文学の交差点(連載8) 『源氏物語』を読むには想像力が不可欠 ――闇の豊饒――  

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載8)

清水正

源氏物語』を読むには想像力が不可欠
――闇の豊饒――  

 

 作品を批評するためには基本的な知識がなければならないが、素人のわたしは平安朝時代の様々な生活様式や法律に詳しくない。とんでもない見当違いで論を展開していく危険性がある。しかし素人には素人の強みもある。疑問な点についてはそのまま率直に疑問を提示しつつ批評を進めていくことにしたい。

 『源氏物語』の引用テキストは特別に断らない限り、瀬戸内寂聴の現代語訳(講談社文庫版)を使用する。なお漢字に付けられたルビは()内に記した。

 

  僧都の坊は、なるほど同じ草木にしても心遣いして風情のあるように植えてあります。月もない頃なので、遣水のほとりに篝火(かがりび)をともし、燈籠(とうろう)などにも火が入れてありました。南側の部屋を座席としてたいそう立派に用意してあります。室内には、空薫物(そらだきもの)がほのかに漂っていて、仏前の名香(みょうごう)の香りも部屋に匂いみちていてます。その上、源氏の君のお召物にたきしめた香までもが、風にただよい送られてきますのが、とりわけすばらしい匂いなので、奥の部屋にいる女房たちも、何となくそわそわして緊張しているように見えます。

  僧都は、この世の無常のお話や、来世のことなどをお聞かせになります。

  源氏の君は御自分の人知れぬ罪の深さも恐ろしく、そうはいっても、どうしようもなくあきらめられぬつらい思いに心を締めつけられて、

  「この世に生きるかぎり、この秘密の恋に苦しみ悩まねばならないのだろう。まして死んだあの世ではどんな劫罰(ごうばつ)を蒙(こうむ)ることやら」

  と思いつづけていらっしゃいます。

  いっそ出家遁世(とんせい)して、このような山住みの暮しもしてみたいものだとお考えになるのですが、昼間御覧になった可憐な少女の俤(おもかげ)がお心にかかり恋しいので、

 「こちらにお泊まりになっていらっしゃるのはどなたでしょうか。そのお方のことをお尋ねしたくなるような夢を、以前に見たことがございます。その夢のことが、今日はたと、思いあたりまして」

  とおっしゃいますと、僧都は笑って、

 「どうも突然な夢のお話でございますね。折角お尋ねくださいましても、素性がわかるとかえってがっかりなさるにちがいございません。故按察使(あぜち)の大納言(だいなごん)、と申しましても、亡くなりましてからずいぶん久しくなりますので、御存じではいらっしゃらないでしょう。その北の方が、実はわたしの妹でございます。按察使の死後、出家いたしましたが、最近病気がちになりましたので、こうして京にも出ず山籠りしているわたしを頼って参り、この山に籠っているのでございます」

  と申し上げました。(巻一「若紫」255~257)

 

 

源氏物語』を読むためには想像力を必要とする。もちろんどんな作品でも読者に想像力が欠けていたのでは〈読み〉のダイナミズミを体験することはできないが、『源氏物語』における省略は半端ではない。わたしたち読者は光のように美しいといわれる光源氏の顔かたち、姿を具体的に報告されているわけではない。藤壷が光源氏の母親と瓜二つと言われても、その桐壷更衣の具体的な容姿は記されず、従って読者が想像力の限りを尽くして脳内にその容姿をつくり上げる他はない。身長、体重、座高はもちろんわからず、眼も鼻も口も、要するに自分好みの美女にでも仕立てて満足するしかない。

 桐壷帝の寵愛を一身に受けていた桐壷更衣、彼女の死後に同じく特別の寵愛を受けることになった藤壷の姿は夫の帝の他には身の回りの世話をしていた女房たちにしか見ることが許されなかった。藤壷の場合は、元服を迎えるまでの光源氏には御簾(みす)に入ることが〈子〉として許されていたが、元服を迎えた十二歳以降はその特別な処置は禁じられてしまう。それでなくても平安朝の后たちは衝立や御簾、それに暗闇によって二重三重に守られていた。近くに接近することが許されたにしろ、彼女たちの身体・容姿は十二単衣や扇などによって隠され、それを知るものは世話係りの女房と契りを結んだ男だけである。しかも、たとえ内裏の女君と契りを結んだとはいえ、闇の中での契りであるから、相手の容姿を明確に知ることはできない。現代人は蛍光灯の明かりの元での生活が当たり前になっているので真の闇を忘れてしまっている。わたしは昭和二十四年生まれなので、幼い頃ランプで明かりをとっていたことを知っているが、昭和の後期、平成生まれの人はランプはおろか電灯さえ知らないかもしれない。

