文学の交差点(連載28)■描かれない場面をどのように構築し、どのように批評するか ――『罪と罰』の場合――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載28)

清水正

■描かれない場面をどのように構築し、どのように批評するか

 ――『罪と罰』の場合――

 源氏物語』にはたして「輝く日の宮」はあったのかなかったのか。あったとしてそれは紫式部が書いたのか、それともほかの誰かが書いたのか。あったものを誰がどのような理由で抹殺したのか。「輝く日の宮」をめぐってさえ様々な議論を展開することができる。不在の「輝く日の宮」に小説家が創作魂を刺激されることはよく分かる。わたしは瀬戸内寂聴の作品『藤壷』を検証することで、わたしなりに藤壷と光源氏、及び王命婦の秘密に肉薄したいと考えているが、今回は『罪と罰』を題材に〈描かれざる場面〉の問題について書いてみたい。『罪と罰』についてはすでに数回にわたって様々な角度から検証し続けているので重複するところもあるが、了解されたし。

 わたしが『罪と罰』に執拗な関心を抱いているのは、『罪と罰』が広大な闇の領域を潜ませているからである。ふつう、批評は描かれた場面について言及するが、それはまあ当然の事として、『罪と罰』には描かれていない場面がことのほか多い。『罪と罰』に描かれた事など氷山の一角に過ぎない。では何が描かれていないのか。大げさではなく、描かれていない事は無限にあるが、次に思いつくままに列挙してみよう。

 〇主人公ロジオンの幼少年時代の事が描かれていない。

 ロジオンは二十歳になって故郷リャザン県ザライスクから単身ペテルブルクに上京して来る。時は一八六二年、ロジオンが目指すペテルブルク大学は閉鎖中で受験できず、翌年の一八六三年に法学部に入学する。が、授業料未払いによって除籍処分を受け、下宿の女将から借りた百十五ルーブリも返せず、悶々として屋根裏部屋生活に甘んじている。ロジオンがペテルブルクに上京してからの出来事すべてが明確に描かれているわけではないが、しかし大体のことは察しがつくように描かれている。ところが幼少年時代に関しては〈痩せ馬殺しの夢〉の場面で触れられるだけである。

 ロジオンは学校に通っていたのか、それとも家庭教師について勉強していたのか。家庭ではどのような生活をしていたのか。友達はいたのか。父親はロジオンが幼い時分に亡くなっているが、何が原因だったのか。病死なのか事故死なのか。夫亡き後、プリヘーリヤは年金百二十ルーブリで幼い二人の子供を育て上げるが、その実態はどうだったのか。美しい未亡人プリヘーリヤ、美しい少女ドゥーニャが村人たちからどのような眼で見られていたのか。要するにドストエフスキーはロジオンの幼少年時代に特別の照明を当てていない。この描かれざるロジオンの幼少年時代を浮上させるためには現にある『罪と罰』を執拗に読み返し、想像力を限りなく発揮して〈構築〉するよりほかはないのである。