文学の交差点(連載1) 浅沼璞『西鶴という俳人』を読む 

本日より「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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文学の交差点(連載1)

清水正

■浅沼璞『西鶴という俳人』を読む

 『西鶴という俳人』(玉川企画、二〇一四年)は『西鶴という方法』(鳥影社、二〇〇三年)『西鶴という鬼才』(新潮社、二〇〇八年)に続く浅沼璞の三冊目の井原西鶴論である。浅沼の西鶴研究は学生時代に遡るから、すでに四十年の歴史を刻んでいる。本書は西鶴の俳句や小説の世界に自在に切り込み、独自の世界を展開している。まず感じられるのは著者の西鶴に対するのめり込み、惚れ込みようである。もちろん研究は対象に対する冷静、客観的な姿勢を要請する。しかしそれ以上に必要とされるのは研究対象に対する情熱である。情熱や愛の欠如した研究は底が知れている。浅沼西鶴の独自性は、論者浅沼が対象である西鶴の俳句や小説の人物たちにかぎりのない愛を注いでいるということにある。特に本書において西鶴の小説の人物たちは現代日本の現実舞台に生き生きと蘇生している。『日本永代蔵』『西鶴織留』『好色一代男』『好色一代女』など西鶴の代表的な作品を、〈ケーザイ俳人の目〉〈フーゾク俳人の目〉〈ゲーノウ俳人の目〉〈エンタメ俳人の目〉という複数の観点から照明をあてることで、西鶴作品を先鋭的に現代に蘇らせることに成功している。
 浅沼璞は西鶴の多面性に関して早くから注目し、ドストエフスキー文学のポリフォニイ性を指摘したミハイル・バフチンの著書(新谷敬三郎訳『ドストエフスキー創作方法の諸問題』冬樹社)にも深い関心を寄せていた。実は、わたしと著者の親密な関係性は、研究対象の〈多面性〉を問題にしていたことにあった。著者は第三章「エンタメ俳人の目」の最後に、西鶴の小説十二編を翻案して『新釈諸国噺』を書いた太宰治の言葉「西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのような仕事に依って、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義ではないと思われる」を引用している。とりあえずメリメ、モオパッサンは脇に置いておくとして、〈世界で一ばん偉い作家〉とくれば、それはわたしにとってはドストエフスキーということになる。つまり西鶴の作品世界はドストエフスキーの作品と較べて論じればかなり面白いのではないかという予感がわたしには古くからあった。
 浅沼璞と、ドストエフスキー西鶴に関して本格的な議論はしていないが、両作家における〈多面性〉の問題はこれからの一つの大きな課題になるのではないかと思っている。両作家の決定的な違いは、ドストエフスキーには地上世界において真理・正義・公平を体現すべき神に対する信仰と懐疑の問題があるが、西鶴にはそういった一神教的な神の問題は存在しなかった。その意味でも両作家を比較検証することによって西鶴文学の非西欧的な独自性も浮き彫りになることだろう。
 いずれにしても神なき世界において生きる西鶴作品の人物たちは、著者の軽妙洒脱な語り口と照明効果によって現代日本のケーザイ・フーゾク・ゲーノウ・エンタメの舞台に新たなる衣装を纏って登場することとあいなった。著者が三百年の時空を現代に繋げることができたのは、西鶴の人間を見つめる眼差しを著者もまた獲得したことにあろう。どのような人間も善悪を超えて生きている、あるいは生きていかざるを得ない。西欧的な神の試みや裁きに人間を晒すのではなく、生きてあることのせつなさ、悲しさ、そして喜びに我が身を寄せて人間を描くとき、描かれた人間はそのひと独自の輝きを発することになる。
 西鶴の多面性の豊かさの背後には諦念とニヒリズムが潜んでいるが、それらを遊びの次元に昇華するエネルギーもまた潜んでいた。著者の西鶴西鶴作品の人物たちに対する眼差しは冷徹ではあるが限りなく優しい。こういった優しい眼差しを獲得するまでにひとは、口に出しては言えない艱難辛苦を体験する。西鶴は三十四歳の時に二十五歳の妻を病で亡くしている。西鶴は五十二歳で亡くなる前年の三月に盲目の娘の死に立ち会わなければならなかった。膨大な数の俳句と小説作品を創造し続けた西鶴の、そのエネルギーの源泉は大いなる悲憤にあったとも思われる。
 浅沼著『西鶴という俳人』は〈浅沼ハクという連句人〉の肖像画ともなっている。この著書はわたしの胸に多くの言葉を投げかけてきた。そして新たな研究意欲までわきたたせてくれた。本書は西鶴研究者ばかりでなく多くの読者の胸に響く、多大な影響力を持った軽妙な、つまり円熟した力作である。西鶴文学をわがものとした著者ならではの仕事であり、今後のさらなる研究も楽しみである。浅沼璞は井原西鶴を現代に蘇らせる名プロデューサーであり、西鶴文学をリメイクするエンターティナーでもある。