 蛍光灯文化とは要するに自然科学的な世界観に基づいた文化で、人間は究極的には世界の隅々まで明晰に認識できるのだという、わたしから言わせれば楽観的な思想に立脚している。この世界観によれば闇はいずれ〈正義〉である光によって征服されなければならない〈悪〉として認識される。

 この光優先の世界でもっとも重要とされる感覚は視覚ということになる。とうぜん女性の美も視覚優先で判断されることになる。痩せているか太っているか、背が高いか低いか、眼が大きいか小さいか、鼻が高いか低いか、眉は、口は、歯は、髪は……細かく示していけばきりがないが、要するに視覚でとらえられたものによって美醜が判断されることになる。

 ところが、謂わば光よりも闇が支配的であった平安朝にあっては視覚よりも遙かに臭覚や触覚、聴覚が重要となる。現代人は十九世紀ロシアの文豪ドストエフスキーやトルストスイが蝋燭の明かりのもとで小説を書いていたことさえ失念しがちである。わたしは半世紀にわたって原稿を書き続けてきているが、一度も蝋燭の明かりで執筆したことはない。若い頃、実験的に蝋燭の明かりで書こうとしたこともあるが、実際にすることはなかった。レンブラント風の光と闇の交錯する書斎で原稿を書いたらどうなのだろうか、今も興味はあるのだがどうも横着な気持ちになってしまう。

 平安朝時代、内裏ではどのような灯火が使用されていたのか、その明るさはどれくらいであったのか。発火はだれがどのような方法でしていたのか。場所によっては一晩中灯火はつけられていたのか。防火対策はどうしていたのか。夜中に后が用があるとき、女房たちとどのように連絡をとっていたのか。闇を想定して当時の内裏生活を考えると次々に疑問がわいてくる。

 洗面、トイレ、風呂など必要不可欠の事柄に関しても具体的に知らないとどうしようもない。身長以上に長く延ばした髪、十二単衣を纏った女君たちの洗髪、トイレ、風呂など想像するだに疲労感を覚える。風呂というと現代人は家庭風呂や銭湯、温泉などを連想するが、平安朝時代はからだを塗れた布などで拭いてすましていたのだろうか。詳しいことはわからないが、洗髪、からだ拭きなどは世話係の女房にしてもらえただろうが、トイレは自分でするほかはないだろう。専用の箱があったようだが、その中に特別の砂や草が置かれていて、臭いを消すような対策もほどこされていたのだろうか。始末をする世話係りは、どのような気持ちであったのか、そんなことまで気になる。高貴な姫君の糞便に対する下賤な者たちの思いには特別な感情が潜んでいるだろうが、内裏内で姫君たちの糞便の始末をしていた世話係りはいったいどのような身分の者が当たっていたのか。藤壷に何人のどのような身分の女房たちがついていたのか、作品には書かれていない。ましてや糞便始末係りの女ついては全く触れられていない。内裏の闇はさまざまなレベルにおいて多層的である。

 深い闇の中からほのかに姿を現すのは王命婦だけである。読者は王命婦が、藤壷の女房たちの中で筆頭株の位置を占めていること、藤壷の信頼を最も受けている女房であることぐらいしかわからない。桐壷更衣や藤壷といった帝の后ですらその容姿が具体的に示されていないのであるから、女房の一人でしかない王命婦のそれに照明が当てられることはない。ましてやいるかいないのかもわからない他の女房たちの存在はまさに闇の中の闇に捨て置かれている。

文学の交差点(連載7)  王命婦と女中ナスターシャ 『源氏物語』の人物関係

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載7)

清水正

 王命婦と女中ナスターシャ

 ラズミーヒンは意識を覚醒したラスコーリニコフに栄養をつけさせるべく、ナスターシャに犢肉やビールを運んでくるように命じる。女将と情を結んだラズミーヒンならではの言いつけである。ナスターシャはなにもかも承知の上でラズミーヒンをさかりのついた〈牡犬〉(пёс)と見なしてからかったりもする。作者はナスターシャもまたラズミーヒンにまんざらでもなかったように描いている。

