文学の交差点(連載8) 『源氏物語』を読むには想像力が不可欠 ――闇の豊饒――  

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載8)

清水正

源氏物語』を読むには想像力が不可欠
――闇の豊饒――  

 

 作品を批評するためには基本的な知識がなければならないが、素人のわたしは平安朝時代の様々な生活様式や法律に詳しくない。とんでもない見当違いで論を展開していく危険性がある。しかし素人には素人の強みもある。疑問な点についてはそのまま率直に疑問を提示しつつ批評を進めていくことにしたい。

 『源氏物語』の引用テキストは特別に断らない限り、瀬戸内寂聴の現代語訳(講談社文庫版)を使用する。なお漢字に付けられたルビは()内に記した。

 

  僧都の坊は、なるほど同じ草木にしても心遣いして風情のあるように植えてあります。月もない頃なので、遣水のほとりに篝火(かがりび)をともし、燈籠(とうろう)などにも火が入れてありました。南側の部屋を座席としてたいそう立派に用意してあります。室内には、空薫物(そらだきもの)がほのかに漂っていて、仏前の名香(みょうごう)の香りも部屋に匂いみちていてます。その上、源氏の君のお召物にたきしめた香までもが、風にただよい送られてきますのが、とりわけすばらしい匂いなので、奥の部屋にいる女房たちも、何となくそわそわして緊張しているように見えます。

  僧都は、この世の無常のお話や、来世のことなどをお聞かせになります。

  源氏の君は御自分の人知れぬ罪の深さも恐ろしく、そうはいっても、どうしようもなくあきらめられぬつらい思いに心を締めつけられて、

  「この世に生きるかぎり、この秘密の恋に苦しみ悩まねばならないのだろう。まして死んだあの世ではどんな劫罰(ごうばつ)を蒙(こうむ)ることやら」

  と思いつづけていらっしゃいます。

  いっそ出家遁世(とんせい)して、このような山住みの暮しもしてみたいものだとお考えになるのですが、昼間御覧になった可憐な少女の俤(おもかげ)がお心にかかり恋しいので、

 「こちらにお泊まりになっていらっしゃるのはどなたでしょうか。そのお方のことをお尋ねしたくなるような夢を、以前に見たことがございます。その夢のことが、今日はたと、思いあたりまして」

  とおっしゃいますと、僧都は笑って、

 「どうも突然な夢のお話でございますね。折角お尋ねくださいましても、素性がわかるとかえってがっかりなさるにちがいございません。故按察使(あぜち)の大納言(だいなごん)、と申しましても、亡くなりましてからずいぶん久しくなりますので、御存じではいらっしゃらないでしょう。その北の方が、実はわたしの妹でございます。按察使の死後、出家いたしましたが、最近病気がちになりましたので、こうして京にも出ず山籠りしているわたしを頼って参り、この山に籠っているのでございます」

  と申し上げました。(巻一「若紫」255~257)

 

 

源氏物語』を読むためには想像力を必要とする。もちろんどんな作品でも読者に想像力が欠けていたのでは〈読み〉のダイナミズミを体験することはできないが、『源氏物語』における省略は半端ではない。わたしたち読者は光のように美しいといわれる光源氏の顔かたち、姿を具体的に報告されているわけではない。藤壷が光源氏の母親と瓜二つと言われても、その桐壷更衣の具体的な容姿は記されず、従って読者が想像力の限りを尽くして脳内にその容姿をつくり上げる他はない。身長、体重、座高はもちろんわからず、眼も鼻も口も、要するに自分好みの美女にでも仕立てて満足するしかない。

