家〉とくれば、それはわたしにとってはドストエフスキーということになる。つまり西鶴の作品世界はドストエフスキーの作品と較べて論じればかなり面白いのではないかという予感がわたしには古くからあった。
 浅沼璞と、ドストエフスキー西鶴に関して本格的な議論はしていないが、両作家における〈多面性〉の問題はこれからの一つの大きな課題になるのではないかと思っている。両作家の決定的な違いは、ドストエフスキーには地上世界において真理・正義・公平を体現すべき神に対する信仰と懐疑の問題があるが、西鶴にはそういった一神教的な神の問題は存在しなかった。その意味でも両作家を比較検証することによって西鶴文学の非西欧的な独自性も浮き彫りになることだろう。
 いずれにしても神なき世界において生きる西鶴作品の人物たちは、著者の軽妙洒脱な語り口と照明効果によって現代日本のケーザイ・フーゾク・ゲーノウ・エンタメの舞台に新たなる衣装を纏って登場することとあいなった。著者が三百年の時空を現代に繋げることができたのは、西鶴の人間を見つめる眼差しを著者もまた獲得したことにあろう。どのような人間も善悪を超えて生きている、あるいは生きていかざるを得ない。西欧的な神の試みや裁きに人間を晒すのではなく、生きてあることのせつなさ、悲しさ、そして喜びに我が身を寄せて人間を描くとき、描かれた人間はそのひと独自の輝きを発することになる。
 西鶴の多面性の豊かさの背後には諦念とニヒリズムが潜んでいるが、それらを遊びの次元に昇華するエネルギーもまた潜んでいた。著者の西鶴西鶴作品の人物たちに対する眼差しは冷徹ではあるが限りなく優しい。こういった優しい眼差しを獲得するまでにひとは、口に出しては言えない艱難辛苦を体験する。西鶴は三十四歳の時に二十五歳の妻を病で亡くしている。西鶴は五十二歳で亡くなる前年の三月に盲目の娘の死に立ち会わなければならなかった。膨大な数の俳句と小説作品を創造し続けた西鶴の、そのエネルギーの源泉は大いなる悲憤にあったとも思われる。
 浅沼著『西鶴という俳人』は〈浅沼ハクという連句人〉の肖像画ともなっている。この著書はわたしの胸に多くの言葉を投げかけてきた。そして新たな研究意欲までわきたたせてくれた。本書は西鶴研究者ばかりでなく多くの読者の胸に響く、多大な影響力を持った軽妙な、つまり円熟した力作である。西鶴文学をわがものとした著者ならではの仕事であり、今後のさらなる研究も楽しみである。浅沼璞は井原西鶴を現代に蘇らせる名プロデューサーであり、西鶴文学をリメイクするエンターティナーでもある。

「マンガ論」は先週から手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』の講義に入った。

近況報告

「マンガ論」は先週から手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』の講義に入った。タイトルの『罪と罰』は内田魯庵明治25年に刊行した本以来変わっていない。

なぜ手塚治虫ドストエフスキーの『罪と罰』をマンガ化したのか。その理由を探る。原作は最初の三行ほどを講義した。

今回は主人公ロジオンの内部世界へと参入することにする。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載10

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載10

 

 

 作者はエピローグにおいて「彼が自分の犯罪を認めたのは、それにもちこたえることができず、自首して出たその一点においてであった」(下・391)〔Вот в чем одном признавал он свое преступление: только в том, что не вынес его и сделал явку с повинною.〕(ア・417)と書いている。ここで〈犯罪〉と訳された〈преступление〉は〈過ち〉ぐらいの意味で受け止めた方がわかりやすい。ロジオンはアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人を殺害しており、この行為が〈犯罪〉(преступление)であることはロジオンが認めようが認めまいが事実として変更しようがない。作者はロジオンにおける〈過ち〉は〈自首して出たその一点〉としているが、わたしに言わせればそれは〈自首〉ではなく、〈殺人を犯してしまったその一点〉にある。

 ラズミーヒンの証言によれば、大学在籍中のロジオンは貧しい肺病の学友を半年にわたって金銭的にも援助し、その学友が死んだ後は、彼の年老いて衰弱した父親を病院に入院させ、彼が死ぬと葬式まで出したやっている。また下宿の女将プラスコーヴィヤによれば、ある夜、火災が起こった時にロジオンは我が身の危険をもかえりみず、火事場に飛び込んでふたりの幼い子供を助け出している。エピローグにおいて語られた自己犠牲的な行為を惜しまない大学生ロジオンは、夢の中で〈めす馬殺し〉に悲憤を感じて激しく非難と抗議の声をあげる七歳のロジオンとみごとに重なる。ロジオンは貧困、病気、虐待に苦しむ者に深い憐憫の情をもって寄り添うことのできる、マルメラードフの言葉で言えば〈ものに感じる心〉をもった教養のある青年なのである。だからわたしたちは何度でも同じ疑問の前に佇むほかはない。なぜロジオンのような心優しい青年が二人の女の頭上に斧を振り下ろすことができたのか、なぜロジオンはこの殺人行為に〈罪〉(грех)を感じることができなかったのか、と。