 二人の女を殺害して四日もの間意識不明に陥ったラスコーリニコフ、その間にラズミーヒンはちゃっかり下宿の未亡人といい仲になっている。『罪と罰』を深刻一途に読む者はこういった人物間の微妙で生々しい形而下の関係を見逃すことになる。女中ナスターシャの眼差しで『罪と罰』を読み返せば、余りにも多くの〈日常〉場面を見落としていたことに気づいて唖然とするだろう。

 さて、王命婦である。彼女は『罪と罰』のナスターシャと同様に決して主人公格の人物ではない。しかし彼女はナスターシャのように〈秘密〉を覗き見る人物であったことに間違いはない。

 

源氏物語』の人物関係  

 まずは簡単に『源氏物語』の人物関係を確認しておこう。主人公光源氏は桐壷帝と桐壷更衣の間に生まれた第二皇子である。第一皇子は桐壷帝が皇太子の時に一緒になった弘徽殿女御との間に生まれた朱雀院である。光源氏の母桐壷更衣は桐壷帝の特別の寵愛を受け、弘徽殿をはじめ他の女房たちから嫉妬され数々の嫌がらせにあい、心身ともに弱り果て、若くして亡くなる。光源氏三歳の時であった。

 桐壷帝は幼くして母を失った光源氏を自分のそばからはなさず育てることにした。やがて桐壷帝は桐壷更衣によく似た藤壷を見初め妻とする。子供であった光源氏は藤壷のところへ行くことが許されていた。光源氏は女房たちから藤壷が亡き母桐壷更衣に瓜二つであることを聞いていた。光源氏は継母藤壷を実の母親のように慕って育った。が、十二歳で元服となった光源氏は四歳年上の葵の上と結婚することになり、もはや藤壷のところへ出入りすることはできなくなった。葵の上は家柄もよくプライドの高いお嬢様育ちで、四歳年下の光源氏とそりが合わない。光源氏は藤壷と会うこともかなわず、思いは日増しに募るばかり。

    さてどうするか。 光源氏と王命婦 光源氏は藤壷の女房の一人王命婦に接近し、藤壷に取り次いでもらうように懇願する。もはや子供が母を慕うような次元での思いではない。藤壷は父桐壷帝の后であり、光源氏の継母である。藤壷と光源氏が女と男の関係になれば、不義密通となり発覚すれば大事となる。とうぜん王命婦光源氏の懇願を断固拒否する。もし王命婦が最後まで光源氏の懇願を拒み続けていればどうなっていただろうか。おそらくそれでは『源氏物語』が成立し得なかったことになろう。それほど重要な役割を付与されていたのが王命婦である。

 『罪と罰』を長年読んでいると女中ナスターシャのような端役が面白くなる。『源氏物語』も王命婦に焦点を合わせると思いもかけない発見があるのではないかと思っている。わたしは別に『源氏物語』の研究家ではないので、あくまでも一人の読者として自由にその世界に参入したいと思っている。

 

 

文学の交差点(連載6) 王命婦と女中ナスターシャ

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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文学の交差点(連載6)

清水正

 

