文学の交差点(連載1) 浅沼璞『西鶴という俳人』を読む 

本日より「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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文学の交差点(連載1)

清水正

■浅沼璞『西鶴という俳人』を読む

 『西鶴という俳人』(玉川企画、二〇一四年)は『西鶴という方法』(鳥影社、二〇〇三年)『西鶴という鬼才』(新潮社、二〇〇八年)に続く浅沼璞の三冊目の井原西鶴論である。浅沼の西鶴研究は学生時代に遡るから、すでに四十年の歴史を刻んでいる。本書は西鶴の俳句や小説の世界に自在に切り込み、独自の世界を展開している。まず感じられるのは著者の西鶴に対するのめり込み、惚れ込みようである。もちろん研究は対象に対する冷静、客観的な姿勢を要請する。しかしそれ以上に必要とされるのは研究対象に対する情熱である。情熱や愛の欠如した研究は底が知れている。浅沼西鶴の独自性は、論者浅沼が対象である西鶴の俳句や小説の人物たちにかぎりのない愛を注いでいるということにある。特に本書において西鶴の小説の人物たちは現代日本の現実舞台に生き生きと蘇生している。『日本永代蔵』『西鶴織留』『好色一代男』『好色一代女』など西鶴の代表的な作品を、〈ケーザイ俳人の目〉〈フーゾク俳人の目〉〈ゲーノウ俳人の目〉〈エンタメ俳人の目〉という複数の観点から照明をあてることで、西鶴作品を先鋭的に現代に蘇らせることに成功している。
 浅沼璞は西鶴の多面性に関して早くから注目し、ドストエフスキー文学のポリフォニイ性を指摘したミハイル・バフチンの著書(新谷敬三郎訳『ドストエフスキー創作方法の諸問題』冬樹社)にも深い関心を寄せていた。実は、わたしと著者の親密な関係性は、研究対象の〈多面性〉を問題にしていたことにあった。著者は第三章「エンタメ俳人の目」の最後に、西鶴の小説十二編を翻案して『新釈諸国噺』を書いた太宰治の言葉「西鶴は、世界で一ばん偉い作家である。メリメ、モオパッサンの諸秀才も遠く及ばぬ。私のこのような仕事に依って、西鶴のその偉さが、さらに深く皆に信用されるようになったら、私のまずしい仕事も無意義ではないと思われる」を引用している。とりあえずメリメ、モオパッサンは脇に置いておくとして、〈世界で一ばん偉い作家〉とくれば、それはわたしにとってはドストエフスキーということになる。つまり西鶴の作品世界はドストエフスキーの作品と較べて論じればかなり面白いのではないかという予感がわたしには古くからあった。
 浅沼璞と、ドストエフスキー西鶴に関して本格的な議論はしていないが、両作家における〈多面性〉の問題はこれからの一つの大きな課題になるのではないかと思っている。両作家の決定的な違いは、ドストエフスキーには地上世界において真理・正義・公平を体現すべき神に対する信仰と懐疑の問題があるが、西鶴にはそういった一神教的な神の問題は存在しなかった。その意味でも両作家を比較検証することによって西鶴文学の非西欧的な独自性も浮き彫りになることだろう。
 いずれにしても神なき世界において生きる西鶴作品の人物たちは、著者の軽妙洒脱な語り口と照明効果によって現代日本のケーザイ・フーゾク・ゲーノウ・エンタメの舞台に新たなる衣装を纏って登場することとあいなった。著者が三百年の時空を現代に繋げることができたのは、西鶴の人間を見つめる眼差しを著者もまた獲得したことにあろう。どのような人間も善悪を超えて生きている、あるいは生きていかざるを得ない。西欧的な神の試みや裁きに人間を晒すのではなく、生きてあることのせつなさ、悲しさ、そして喜びに我が身を寄せて人間を描くとき、描かれた人間はそのひと独自の輝きを発することになる。
 西鶴の多面性の豊かさの背後には諦念とニヒリズムが潜んでいるが、それらを遊びの次元に昇華するエネルギーもまた潜んでいた。著者の西鶴西鶴作品の人物たちに対する眼差しは冷徹ではあるが限りなく優しい。こういった優しい眼差しを獲得するまでにひとは、口に出しては言えない艱難辛苦を体験する。西鶴は三十四歳の時に二十五歳の妻を病で亡くしている。西鶴は五十二歳で亡くなる前年の三月に盲目の娘の死に立ち会わなければならなかった。膨大な数の俳句と小説作品を創造し続けた西鶴の、そのエネルギーの源泉は大いなる悲憤にあったとも思われる。
 浅沼著『西鶴という俳人』は〈浅沼ハクという連句人〉の肖像画ともなっている。この著書はわたしの胸に多くの言葉を投げかけてきた。そして新たな研究意欲までわきたたせてくれた。本書は西鶴研究者ばかりでなく多くの読者の胸に響く、多大な影響力を持った軽妙な、つまり円熟した力作である。西鶴文学をわがものとした著者ならではの仕事であり、今後のさらなる研究も楽しみである。浅沼璞は井原西鶴を現代に蘇らせる名プロデューサーであり、西鶴文学をリメイクするエンターティナーでもある。

