清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載8

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載8

 

 

※〈めす馬殺し〉の場面を江川卓訳とアカデミア版原典で確認しておこう。ミコールカに殺される〈めす馬〉は様々に形容、表記されている。順番に列記する。

■「そんな大型の荷馬車に、ちっぽけな、やせこけた葦毛の百姓馬」(上・119)〔в большую такую телегу впряжена была маленькая, тощая, саврасая крестьянская клячонка,〕(ア・46)

 〈ちっぽけな、やせこけた〉という形容で、小柄で背の低いアリョーナ婆さん、同じく小柄で痩せたソーニャを連想させる。〈疲れ弱った人〉でプリヘーリヤを連想させる。  кляча ①痩馬, やくざ馬. ②【俗】疲れ弱った人.

■「そんなやせ馬に、引けてまるかよ!」(45・119)〔Этака кляча да повезет!〕(ア・47)

 ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「そんなでっけえ荷馬車にこんなちっぽけな馬をつけやがって!」(上・120)(ア・47)〔этаку кобыленку в таку телегу запрег!〕(ア・47) 背の高い女リザヴェータを連想させる。

 кобыла ①雌馬. ②元気な背の高い女.  кобылица ①雌馬. кобылка ①【指小, 愛】→кобыла(雌馬).

■「なあ、みんな、この葦毛のやつァ、てっきり二十からの婆さま馬だぜ!」(上・120)〔А ведь савраске-то беспременно лет двадцать уж будет, братцы!〕(ア・47) ん歳!〕

 〈婆さま馬〉でアリョーナ婆さんを連想させる。  саврас 【口】①あし毛の馬. ②駄馬. савраска 【口】①同上愛称.

■「ところがよ、みんな、この婆ァ馬ときたら、」(上・120)〔а кобыленка этта,〕(ア・47)

 〈婆ァ馬〉でアリョーナ婆さんを連想させる。

■「いかにも楽しそうに、葦毛をひっぱたこうと身構えた。」(上・120)〔с наслаждением готовясь сечь савраску.〕(ア・47)

■「こんなへなちょこの婆ァ馬」(上・121)〔этака лядащая кобыленка〕(ア・47)

 アリョーナ婆さん、プリヘーリヤを連想させる。

■「かわいそうなお馬をぶってるよ!」(上・122)〔бедную лошадку бьют!〕(ア・48)  

〈かわいそうな〉の形容でリザヴェータ、ソーニャを連想させる。 лошадь ①馬.

■「馬のそばに走りよる。」(上・122)〔бежит к лошадке.〕(ア・48)

■「哀れな馬はもういけなかった。」(上・122)〔бедной лошадке плохо.〕(ア・48)  

〈哀れな〉の形容でソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、さらに「哀れな少年」(上・126)〔бедный мальчик〕(ア・49)と書かれたロジオンを想起させる。

■「こんな馬にそんな荷をひかせるなんて、恐ろしいこった」(上・122)〔Видано ль, чтобы така лошаденка таку поклажу везла,〕(ア・48)  ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「牝馬」(上・123)〔кобыленка〕(ア・48)  ソーニャ、リザヴェータ、アリョーナ婆さん、プリヘーリヤを想起させる。

■「こんなやせ馬のくせに、」(上・123)〔этака дядащая кобыленка,〕(ア・48)

 ソーニャ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「少年は馬の横を駆けぬけ、」(上・123)〔Он бежит подле лошадки,〕(ア・48)

■「また馬のそばへ駆けよった。」(上・123~124)〔опять бежит к лошадке.〕(ア・48)

■「力まかせに葦毛の上に振りあげた。」(上・124)〔с усилием размахивается над савраской.〕(ア・48)

■「哀れなやせ馬の背に力まかせに一撃を加えた。」(上・124)〔другой удар со всего размаху ложится на спину несчастной клячи.〕(ア・48)

 アリョーナ婆さん、リザヴェータ、ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「哀れな自分の持ち馬に」(上・125)〔свою бедную лошаденку.〕(ア・49)  ソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「牝馬」(上・125)〔кобыленка〕(ア・49)  ソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「やせ馬は鼻づらを突きだして、苦しげに息をつき、死んでいった。」(上・125)〔Кляча протягивает морду, тяжело вздыхает и умирает.〕(ア・49)