命婦と女中ナスターシャ
 金曜会で「王命婦って知っていますか」と訊くとだれも知らない。要するに三人共に七十歳まで『源氏物語』を一度も読んだことがない。何年か前に、一年生のゼミの女子学生で熱烈な『源氏物語』の愛読者がいた。ゼミは『罪と罰』を専ら扱っていたので、『源氏物語』に言及することはなかった。先日の大学院の授業で修了生の一人が遊びに来ていたので訊いたところ、『源氏物語』は高校時代からよく読んでいたとのこと。が、源氏愛読者の彼女も王命婦については思い出せないようであった。
 ドストエフスキーの愛読者にナスターシャを知っているかと訊けば、おそらく『白痴』の女主人公ナスターシャ・フィリポヴナを思うだろう。ラスコーリニコフが下宿していたアパートの女中のことなどそもそも記憶にさえ残っていないかも知れない。が、この女中ナスターシャ、わたしの眼から見るとなかなか面白い女性なのである。「家政婦は見た」というテレビドラマがあったが、さして注目されない脇役中の脇役が作品の中で重要な役割を密かに付与されている場合がある。
 女中ナスターシャは女将プラスコーヴィヤの性的領域の秘密を知っている。プラスコーヴィヤは結婚して一人娘ナタリヤを生んだが、この娘は〈不具〉(урод)で一風変わった女であった。どういうわけかラスコーリニコフはこの娘に一目惚れして結婚しようとする。が、娘は当時流行っていた腸チフスに罹患しあっけなく死んでしまう。プラスコーヴィヤの夫がいつ、どのような原因で亡くなったのかは報告されていないが、いずれにせよ未亡人となったプラスコーヴィヤは女手一つで不具の娘を育てていた。表面だけを見ればそういうことだが、未亡人プラスコーヴィヤが亭主亡き後、貞操を守っていたわけではない。注意深く読まないとわからないが、プラスコーヴィヤには文官七等官チェバーロフという情夫が存在していた。
 このチェバーロフについて作者は〈事件屋〉とさりげなく紹介している。プラスコーヴィヤは寝物語の中で、ラスコーリニコフに貸していた百五十ルーブリ取り立ての件でチェバーロフに相談していたことは明白である。ラスコーリニコフが警察署に呼び出されたのはチェバーロフの〈働き〉によってである。ナスターシャは情夫チェバーロフがプスコーヴィヤの部屋を定期的に訪ねては、情を交わしていたことを知っている。要するにプラスコーヴィヤは貞淑な未亡人などではなく、発展家とも言えるほどの女なのである。
 ところでプラスコーヴィヤはチェバーロフ一人と情を交わしていた女でない。ラズミーヒンがラスコーリニコフの居所を探し出したとき、ラスコーリニコフは意識不明に陥っていたが、ラスコーリニコフが息を吹き返すまでの間に、プラスコーヴィヤはラズミーヒンと男と女の関係になっている。これはどちらが先に手を出したのかという問題ではない。要するに好き者同士が出会えば、情を結ぶのに時間はかからないということである。

 ラズミーヒンは意識を覚醒したラスコーリニコフに栄養をつけさせるべく、ナスターシャに犢肉やビールを運んでくるように命じる。女将と情を結んだラズミーヒンならではの言いつけである。ナスターシャはなにもかも承知の上でラズミーヒンをさかりのついた〈牡犬〉(пёс)と見なしてからかったりもする。作者はナスターシャもまたラズミーヒンにまんざらでもなかったように描いている。
 二人の女を殺害して四日もの間意識不明に陥ったラスコーリニコフ、その間にラズミーヒンはちゃっかり下宿の未亡人といい仲になっている。『罪と罰』を深刻一途に読む者はこういった人物間の微妙で生々しい形而下の関係を見逃すことになる。女中ナスターシャの眼差しで『罪と罰』を読み返せば、余りにも多くの〈日常〉場面を見落としていたことに気づいて唖然とするだろう。
 さて、王命婦である。彼女は『罪と罰』のナスターシャと同様に決して主人公格の人物ではない。しかし彼女はナスターシャのように〈秘密〉を覗き見る人物であったことに間違いはない。

文学の交差点(連載5) 『源氏物語』が面白い ドストエフスキーと言えば『罪と罰』

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載5)

清水正

源氏物語』が面白い
     金曜会の常連メンバー三人は七十歳(平成29年2月現在)、わたしは彼らより二つ年下である。いずれにしても人生のなんたるかをそれなりに知り尽くした爺さんたちには違いない。酒を飲みながらたわいもない戯れ言を交わしていても、世之介死後十年を生きてきた謂わば人生の強者たちである。世の無情もはかなさも存分に体感している。
 わたしはドストエフスキーを五十年読み続けてきて、今『源氏物語』がかくべつに面白い。いったい『源氏物語』のどこに惹かれるのか。書き続けることで徐々に判明していくにちがいないが、今言えることは『源氏物語』にドストエフスキーと並ぶ、あるいはそれ以上に人間が描かれているということである。


 ドストエフスキーは十七歳の時に兄ミハイル宛の手紙で「人間は謎である。その謎を解くために生涯を費やしても、時を空費したとは言えません」と書いた。そしてドストエフスキーは『貧しき人々』から最晩年の『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、小説を書くことで人間の謎に挑戦し続けた。
 ドストエフスキーの描く人物たちは〈淫蕩なる人々〉である。この淫蕩な人間たちに宿る同情、残酷、狂気、信仰、不信などが極端な形をとって描かれる。