 桐壷帝の寵愛を一身に受けていた桐壷更衣、彼女の死後に同じく特別の寵愛を受けることになった藤壷の姿は夫の帝の他には身の回りの世話をしていた女房たちにしか見ることが許されなかった。藤壷の場合は、元服を迎えるまでの光源氏には御簾(みす)に入ることが〈子〉として許されていたが、元服を迎えた十二歳以降はその特別な処置は禁じられてしまう。それでなくても平安朝の后たちは衝立や御簾、それに暗闇によって二重三重に守られていた。近くに接近することが許されたにしろ、彼女たちの身体・容姿は十二単衣や扇などによって隠され、それを知るものは世話係りの女房と契りを結んだ男だけである。しかも、たとえ内裏の女君と契りを結んだとはいえ、闇の中での契りであるから、相手の容姿を明確に知ることはできない。現代人は蛍光灯の明かりの元での生活が当たり前になっているので真の闇を忘れてしまっている。わたしは昭和二十四年生まれなので、幼い頃ランプで明かりをとっていたことを知っているが、昭和の後期、平成生まれの人はランプはおろか電灯さえ知らないかもしれない。

 蛍光灯文化とは要するに自然科学的な世界観に基づいた文化で、人間は究極的には世界の隅々まで明晰に認識できるのだという、わたしから言わせれば楽観的な思想に立脚している。この世界観によれば闇はいずれ〈正義〉である光によって征服されなければならない〈悪〉として認識される。

 この光優先の世界でもっとも重要とされる感覚は視覚ということになる。とうぜん女性の美も視覚優先で判断されることになる。痩せているか太っているか、背が高いか低いか、眼が大きいか小さいか、鼻が高いか低いか、眉は、口は、歯は、髪は……細かく示していけばきりがないが、要するに視覚でとらえられたものによって美醜が判断されることになる。

 ところが、謂わば光よりも闇が支配的であった平安朝にあっては視覚よりも遙かに臭覚や触覚、聴覚が重要となる。現代人は十九世紀ロシアの文豪ドストエフスキーやトルストスイが蝋燭の明かりのもとで小説を書いていたことさえ失念しがちである。わたしは半世紀にわたって原稿を書き続けてきているが、一度も蝋燭の明かりで執筆したことはない。若い頃、実験的に蝋燭の明かりで書こうとしたこともあるが、実際にすることはなかった。レンブラント風の光と闇の交錯する書斎で原稿を書いたらどうなのだろうか、今も興味はあるのだがどうも横着な気持ちになってしまう。

 平安朝時代、内裏ではどのような灯火が使用されていたのか、その明るさはどれくらいであったのか。発火はだれがどのような方法でしていたのか。場所によっては一晩中灯火はつけられていたのか。防火対策はどうしていたのか。夜中に后が用があるとき、女房たちとどのように連絡をとっていたのか。闇を想定して当時の内裏生活を考えると次々に疑問がわいてくる。

 洗面、トイレ、風呂など必要不可欠の事柄に関しても具体的に知らないとどうしようもない。身長以上に長く延ばした髪、十二単衣を纏った女君たちの洗髪、トイレ、風呂など想像するだに疲労感を覚える。風呂というと現代人は家庭風呂や銭湯、温泉などを連想するが、平安朝時代はからだを塗れた布などで拭いてすましていたのだろうか。詳しいことはわからないが、洗髪、からだ拭きなどは世話係の女房にしてもらえただろうが、トイレは自分でするほかはないだろう。専用の箱があったようだが、その中に特別の砂や草が置かれていて、臭いを消すような対策もほどこされていたのだろうか。始末をする世話係りは、どのような気持ちであったのか、そんなことまで気になる。高貴な姫君の糞便に対する下賤な者たちの思いには特別な感情が潜んでいるだろうが、内裏内で姫君たちの糞便の始末をしていた世話係りはいったいどのような身分の者が当たっていたのか。藤壷に何人のどのような身分の女房たちがついていたのか、作品には書かれていない。ましてや糞便始末係りの女ついては全く触れられていない。内裏の闇はさまざまなレベルにおいて多層的である。

 深い闇の中からほのかに姿を現すのは王命婦だけである。読者は王命婦が、藤壷の女房たちの中で筆頭株の位置を占めていること、藤壷の信頼を最も受けている女房であることぐらいしかわからない。桐壷更衣や藤壷といった帝の后ですらその容姿が具体的に示されていないのであるから、女房の一人でしかない王命婦のそれに照明が当てられることはない。ましてやいるかいないのかもわからない他の女房たちの存在はまさに闇の中の闇に捨て置かれている。