 アリョーナ婆さん、リザヴェータ、カチェリーナを連想させる。 

 

 以上、この〈めす馬殺し〉において〈馬〉は様々に表記されている。кляча、кобыла、саврас、лошадьおよびこれらの愛称語で記されている。まさにミコールカによって殺された〈馬〉が単なる痩せて年老いた百姓馬のみを意味しているのではなく、実に多義的な象徴性を内包していたことが分かる。作中に登場する主要な女性人物たち、ロジオンによって実際に殺されたアリョーナ婆さん、リザヴェータを始めとしてソーニャ、プリヘーリヤ、カチェリーナなどがみなそれぞれ大きな荷馬車を引いて息絶え絶えに生きていた。さらにロジオン自身もまた、二百年の伝統を持つラスコーリニコフ家を再建するという使命を課せられ、ラスコーリニコフ家の杖として柱として母や妹の希望を一身に背負って輝かなければならなかった。ロジオンもまた彼一人では引ききれない余りにも大きな荷馬車をあてがわれていたことでは、夢の中で息絶える百姓馬となんら変わらなかった。想像力をさらに膨らませれば、〈馬〉はロシアの皇帝にまで及ぶであろう。ニコライ一世の後を継いだアレクサンドル二世は農奴制解放を初めとして、司法権の独立、国立銀行創設、大学改革など早急にロシアを近代化しなければならなかった。皇帝もまた巨大な後進国〈ロシア〉という荷馬車を引いてあがきもがかなければならなかった。.アレクサンドル二世が「人民の意志」派のテロリスト、イグナツィ・フリニェヴィエツキ(ポーランド人)の爆弾で暗殺されたのは一八八一年三月十三日、『罪と罰』が「ロシア報知」に発表された一八六六年から十五年後、ドストエフスキーが逝去してからわずか一ヶ月後のことであった。 

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載7

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清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載7

 

 

 ロジオンの第二の犯行、目撃者として現れたリザヴェータ殺しを見てみよう。

 

  部屋のまんなかに、大きな包みを手にかかえたリザヴェータがつっ立ち、茫然自失したように殺された姉を見つめていた。顔は布きれのように青ざめ、悲鳴をあげる力もないらしかった。走りでてきた彼を見ると、彼女は木の葉のように小刻みに震えはじめ、顔じゅうに痙攣が走った。片手をもちあげ、口を開きかけたが、やはり叫ぶことはしなかった。そして、そのまま彼の顔を穴のあくほど見つめながら、部屋の隅のほうへのろのろと後じさって行った。悲鳴をあげようにも空気が足りないといったふうで、あいかわらず声ひとつ立てなかった。彼は斧をかざして彼女にとびかかって行った。彼女の唇は、ちょうどごく幼い子が何かにおびえ、その恐ろしいものをじっと見つめながら、いまにも泣きだしそうになるときのように、いかにも哀れっぽくゆがんだ。そのうえ、この哀れなリザヴェータは、斧を頭上にふりあげられているというのに、手をあげて自分の顔をかばうという、このさい、ごく自然に必要な身振りさえしようとしなかった。それほどに単純で、いじめつけられ、おどしつけられていたのだ。彼女は、空いているほうの左手をほんのわずかもちあげたが顔まではとてもとどかなかった。そして、彼を押しのけようとでもするつもりか、その手をのろのろと前に差しのべた。斧の刃はまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。彼女ははげしくその場に倒れた。ラスコーリニコフはすっかり度を失い、彼女の包みをひったくったかと思うと、またそれを投げすて、玄関の間に走りこんだ。(上・165~166)

 

 ロジオンはこの第二の殺人、リザヴェータ殺しを〈まったく予期しなかった殺人〉〔совсем неожиданного убийства〕と思っている。ロジオンが予定していたのはアリョーナ婆さん殺しのみであって、リザヴェータの出現はまったく予想外であったというわけである。この〈第二の殺人〉を予期しなかったのはロジオンで、もちろん作者はこの殺人を自覚的に描いている。ドストエフスキーの小説家としてのしたたかさは、『オイディプス王』を書いたソフォクレスに匹敵する。誰一人解けなかったスフィクスの謎を解いた英知の人オイディプスは父親殺しと母親との契りに関しては驚くべき愚鈍ぶりを発揮している。つまりソフォクレスがそのように描き分けているということである。犯罪に関する論文を投稿して採用されるほどの英知の人ロジオンが、ことリザヴェータ殺しに関してはまったく想像力も直観も働かない愚者を演じさせられているということである。