ドストエフスキーと言えば『罪と罰
 『罪と罰』と言えばラスコーリニコフでありソーニャである。ところが何十年にもわたって『罪と罰』を読み続けてくると、注目する人物も異なってくる。ラスコーリニコフよりもはるかにスヴィドリガイロフやポルフィーリイ予審判事の方が興味深いし、惹かれる女性人物もソーニャからドゥーニャへ、さらに下宿の女中兼料理人のナスターシャへと移っていく。
 作者はソーニャやドゥーニャに対しては多くのページをさいて描いている。家族関係や年齢はもちろんのこと、彼女たちの内面に関しても多くの情報を読者に与えている。が、女中ナスターシャに関しては、屋根裏部屋でのラスコーリニコフとの対話を通してのみ彼女の性格を想像するしかない。ナスターシャの家族、年齢、給金、その他彼女の日常生活のほとんどすべてが報告されていない。にも関わらず、描かれた限りで見てもナスターシャという女性は、わたしにとっては魅力的である。
 わたしが初めて『罪と罰』を読んだときは二十歳前で、まるで自分がラスコーリニコフであるかのような気分であった。当然最も惹かれた人物はソーニャで、彼女が信じる神の問題は重要であった。ところが齢を重ねるにつれ、ソーニャという狂信者は徐々にリアリティを失い、それに代わってラスコーリニコフの美しい妹ドゥーニャが魅力的に思えてきた。が、このプライドの高い美女が俗物のルージンと婚約したり、スヴィドリガイロフではなくラズミーヒンを選んだりしたことが余りにも愚かしく思えてきた。狂信者ソーニャと誇り高き美女ドゥーニャに代わって台頭してきたのが女中ナスターシャであった。
 この一見平凡などこにでもいるような女のどこに魅力を感じたのか。それはラスコーリニコフが、考えていることが仕事だと口にしたとき、いきなりナスターシャがからだ中をふるわせて笑いだしたことにある。日本の詩人や評論家、研究家はラスコーリニコフの〈考えていること=仕事〉に注目する余り、ナスターシャの健全な反応を見逃してしまった。
 ラスコーリニコフは自分の〈考え〉に従って二人の女の頭に斧を振り下ろした。が、この冷酷な殺人者は最後の最後まで自分の〈犯罪行為〉(преступление)に〈罪〉(грех)の意識を持つことはなかった。驚くべきことに、作者はこの無罪意識に苦しむ殺人者を元淫売婦ソーニャと共に〈愛〉(любовь)によって復活させている。『罪と罰』の世界では淫売婦と殺人者が復活の曙光に輝き、淫売稼業の現場と殺人の現場は忘却の彼方へと押しやられてしまう。
罪と罰』の読者のいったい何人が、殺された老婆アリョーナとリザヴェータを思い起こし哀悼の意を示すだろうか。淫売婦ソーニャの罪の現場は完璧に封印され、その狂信的な信仰によって聖化される。ラスコーリニコフもまた犯した殺人よりも、殺人による〈苦悩・受難〉(страдание)によって聖化される。

文学の交差点(連載4) 『好色一代男』をめぐる雑談

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

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文学の交差点(連載4)

清水正

好色一代男』をめぐる雑談

    八巻五十四話からなる長編『好色一代男』(天和二年・一六八二)は、小説家西鶴の処女作であるとともに、好色本のルーツでもある。内容は主人公・世之介の一代記で、とりわけ巻五以降の後半は、親の遺産二万五千貫目(約五百億円)を相続して大大大大尽になった世之介の遊郭ルポとして楽しめる。三十四歳の世之介は、その金力と体力にものいわせて高名な遊女を残らず自分のものにしようとする。その結果、三都を中心とした諸国遊郭の名妓列伝が展開するのである。(浅沼博『西鶴という俳人』52)

 