 まずロジオンの学友とその父親に対する援助について考えてみよう。ロジオンは年金百二十ルーブリで生活していかなければならない母親プリヘーリヤの仕送りを当てにしなければ、学費も下宿代も支払いが困難な状況下にあった。家庭教師の賃金などではとうていペテルブルクでの学生生活をまかないきることはできない。ロジオンは下宿の娘ナタリアと婚約し、女将から百十五ルーブリもの金を借りている。ロジオンの金銭感覚は苦学生としてのバランス感覚から大いにはずれている。上京してすぐにドイツ製の山高帽子などかぶってネフスキー通りを貴族青年気取りで散策しているようなロジオンは、自分が置かれている現実を的確に把握しているようには思えない。ふつうの想像力を持っていれば、母親に法外な金の送金を求めたり、婚約者の母親に借金を申し込むことの非常識なまねはしなかっただろう。病身の学友とその父親に対する援助は、それがいくら献身的な善行とは言え、自分の分をわきまえぬ者の軽率な行為とも言えるのである。ドイツ製丸型帽子から婚約、借金、学友への援助まで、ロジオンの行動は分をわきまえぬ行為であり、彼のこの性向が〈アレ〉(アリョーナ婆さん殺し)へと向かわせた最大の要因とも言える。もしロジオンが貧しい屋根裏部屋の空想家、将来の有望な小説家や学者を夢見て努力する苦学生であったならば、〈アレ〉は〈幻想〉

(фантазия)、〈玩具〉(игрушка)の域を逸脱することはなかっただろう。ロジオンは一人の〈凡人〉として、地道な苦学生として生きる途からはずれてしまった。それはロジオンが自分を〈非凡人〉と見なしたいという、分をわきまえぬ思いにとらわれた結果であり、その思いを増長させていたのが教育ママのプリヘーリヤである。プリヘーリヤもまた自分の分をわきまえずに、息子のロジオンに過剰な期待を寄せてしまった。二百年の歴史を刻むラスコーリニコフ家を再建し、ラスコーリニコフ家の杖となり柱となるという、プリヘーリヤが息子に与えた使命は、ロジオンが引き受けるには余りにも大きすぎる〈荷馬車〉だったのである。この文脈からすれば、ロジオンは殺された〈めす馬〉であり、プリヘーリヤは殺したミコールカとなる。

 もう一度、〈めす馬殺し〉の夢の場面を振り返ってみよう。

 

 酒場の入口の階段のわきには荷馬車が一台、それも奇妙な荷馬車がとまっていた。それは、大きな運送馬を何頭もつけて、商品や酒樽を運ぶのに使う大型の荷馬車だった。少年は、たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬が、せかず焦らず規則正しい足どりで、山のように積みあげた荷を引いていくのを見るのが大好きだった。馬たちの様子には少しもへこたれたところなどなく、荷がないよりは、荷のあるほうが楽だといわんばかりである。(上・118~119)

 

 プリヘーリヤもロジオンも共に望んだのは〈大型の荷馬車〉を「せかず焦らず規則正しい足どりで」楽々と引いていく〈たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬〉であった。が、現実は見てのとおり、ロジオンもプリヘーリヤも老いさらばえた〈めす馬〉の運命を生きなければならなかった。ロジオンは〈たくましい運送馬〉、〈良心に照らして血を流すことが許された非凡人〉にはなれなかった。ところで、自分の分をわきまえずに殺人を犯してしまったロジオンの〈信仰〉を、本当に分をわきまえたものと見ることができるのだろうか。『罪と罰』の〈殺人〉から〈復活〉に至る物語は、分をわきまえた者から見れば、一編の真夏の夜の夢でしかないのである。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載9

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載9

 

 

 最後に〈めす馬殺し〉の場面で連想されるのは、十字架上で六時間の苦痛の末に息絶えたイエスである。ピラトに鞭打たれ、ユダヤ人に引き渡されたイエスは唾をかけられ、嘲られ、十字架を背負ってゴルゴタの丘をのぼり、処刑された。イエスは三日後に復活したと伝えられているが、ドストエフスキーが『白痴』の中で描いた十字架から下ろされたキリストは復活をまったく感じさせない恐るべき死体でしかなかった。

 ハンス・ホルバインが描いた「死せるキリスト」は、生前死者(ラザロ)をも蘇らせたイエスのその前後未曾有の一大奇蹟をすら嘲笑うかのように死の勝利を揺るぎなく宣言している。自然は〈神の子〉イエスをすら微塵の容赦もなく死の淵へと突き落とし平然としている。