 ロジオンは偶然センナヤ広場でリザヴェータと古着屋の女房との会話を耳にする。女房は明日の〈第七時〉(六時から七時)にアリョーナ婆さんには内緒で出かけてくるように言う。この〈第七時〉を午後七時と思いこんだロジオンはまさに〈悪魔〉(черт)のかどわかしに乗ってしまったと言えるが、その〈悪魔〉を派遣したのが作者ドストエフスキーに他ならない。ロジオンの〈踏み越え〉(преступление)は〈アリョーナ婆さん殺し〉にとどまってはならなかったからこそ、作者はロジオンの〈踏み越え〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉とは書かずに〈アレ〉と書き、〈第七時〉を〈七時〉と思い込ませるのである。リザヴェータ殺しの現場を直視すれば分かるように、ロジオンは〈まったく予期しなかった第二の殺人〉において微塵の躊躇も見せていない。ロジオンは自分の確固たる意志でリザヴェータの額を叩き割っている。これは見ようによっては、「良心に照らして血を流すことが許されている」などという理論を超えて、ロジオンは実に恐ろしいことをしでかしてしまったということである。ロジオンはリザヴェータ殺しに関して何ら理論的な正当化をしていないし、そもそもリザヴェータのことをまともに思い出しもしない。しかし、理不尽な〈めす馬殺し〉に捨て身で抗議をしたロジオンが、よりによって哀れなリザヴェータを躊躇なく叩き殺してしまったのだ。ロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカよりもはるかに残酷で理不尽な殺しの張本人となったのだ。いっさいの弁明をしないロジオンの罪は深いが、作者は最後まで無罪意識のままのロジオンを復活へと導いていく。いったいどういうことだ。作者にはすべてが許されているのか。

 世界の不条理、悲しみや苦しみに誰よりも敏感に反応し、抗議と悲憤の叫び声をあげるロジオンが、二人の女の頭を斧で叩き割ってしまう。この二人の女の殺害現場を夢の中に登場した七歳のロジオンが目撃していたとすれば、どのような叫び声を発しただろうか。二十三歳のロジオンは七歳のロジオンの叫び声にどのように答えるのか。七歳のロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカを赦すことはできなかっただろう。はたして七歳のロジオンは二人の女を殺したロジオンとどのような折り合いをつけるのか。 商家の女将からの恵みの二十カペイカ銀貨を放り捨て、アリョーナ婆さんが身につけていた二つの十字架を彼女の胸に投げ捨てた殺人者ロジオンが、ネワ川の底に沈んだ二十カペイカ銀貨を探し出すこともなく、アリョーナ婆さんの血にまみれた十字架を浄めることもなく、どうして復活の曙光に輝くことができるのか。無罪意識のままの殺人者ロジオンとスヴィドリガイロフの善行によってシベリアにまでロジオンを追ってこられたソーニャを復活の曙光に輝かせた《愛》(любовь)とは……。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載6

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清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載6

 

 

 作者はロジオンにおける〈運命〉、偶然の積み重ねとしての必然をたとえばロジオンの回想に託して次のように表現する「思いがけなく訪れて、すべてを一時に決定してしまったあの最後の日は、ほとんど物理的ともいえる作用を彼におよぼした。まるでだれかが彼の手をつか、強引に、盲滅法に、超自然的な力で、逆らう余地もなく彼を引きずって行くようだった」と。ロジオンを犯行現場へと引きずっていく〈だれか〉とはいったい〈だれ〉なのか。〈悪魔〉なのか、〈神〉なのか、それとも〈神でもあり悪魔でもある〉或る何ものなのか。さらにそれとも〈神〉でも〈悪魔〉でもない、まさにすべての自然・世界事象の運行を司るものなのか。ロジオンは自らの犯行に〈運命の予告〉を、〈神秘的でデモーニッシュな力の作用〉を感じるが、そこで彼の思考は停止する。ロジオンは〈運命〉そのものを問うことはないし、〈神〉と〈悪魔〉の関係性、そののっぴきならない共犯関係についても一切発言することはなかった。