 暉峻康隆は世之介が父親から相続した二万五千貫目を二百五十億円と換算している。これは暉峻康隆が訳編『好色一代男』を出版した時と浅沼璞が『西鶴という俳人』を出版した時が違うためである。三百年前の貨幣価値を現代に正確に換算することはもともと無理なことであるが、無理を承知で換算すればこのようになる。暉峻と浅沼の換算額は倍の開きがあるが、金額が想像を絶する大金なので二百五十億という差額もさして気にならない。
 大学の授業で二十歳前後の受講生に「世之介が相続した金は、今の金額にしてどのくらいか」と聞くと「十万円」という冗談かと思うほどの低額から、「百万円」「三千万円」「一億円」「十億」、さらに「一兆円」というファンタジックな高額の答えが返ってくる。要するに学生たちは世之介の遺産相続金を具体的に想像することができない。否、これは学生に限ったことでもないだろう。スナック、キャバクラ、クラブ、フウゾクに通っている遊び人ですら的確に言い当てることはできないだろう。西鶴の愛読者ですら、特別な関心を持っていなければ読み過ごしてしまうかもしれない。
 いずれにしても、西鶴時代の貨幣を現代に換算することで世之介の女遊びは生々しい具体性を獲得する。世之介が二万五千貫目の遺産を継いだのは三十四歳の時である。


    西鶴の生涯は不明な点が多く、確かなことは分かっていない。妻があり子供があったことは知られているがその具体は知られていない。年譜によれば、西鶴が三十四歳の時に妻が二十五歳で亡くなっている。子供が三人いたとなっている。が、妻がどういう名前か分からず、西鶴と幼なじみと言われているが、どこでどのように知り合ったのか分からない。
 三人の子供のうち二人は男の子供、一人は女の子で盲目であった。息子二人は養子に出され、娘は西鶴と生活を共にする。なぜ息子二人を養子に出したのか。西鶴と盲目の娘がどのような生活を送ったのか。子供たちの名前すら分からないし、養子先も不明、ましてや養子に出された息子たちがどのような思いを抱いていたのかまったく分からない。
 西鶴は五十二歳で死んでいるが、その前年に娘が死んでいる。西鶴は妻が死んだ後、再婚せず、十八年後娘が死ぬと一年もたたずに死ぬ。不明な点が多い西鶴の生涯であるが、わたしの胸に伝わってくるのは、妻を亡くした悲しみ、娘を亡くした悲しみである。深い悲しみを内に抱え込んだ男の、いわば〈感情の爆発〉(ロシア語でнадрыв、この感情がドストエフスキーの主要人物たちに賦与されている)が異常なほどの量の俳句をはきだしと思われる。
 また『好色一代男』に始まる浮世草紙(小説)に描かれた人物たちに注がれたまなざしには運命を率直に受け入れる諦念がある。この諦念には三人の子供と夫西鶴を残して死んでいった妻の無念もこもっている。西鶴の人間に向けられたまなざしには、ドストエフスキーの人神論者に見られる絶対者に対する反抗反逆はない。あるがままの人間、生きるようにしかいきられない人間の諸相をあるがままに認めるそれである。


   十何年か前から江古田の中華料理店「同心房」を主な舞台として金曜会を主宰している。メンバーは日芸で教鞭をとる文芸批評家、マンガ家の講師たちや学生で、アルコールが入った分だけ教室では聞くことのできないオモシロイ話が飛び交うことになる。先日の金曜会は常連の講師三人とわたしの、男だけの席であったので、遠慮のないシモネタ文学論を展開することになった。ちなみに三人の先生方は現在七十歳である。三人ともに今まで西鶴を読んだことはないということであった。
「『好色一代男』の主人公世之介は七歳頃から女遊びをはじめ、親からは勘当されていたが、三十四歳の時に父親が死に財産を受け継ぐことになった。さて世之介は今の金にしていくらぐらいの遺産金をもらうことになったか」学生に聞いたことと同じ質問をする。「三億」「十億」「三十億」人生七十年を積み上げてきた先生方の考えに考えた末の答えである。「正解、五百億」この答えで一人は深く溜息をもらし、一人はいつもと同じく感情を表に出さず、一人は体をのけぞらせて「ええっ!」と低く叫声を発する。
 これでつかみはオッケー。「ところで世之介、七歳から六十歳まで何人の女と契りを結んだか」三人ともに七十年の人生を振り返り、様々な思いと計算をもとに「十人」「五人」「一万五千人」。期待を持ったリアリズム、リアリズムそのもの、そしてファンタジーの答え。いつの世でも男の思いは同じ。
 さて、使いきれないほどの遺産金を手に入れた世之助の生き方に微塵のブレもない。ここに世之介の世之介たる所以があり三百年の時空に耐えうる魅力がある。世之介の好色人生が突きつけてくるのは意外に切実である。人間から好色の要素を抜き去ったらもはや人間とは言えない。これは千年前の光源氏から百五十年前のドストエフスキー文学に登場する人物まで例外はない。
 さて、使いきれない大大大金を手に入れた時に、はたしてどのような生き方を選ぶかである。世之介の郭通いに説得力があるのは、彼が金の保証がないときも、有り余る保証ができたときにも、そこになんら心の変化がなかったことにあろう。動揺しない生き方、一途な生き方にはどこか善悪の判断を越えた説得力がある。世之介にしかわからない女の魅力があり、かけがえのなさがある。
 思わぬ大大大金を得て、政治的野望を遂げようとする者があり、金に関係なく自らの使命を全うしようと思う者がある。ドストエフスキーは人間の神秘を解きあかすべく生涯を通して小説を書き続けた。『未成年』の主人公アルカージイ・ドルゴルーキイは世界一の金持ちロスチャイルドになることを望んだ。その願望の究極は「平穏な力の意識」を獲得する事にあった。ということは別にアルカージイはロスチャイルドになる必要はない。山寺に籠もって禅修行に励んでもいいし、武道をきわめて平静な力の意志の境地に達することもできる。