 『白痴』のイッポリートも作者ドストエフスキーも人間の死に直面して戦慄しているのではない。彼らはあくまでも十字架から下ろされたイエス・キリストのその死体、復活などとうてい信じられないその無惨な死体に慄いている。なぜなら彼らはイエスを〈神の子〉、父なる神から地上の世界へと人間の姿を借りて降臨した存在であるというキリスト教の教義を受け入れていたからである。彼らにとってイエスは単なる慈悲深い人の子にとどまっていてはならなかった。イエスは人間なら誰しも受け入れなければならない〈死すべき存在〉としての運命を甘受するだけでなく、死をも超えた永遠の命を約束する存在でなければならなかったのである。しかし、理性と知性を身につけた近代人にイエスの〈神の子〉を純朴に信じることほど困難なことはない。自然は人間に限らずあらゆる生物の誕生と死をいっさいの感情抜きで司っている。〈神の子〉も〈父なる神〉も人間の願望、欲望を反映しているが、自然は人間を特別視することはない。イワン・カラマーゾフは神に地上世界における公平・真理・正義の体現を要求し、そのことがかなわずに神に抗議して発狂する。が、イワンが神に求めた〈公平・真理・正義〉は人間の次元を一歩も超えていない。自然は人間を含めたあらゆる現象界においてそれらを永遠の沈黙のままに体現している。ドストエフスキーが創造した信仰者と人神論者に共通しているのは、この自然とのすべき融合がなかったことである。イッポリートはあらゆるものを情け容赦もなく呑み込んでしまう冷酷な巨大な機械の如きものとして自然をイメージしている。が、それは自然の一側面を誇張しているに過ぎない。自然はあらゆるものを呑み込むが、同時にあらゆるものを生み出している。自然は個別的な〈死〉を突出させない。自然は人を〈単なる人〉や〈神の子〉などと区別しない、否、人に限らずあらゆる生物、物質に対して常に公平である。

 『罪と罰』において神と自然がことさら問題になっているわけではない。ロジオンは神と人間(特に非凡人)のことに関しては頭を悩ましたが、結果として彼は〈理性と力の意志〉をもって生きる非凡人を返上しソーニャの信仰に与することになった。作者はエピローグにおいて〈思弁〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)が到来したと書いて、ロジオンが復活の曙光に輝いたことを保証する。が、わたしのような読者は、作者の言葉にそのまま同意することはできない。夢の中で〈めす馬殺し〉に誰よりも悲憤を感じた七歳のロジオンが、十六年後、舞台をリャザン県ザライスクの片田舎から首都ペテルブルクに変えて、今度は現実の加害者となる。ロジオンが斧で殺した〈めす馬〉はアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人だが、シンボリックな次元では先に示したようにロジオン自身も、ソーニャも、カチェリーナも、プリヘーリヤも、皇帝も、神も、殺しの対象となる。作者は「本当にわたしはアレができるのだろうか?」と書いて〈アレ〉の多義的な意味を意図的に曖昧にすることで編集者や検閲官の目をたぶらかすことに成功した。が今や〈アレ〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉に限定したり、多義的な意味を曖昧に処理することは許されない。ロジオンが振り上げた斧はまず最初に自分自身の額を、次いでアリョーナ婆さん、次いでリザヴェータ……そして最後には神の額を叩き割ることになっていた。『罪と罰』の中でロジオンが明確に意識化できたのは〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉まてであったが、作者ドストエフスキーの内ではもちろん〈神殺し〉まで視野に入っていたと見ることができる。

 そこで改めて『罪と罰』における〈神〉とはなんであったのかということが問題になる。繰り返しを恐れず簡単にまとめておこう。まずソーニャの信じる〈神〉(бог)がある。この〈神〉はソーニャの傍らに顕れるが話しかけたりソーニャ以外の人間に見えることはない。次に〈ラザロの復活〉朗読場面で〈立会人〉(свидетель)となっていたスヴィドリガイロフである。彼は単なる〈奇蹟〉(чудо)の立会人にとどまることなく、〈現実に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)としての〈神〉(провидение)でもあった。ソーニャは現実に奇蹟を起こす神スヴィドリガイロフによって淫売稼業の泥沼から救い出され、ロジオンをシベリアにまで追っていくことができた。しかし、ロジオンは狂信者ソーニャの信じる〈神〉に最終的に帰依したが、その途上で奇蹟を起こしたスヴィドリガイロフに思いをいたすことはなかった。「ヨハネ福音書」の中のイエスは死んで四日もたったラザロを復活させたが、『罪と罰』の中の〈神〉はその姿を万人の前にさらすこともなければ、神の子であることを証明するための奇蹟を何一つ行うことはなかった。ソーニャの信じる〈神〉(бог)は現実の世界で奇蹟を起こした〈神=スヴィドリガイロフ〉(привидение)ではなかった。ロジオンはスヴィドリガイロフの奇蹟によってソーニャと共に愛によって復活することができたが、чудотворец、привидениеとしてのスヴィドリガイロフを真っ正面に見据えることはなかった。