 第一の犯行・アリョーナ婆さん殺しの現場を見てみよう。ロジオンは後ろを向いた老婆の頭上めがけて斧を振り上げるが、刃先は自分の方に向かっていた。つまりロジオンは斧の峯で老婆の頭を叩き割っている。象徴的次元で解読すれば、ロジオンは無意識のうちに老婆より先に自分の頭を叩き割っていた事になる。ロジオンの額には666の悪魔の数字が刻印されていたのであるから、彼は最初に自らの〈悪魔〉を殺した後に老婆を殺害したことになる。ところで、素朴な疑問を呈すれば、自分の〈悪魔〉を殺した者がたとえ一匹の有害な〈虱〉とは言え、三度も斧を振り下ろすことができるのだろうか。もし、できるとすればロジオンにおけるアリョーナ婆さん殺しは、〈悪魔〉のなせる技ではなかったという意味でもそら恐ろしい出来事となる。まさにロジオンは〈良心〉に照らしてアリョーナ婆さんを殺したことになる。もう一つ注目すべきことは、ロジオンは殺したアリョーナ婆さんの首に掛かっていた紐を、死体を台にして斧で叩き切ろうとしたことである。ロジオンはためらって実行はしなかったが、一瞬とはいえそのように思ったことは事実であり、殺人者ロジオンの恐ろしさを体感する。こういつた青年を観念的次元で読み解くことの危険性をまさまざと感じる場面である。

     注目すべきは、アリョーナ婆さんの首に掛かっていた紐には糸杉と銅の二つの十字架と七宝細工の聖像とがついていたことである。読者はアリョーナ婆さんがソーニャやリザヴェータとは違ったにせよ、熱心な信仰者であったことを忘れてはならない。ソーニャは淫売婦でありながら神を信じ、リザヴェータは年中孕みながら神を信じ、そしてアリョーナ婆さんはユダヤ人並の高利貸しでありながら神を信じている。ロジオンは神に向けて呪われた運命からの解放を願いながら、キリスト者アリョーナ婆さんを斧で叩き殺し、二つの十字架を彼女の胸の上に投げ捨てるのである。ロジオンは商家の女将から恵まれた二十カペイカ銀貨もネワ川に投げ捨てているが、これほどの涜神的な行為を繰り返しながら、にもかかわらず彼は神そのものを捨て去ることはできなかった犯罪者なのである。

 

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載5

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■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載5

 

 読者はすでにアリョーナ婆さんに対して社会に有害な一匹の〈虱〉という先入観を与えられているから、ロジオンの「一つの犯罪は百の善行によって贖われる」「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」という理論を素直に受け入れることになる。ロジオンがここで〈呪わしい空想〉を振るい捨てたとしても、それは彼がアリョーナ婆さん殺しの結果に「耐えられない」「もちこたえられない」ことによってであり、彼の殺しの理論自体を否定したことによってではない。ロジオンは〈アレ=プリヘーリヤ〉〈アレ=ソーニャ〉等を全く視野に入れずに〈呪われた空想〉からの解放を神に願ったのである。作者は次のように書いている。  

 

 橋を渡りながら、彼は静かな落ちついた気持でネワ川を眺め、赤々と輝く太陽のまばゆいばかの夕映えに目をやった。体は衰弱しきっていたが、疲労感はほとんど感じなかった。それは、まる一月も化膿していた心臓の腫物が、ふいにつぶれたような思いだった。自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である! (上・129) 

 

 ロジオンにとって〈アレ〉は〈呪われた空想〉であり〈まやかし〉〈妖術〉〈魔力〉〈悪魔の誘惑〉であったが、〈めす馬殺し〉の夢を見た後ではそれらから解放され〈自由〉となった。が、わたしたち読者はロジオンが〈……悪魔の誘惑〉から真に解放されていなかったことを知っている。どういうことか。ロジオンは何ものかによって弄ばれているのか。作者は〈運命の予告〉という言葉を使っている。まさにロジオンは十九世紀ロシア中葉に出現したオイディプスなのである。オイディプスが「父を殺し、母と臥所を共にする」という、アポロンの神より告げられた〈呪われた運命〉から逃れられなかったように、ロジオンもまた自分の〈意志〉を超えた〈運命〉の不可避性を生きざるを得なかった。