文学の交差点(連載3)ドストエフスキー文学の形而下学 『罪と罰』――描かれざる性愛場面

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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文学の交差点(連載3)

清水正

ドストエフスキー文学の形而下学

罪と罰』――描かれざる性愛場面

 

   わたしはここ十年ほど『罪と罰』にこだわり続けている。五大作品のうち、わたしが批評していて最も飽きがこないのが『罪と罰』なのである。近頃、わたしの批評の眼差しは作品に描かれていない場面に注がれている。その多くの場面は性的場面である。十九世紀ロシアの検閲は露骨な性的描写を禁じていたため、ドストエフスキーの作品に性的場面が直に描かれることはなかった。マルメラードフと後妻のカチェリーナ、ロジオンの下宿の女将プラスコーヴィヤと情夫チェバーロフ、同じくプラスコーヴィヤとラズミーヒン、ドゥーニャとスヴィドリガイロフ、ソーニャとイワン・アファナーシィエヴィチ閣下、ロジオンの母親プリヘーリヤとアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン、ロジオンとソーニャ‥‥など人物間の性的関係の場面は暗示的に描かれるか、巧妙に隠されている。特にソーニャとイワン閣下、ソーニャとロジオン、プリヘーリヤとアファナーシイとの関係などは未だに多くの読者に隠されたままである。これらの指摘を初めて眼にする者は衝撃を受けるか、納得せずに反発すら覚えるかもしれない。]

 

『貧しき人々』の形而下学

 ドストエフスキー文学の特質性を二つあげろと言われれば〈сострадание〉(同情・憐憫・共苦共感)と〈разврат、сладострастие〉(淫蕩・情欲)ということになる。ドストエフスキー文学において希代の淫蕩漢と言えば『カラマーゾフの兄弟』のフョードル・カラマーゾフということになるが、それ以前にも『悪霊』のニコライ・スタヴローギン、『白痴』のロゴージン、『罪と罰』のスヴィドリガイロフなどをあげることができる。しかしここにあげた人物に限らず、処女作『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキンからして淫蕩漢だっと言える。人間が人間である限り〈肉欲〉から解放されることはない。初老の万年九等官マカールが二十歳ばかりのうら若き乙女ワルワーラにどのような肉欲を感じていたのか。マカール自身はもとより、作者ドストエフスキーもまたそういった点に関しては詳らかにしてはいない。

 小説はその行間を読むことに醍醐味がある。ドストエフスキー文学の場合など、行間をのぞき込むとそこにいくつもの描かれざる物語が見えてくる。『貧しき人々』における描かれざるワルワーラとブイコフに照明を当てれば、そこに衝撃的な〈事実〉が隠されていたことに気づかざるを得ない。従来この処女作はずいぶんと初な読み方がされていた。ヒロインのワルワーラは貧しく薄幸な〈処女〉と見なされていた。どうしてこんな初な読み方がまかり通っていたのか不思議だが、要するに評論家や翻訳家が初であったのだろう。  『貧しき人々』を読み込めばワルワーラが〈処女〉であったはずはない。ワルワーラはすでに何回か淫蕩な地主貴族ブイコフと肉体関係を持っていたと見るほうがしぜんである。なぜ海千山千の淫蕩漢ブイコフがよりによってワルワーラに執着したのか。単純に考えれば、ワルワーラのナニがブイコフを虜にしたということである。ワルワーラ自身は「わたしが受けた侮辱を贖うためにはブイコフ氏と結婚するしかない」と書いている。ロシアの文芸評論家エルミーロフはワルワーラとブイコフの結婚は、ワルワーラにとって人生の墓場を意味すると書いたが、これなどは公式的な見解で、要するに人間というものが分かっていない。ワルワーラという女のしたたかさや、今のところまったく顕在化していないとも言える野心など、エルミーロフには分かっていない。ドストエフスキーが二十三、四歳ぐらいで執筆した『貧しき人々』に描き出された〈人間〉を、発表当時の批評家ベリンスキーはもとより、大半の読者が見逃したと言ってもいいだろう。