 〈意志〉を超えた〈運命〉ということであれば、〈アレ〉の実行の責任をロジオン個人に負わせることはできない。〈運命〉は善悪観念を超えた、いわば必然であり、偶然は必然の別名でしかない。たまたまセンナヤ広場で古着屋の女房とリザヴェータの会話を耳にし、明日の午後七時にはアリョーナ婆さんが一人きりになると思いこんだこと、犯行当日、殺しの道具として予め考えていた料理用の斧がナスターシャが外出していなかったことで手に入れられなかったが、庭番小屋に斧を発見する。たまたま庭番はおらず、ロジオンはまんまと斧を手に入れることができた。犯行に至るまでのすべての偶然は必然の道であり、ロジオンはこの必然の網の目から遂に自由になれることはなかった。彼にもし自由があるとすれば、必然即自由としての自由しか与えられていなかった。ただしドストエフスキーの〈運命の予告〉のうちに必然即自由とか、運命と神の問題なとが予め考え尽くされていたかどうかについては即断できない。ニーチェ永劫回帰キリスト教一神教の直線的時間概念を超えて円環的時間であり、善悪観念を超脱した必然の肯定であり、この永劫回帰的必然そのものを自由として体感する時間概念である。ドストエフスキーの場合は『悪霊』のキリーロフに体現された〈すべて良し〉という究極の悟達も描かれているが、このキリーロフ自身がキリスト教の教義を乗り越えていたとは思えない。ドストエフスキーの人物たちはキリスト教の《神》から解放された〈必然即自由〉の境地に精神の安定を味わうことはできなかった。《神》からの解放を願った者は自らの狂気を代償としなければならなかった。

 ロジオンは犯行後、自らの行為に〈運命の予告〉や〈ある神秘的でデモーニッシュな力の作用〉などを感じるが、〈運命〉を定めたもの、〈……力の作用〉を施すものに向けての反逆や抗議をなすことはなかった。これはオイディプスも同じである。オイディプスは自分の意志を超えた〈運命〉に対して自らを責めるという矛盾をおかしている。これはオイディプスが自らを〈運命〉をも超える英雄と見なしていたことの一つの証となっている。ロジオンは〈運命の予告〉に従って二人の女を殺害し、自分で予感していた通り、そのことにもちこたえることができなかった。ロジオンは〈運命〉に抗議する資格を持っているが、彼は〈運命〉にではなくソーニャの信じる〈神〉へと向かう。いずれにせよロジオンもソーニャも、〈運命〉と〈神〉の問題に踏み込むことはなかった。

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■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載4

 

 次に問題にしたいのは、ロジオンが斧で叩き割る女性の名前を具体的に示していないことである。ロジオンは前日、アリョーナ婆さん宅の瀬踏みに出かけているのでたいていの読者は、相手は彼女に間違いないと思うであろう。しかしこういった思いこみはドストエフスキーのような小説家の場合は危険であり、読みの多様性を自ずから封じてしまうことになる。ロジオンは「本当に私はアレをするんだろうか?」と考えたのであって「本当に私はアリョーナを殺すんだろうか?」と考えたわけではない。これはロジオンの問題というよりは作者ドストエフスキーの問題と言える。作者は作中に様々な仕掛けを組み入れている。〈アレ〉が単なる〈アリョーナ婆さん殺し〉だけを意味していないことは、ロジオンが目撃者リザヴェータを殺したことでも証明されるだろう。

 夢の中の〈めす馬殺し〉の場面で、ロジオンはいったいだれを第一番に連想しただろうか。ふつうに考えればず考えられるのは母親のプリヘーリヤであろう。プリヘーリヤは夫を亡くした後、二人の子供を育て上げ、ロジオンがペテルブルクに上京してからは、何回にも渡って多額の金を仕送りしている。プリヘーリヤは四十五歳、まだ老いさらばえた〈めす馬〉と同一視できないにしても、しかし彼女が自分の力ではどうすることもできない荷馬車を引いていたことに代わりはない。作中ではっきりとは書かれていないが、彼女が仕送り金を用意するためにアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシンから借金するとき、担保にしたのは年金証書だけでなかったことも考えられる。

 次に考えられるのはソーニャである。前日、ロジオンはマルメラードフの告白話で一家の犠牲になって淫売婦にならざるを得なかったソーニャのことを知っている。荷馬車には酔いどれの父親、胸を病んでいる継母、それに九歳を筆頭に七歳、六歳の連れ子三人が乗り込んでいる。黄色い鑑札を受けて淫売稼業に堕ちざるを得なかったのは痩せて小柄な十八歳のソーニャである。ソーニャ一人の力でこの大きな荷馬車を引いていくことはできない。やがて近いうちにソーニャは鉄梃でたたき殺された〈めす馬〉と同じ運命をたどることになるだろう。

 が、ロジオンの独語のうちで想定されているのはプリヘーリヤでもソーニャでもなく、老いさらばえてはいるが、業突く張りのアリョーナ婆さんであった。ロジオンは夢を見た直後、「ああ! おれはどうせ決行しっこないんだ! だっておれには耐えられない、もちこたえられやしない!」と思い、「長いこと心にのしかかっていた恐ろしい重荷を、ようやくふり捨てた」と感じ、穏やかな気持ちになって神に祈る『神さま! 私に道をお示しください。私は断念いたします。あの呪われた……私の空想を!』(上・129)と。 

 先に指摘したように、ロジオンは呪われた空想〈アレ〉の対象を具体的に示していない。これはロジオンの問題というより作者の問題である。作者は〈アレ〉に〈皇帝殺し〉をも含む多義的な意味を持たせているが、これは編集者や検閲官に対する大胆な挑戦でもあった。作者は〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉と明確に書かずに、読者にそのように思わせることに成功している。もしロジオンが具体的に「本当に私は母親プリヘーリヤを斧でたたき殺せるのだろうか?」(プリヘーリヤの箇所にソーニャやドゥーニャ、皇帝や神を入れてもいい)と独語したら、ロジオンの抱えていた問題ははるかに深みを持ったものになっただろう。いずれにしても作者は、読者にロジオンの〈アレ〉〈呪われた空想〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉に限定するように仕掛けている。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層 ■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載3

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載3

 

 いずれにしてもプリヘーリヤは次男を生後六ヶ月で亡くした悲しみを抱いた母親であり、二人の子供を立派に育て上げなければならないという義務を負った母親である。母と妹の期待を一身に背負ってペテルブルク大学に入学したロジオンは、下宿の娘と結婚しようと計ったり、その娘が流行の腸チフスで死ぬと、大学も退学、アルバイトもやめて屋根裏部屋に引きこもってしまう。ロジオンはプリヘーリヤの苦労を知っているはずなのに、六十ルーブリもの大金の送金を頼んだり、女将のプラスコーヴィヤには百十五ルーブリの借金をしている。『罪と罰』を最初に読んだ頃はロジオンをいわば人類の苦悩を一身に背負った文学青年のように思い込んでいたのだが、何回も繰り返し読むうちに、ロジオンは思慮深い青年と言うよりはむしろ見栄っ張りで独りよがりな軽佻浮薄な青年に見えてきた。ロジオンは母親の期待に応えられる息子としての資格をペテルブルク上京後すぐに放り投げていたように思える。

    ロジオンと同郷のペンキ職人ミコライは田舎にいる時は逃亡派に属する信徒であったが、ペテルブルクではすぐに酒と女におぼれ、ロジオンが犯した殺人事件の犯人にされてしまう。ロジオンがペテルブルクに単身上京した時の年齢は二十歳で、彼がミコライと同様な誘惑に堕ちたとしても不思議ではない。この見栄っ張りの貧乏学生は、金に困窮しているにもかかわらずドイツ製の山高帽子を被ってまるでドイツの青年貴族風を装ってネフスキー通りの散策など楽しんでいた。下宿の娘との結婚も、金をかけずに手っ取り早く肉欲を満足させるためとも考えられる。いずれにせよ、プリヘーリヤはこの息子に二百年の歴史を刻むラスコーリニコフ家の再建を託し、必死にやりくりして送金を続けた。プリヘーリヤの息子に対する過剰な期待とその粘着質的な性格が、息子を殺人という取り返しのつかない〈踏み越え〉へと追いつめたとも言える。プリヘーリヤが引き受けた荷物車は余りにも大きく重かったのである。