 ドストエフスキーの青春期の恋愛体験については具体的になにも分かっていない。が、彼の描いたワルワーラという女性が、初な男性のロマンチシズムなど瞬く間に乗り越えていくリアリストであったことに間違いはない。現実のドストエフスキーが生身の女にどのような苦汁を呑まされたのか、興味は尽きないが、彼の青春期の恋愛は依然として闇に包まれたままである。

 わたしたちが知ることのできるドストエフスキーの〈恋愛〉は、彼が『貧しき人々』で成功して、ペテルブルク文壇に登場してからである。まず彼はパナーエフ夫人にのぼせ上がって、その熱烈な思いを兄ミハイルに書き送っている。そこには病的と思えるほど自己中心的な感情の爆発が見える。パナーエワが人妻であることなど微塵も考慮しない。自分の才能に酔った異様にプライドの高い神経質な青年ドストエフスキーは文壇サロンに集まった上品な文学者の嘲笑愚弄の的になってしまうが、彼らだけを責めるわけにはいかないだろう。

 ドストエフスキーは良くも悪くも周囲の者たちと協調関係を取り結ぶことができない。ドストエフスキーの才能をいち早く認めて、彼を文壇サロンの一員として迎え入れたベリンスキーですら、彼と決別するのに何年もかからなかった。『貧しき人々』を誰よりも高く評価したベリンスキーであったが、第二作『分身』に関しては評価に迷いが生じている。そして第四作『おかみさん』にいたってはきっぱりと評価の旗をおろしてしまった。当時若くして大批評家と称されたベリンスキーですらドストエフスキーの大天才を理解し許容することはできなかった。ドストエフスキーの文学はベリンスキーの批評美学の範疇に収まることはできなかっったのである。第三作目の『プロハルチン氏』は別として、『分身』や『おかみさん』の狂気を理解するためには、大げさではなく百年以上の歳月を必要としたのである。

文学の交差点(連載2)  西鶴とドストエフスキー

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

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文学の交差点(連載2)

清水正

西鶴ドストエフスキー

  何年か前、大学院の女子学生で井原西鶴を研究対象にしたものがあった。たまたまわたしが彼女を指導することになった。せっかくの機会なので本格的に西鶴を読み込もうと思ったのだが、ドストエフスキー林芙美子の作品批評を継続していたので、なかなか思うように時間がとれなかった。
 わたしはドストエフスキーの作品を読み続けながら、日本的なるものに心引かれていた。落語、浪曲、歌謡曲、そして映画では小津安二郎成瀬巳喜男の映画作品などに関していずれ批評したいと思い続けていた。しかし、なにしろ時間がない。ドストエフスキー林芙美子だけで、批評の時間は埋め尽くされてしまう。
 西鶴は今から三百年前に活躍した俳人、小説家(浮世草子作家)である。三百年の時を経ても生き延びてきた作品であるから、時間だけで言えばドストエフスキーよりも古い作家ということになる。わたしが西鶴の作品を読んで批評すれば、やはりドストエフスキー文学との関連性においてということになる。ドストエフスキーは〈人間とは何か〉、その謎を解くために満五十九年の生涯を費やした。彼は処女作『貧しき人々』から最晩年の作『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、徹底して人間を描き続けた。彼にとって人間を描くことは、人間と神との関係を描くことでもあった。
 ドストエフスキーの文学を理解しようと思えばユダヤキリスト教における神の問題を度外視することはできない。彼の人物たちはキリスト者も反キリスト者も含め、すべて彼らの眼差しは神に向けられている。神に対する反逆者ほど、神と真剣に向き合っている。神を否定することは、同時に自らの破綻を引き受けなければならないほどに、彼らにとって神の存在は実存に食い入っている。