 ロジオンは〈めす馬殺し〉の夢を見ながら、理不尽にもたたき殺される〈めす馬〉と〈母親プリヘーリヤ〉を重ねて見ることができなかった。こにロジオンにおける大いなる問題が潜んでいる。ロジオンの想像力は 貧弱である。なぜロジオンは老いさらばえた〈めす馬〉に母の姿を重ね合わせて戦慄しないのか。もし重ね合わせることができれば、ロジオンは 決して悪魔の誘惑に唆されることはなかったであろう。ロジオンは自分の見た夢を的確に分析することができず、ただただ理不尽な暴力の犠牲となった〈めす馬〉に憐憫の情を抱くにとどまっている。ロジオンは母親の苦労が分かっていない。彼は母親の呪縛から解放されることを願っていたに過ぎないのだ。ラスコーリニコフ家の人々は、母親のプリヘーリヤ、妹のドゥーニャ、そしてロジオン自身が自らの欺瞞に気づいていない。母親プリヘーリヤの息子に宛てた手紙は四百字詰原稿用紙に換算すれば三十枚にもなる。ドゥーニャが勤め先でどのような屈辱を味わったとか、仕送り金の捻出にどんな苦労を重ねたとか、要するに息子に知らせなくてもいいことをプリヘーリヤは事細かに書き記している。こんな手紙を読まなければならない息子がどれほど苦しみ悶えるか、そういった配慮が全くない。読者が注意しなければならないのは、要するにプリヘーリヤのこういった調子なのである。ロジオンは父親ロマンが亡くなった後、いつもいつもこういった調子の母親の傍らで育ってきたということ、ちょっと想像するだけで息苦しくなるような調子である。こういった弱々しく、しかし執拗に自らの野心を押しつけるタイプの母親の呪縛から解放されるためには、単に距離を置くだけでは足りなかった。こういった母親からの呪縛を断ち切るためには、人殺しでもするほかなかったのである。これはもはや理屈ではない。凡人も非凡人も関係ない。ロジオンは母親の過剰に対して〈人殺し〉という〈踏み越え〉で答えるほかはなかったのである。ロジオンは母親を殺す代わりに、一匹の〈虱〉アリョーナ婆さんを選んだのだ。なんとも情けない卑劣漢である。ロジオンは何回となく自分の卑劣漢であることを口にするが、しかし母親を殺せなかった自分の臆病と卑劣をしっかりと認識することは最後までできなかった。

 ロジオンは荷馬車に乗って〈めす馬〉に何度も鞭を振るい、最後には鉄梃を打ち下ろすミコールカと自分自身を同一化することはできなかっただろう。夢の中の七歳のロジオンは〈めす馬殺し〉という理不尽に対して捨て身の抗議をする正義の人であり、決して荷馬車に乗り込んで〈めす馬殺し〉に荷担する者ではなかった。夢においてミコールカとロジオンは真逆の立場に立っている。だからこそ、この〈めす馬殺し〉の夢の場面は恐ろしいのだ。なぜなら、夢の中で理不尽の告発者であり、捨て身の抗議者である心優しいロジオンが、次の日には斧を振り上げて〈めす馬=アリョーナ婆さん〉をたたき殺し、次いで目撃者となったリザヴェータをも殺してしまうのであるから。

    ロジオンは〈めす馬殺し〉の夢を見た直後、全身がぶちのめされたような気分の中で「ああ!」〔Боже!〕と絶望の叫びを発し「おれは本当に、本当に斧を手にして、頭をぶち割る気なんだろうか、あいつの脳天を血で染めるんだろうか……そして、まだなまあたたかい、べとべとする血のなかをすべりながら、錠をこわし、盗みをやり、がたがたふるえているんだろうか。全身血まみれの姿で身をかくすんだろうか……斧をもって……ああ、本当にそんなことを?」(上・127)〔да неужели ж, неужели ж я в самом деле возьму топор, стану бить по голове, размозжу ей череп… буду скользить в липкой, теплой крови, взламывать замок, красть и дрожать; прятаться, весь залитый кровью… с топором…Господи, неужели?…〕と木の葉のようにふるえながらつぶやく。

  まず注意したいのは感嘆の言葉「ああ!」である。日本語の場合は誰に向けての感嘆なのか曖昧だが、ロシア語の場合は「Боже!」で明らかに神に向けての感嘆である。ロジオンは神に対して信仰と不信の両極に分裂しているが、〈不信〉も〈涜神〉も神の存在を前提にしている。ロジオンは神の存在を認めた上での〈不信者〉(безбожник)であり〈涜神者〉(богохульник)なのである。「ああ!」の感嘆に続く独語もまた、単なる自己問答ではなく神に向けての独語なのである。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載2

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載2

 

 ロジオンは高利貸しアリョーナ婆さんを一匹の有害な〈虱〉と見て、彼女を殺すことを〈良心〉に照らして許すという考えにとりつかれるが、この考えがいかに偏頗であり想像力に欠けたものであるかは前項において指摘した。ロジオンはミコールカによる老いさらばえた〈めす馬殺し〉には理不尽を感じ、激しい憐憫の情を寄せる。が、六十歳になる十四等官未亡人アリョーナには生理的嫌悪感を覚えるばかりで微塵の同情も寄せない。マルメラードフに〈ものに感じる心を持った教養のある青年〉と見込まれたロジオンは、自分の娘ソーニャをイワン閣下に身売りさせ、黄色の鑑札を受けさせて淫売婦に追いやったろくでなしのマルメラードフとその一家に同情を寄せることができるのに、ことアリョーナ婆さんにだけは同情しないというのはどういうことなのであろうか。作者はアリョーナ婆さんの喜怒哀楽を具体的に描くことなく、学生やロジオンが抱く極悪のイメージのみを書き連ねている。アリョーナ婆さんは一匹の〈虱〉である前に歴とした人間であることを忘れてはならないだろう。ロジオンが正真正銘の〈ものに感じる心〉の持ち主であるなら、アリョーナ婆さんの〈人間〉にも眼差しを注がなければならなかったはずである。

 ロジオンが〈メス馬殺し〉の夢を見たのは〈アリョーナ婆さん殺し〉の前日である。ふつうに考えれば〈めす馬殺し〉に激しい憤りを感じて大人たちに抗議したロジオンが、アリョーナ婆さん殺しを実行すること自体があり得ない。六十年の喜怒哀楽の人生を刻んできたアリョーナ婆さんを一匹の有害な〈虱〉としてしか認識できないロジオンを〈ものに感じる心〉を持った若者と見ることはとうていできない。が、描かれた限りでのロジオンはただの一度も殺したアリョーナ婆さんを気の毒におもったことはない。ロジオンはミコールカによって殺された老いさらばえた〈めす馬〉を〈アリョーナ婆さん〉に重ねることはなかったのであろうか。理不尽にも大勢の人間が乗り込んだ荷馬車を引く羽目になった〈めす馬〉の徒労な足掻きと、ユダヤ人並の高利貸し業で三千ルーブリからの金をため込んだアリョーナ婆さんの業突く張りの人生はわたしの中では重なる。アリョーナ婆さんの対他者関係の非本来性は彼女の不幸を浮き彫りにするだけで、それは彼女なりの艱難辛苦を意味している。愛と赦しの感情からかけ離れた、金中心の吝嗇主義は他者との宥和的な絆を結ぶことができず、絶えず不信と猜疑の檻の中に捕らわれた実存を生きることになる。アリョーナ婆さんはすべての同胞であるべき人間を自分の存在を不断に脅かす敵と見なして、いっさいの救いを修道院の神に委ねてしまった。アリョーナ婆さんの〈信仰〉は、現実世界での人間共同体での孤立を代償にして成り立っている。アリョーナ婆さんの〈信仰〉は腹違いの妹リザヴェータの〈信仰〉とも乖離しており、彼女の孤立に寄り添い理解を示す者はひとりもいなかった。もしロジオンがアリョーナ婆さんの高利貸しとして生きなければならなかった不可避性に思いを寄せることができたならば、彼の〈良心〉は彼女の殺しに対して許可を与えることはなかったであろう。

 殺された〈めす馬〉から連想されるのはアリョーナ婆さん以上にロジオンの母親プリヘーリヤである。プリヘーリヤは夫ロマンを亡くした後、二人の子供を女手ひとつで育てあげなければならなかった。ロマンが死んだときプリヘーリヤ、ロジオン、ドゥーニャが何歳であったのかを作者は書いていない。年金一二十ルーブリが支給されるだけの期間をロマンは役所に勤めたということぐらいしかわからない。妻のプリヘーリヤが、子供のロジオンとドゥーニャがロマンのことをどう思っていたのかも全く描かれていない。ロジオンが十歳前後の時に死んだのか、それとも十五六歳の時に死んだのかでは、残された者たちの苦労の度合いはまったく違ってくるが、作者が書いていないのであるからどうしようもない。