「マンガ論」は先週から手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』の講義に入った。

近況報告

「マンガ論」は先週から手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』の講義に入った。タイトルの『罪と罰』は内田魯庵明治25年に刊行した本以来変わっていない。

なぜ手塚治虫ドストエフスキーの『罪と罰』をマンガ化したのか。その理由を探る。原作は最初の三行ほどを講義した。

今回は主人公ロジオンの内部世界へと参入することにする。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載10

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載10

 

 

 作者はエピローグにおいて「彼が自分の犯罪を認めたのは、それにもちこたえることができず、自首して出たその一点においてであった」(下・391)〔Вот в чем одном признавал он свое преступление: только в том, что не вынес его и сделал явку с повинною.〕(ア・417)と書いている。ここで〈犯罪〉と訳された〈преступление〉は〈過ち〉ぐらいの意味で受け止めた方がわかりやすい。ロジオンはアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人を殺害しており、この行為が〈犯罪〉(преступление)であることはロジオンが認めようが認めまいが事実として変更しようがない。作者はロジオンにおける〈過ち〉は〈自首して出たその一点〉としているが、わたしに言わせればそれは〈自首〉ではなく、〈殺人を犯してしまったその一点〉にある。

 ラズミーヒンの証言によれば、大学在籍中のロジオンは貧しい肺病の学友を半年にわたって金銭的にも援助し、その学友が死んだ後は、彼の年老いて衰弱した父親を病院に入院させ、彼が死ぬと葬式まで出したやっている。また下宿の女将プラスコーヴィヤによれば、ある夜、火災が起こった時にロジオンは我が身の危険をもかえりみず、火事場に飛び込んでふたりの幼い子供を助け出している。エピローグにおいて語られた自己犠牲的な行為を惜しまない大学生ロジオンは、夢の中で〈めす馬殺し〉に悲憤を感じて激しく非難と抗議の声をあげる七歳のロジオンとみごとに重なる。ロジオンは貧困、病気、虐待に苦しむ者に深い憐憫の情をもって寄り添うことのできる、マルメラードフの言葉で言えば〈ものに感じる心〉をもった教養のある青年なのである。だからわたしたちは何度でも同じ疑問の前に佇むほかはない。なぜロジオンのような心優しい青年が二人の女の頭上に斧を振り下ろすことができたのか、なぜロジオンはこの殺人行為に〈罪〉(грех)を感じることができなかったのか、と。

 まずロジオンの学友とその父親に対する援助について考えてみよう。ロジオンは年金百二十ルーブリで生活していかなければならない母親プリヘーリヤの仕送りを当てにしなければ、学費も下宿代も支払いが困難な状況下にあった。家庭教師の賃金などではとうていペテルブルクでの学生生活をまかないきることはできない。ロジオンは下宿の娘ナタリアと婚約し、女将から百十五ルーブリもの金を借りている。ロジオンの金銭感覚は苦学生としてのバランス感覚から大いにはずれている。上京してすぐにドイツ製の山高帽子などかぶってネフスキー通りを貴族青年気取りで散策しているようなロジオンは、自分が置かれている現実を的確に把握しているようには思えない。ふつうの想像力を持っていれば、母親に法外な金の送金を求めたり、婚約者の母親に借金を申し込むことの非常識なまねはしなかっただろう。病身の学友とその父親に対する援助は、それがいくら献身的な善行とは言え、自分の分をわきまえぬ者の軽率な行為とも言えるのである。ドイツ製丸型帽子から婚約、借金、学友への援助まで、ロジオンの行動は分をわきまえぬ行為であり、彼のこの性向が〈アレ〉(アリョーナ婆さん殺し)へと向かわせた最大の要因とも言える。もしロジオンが貧しい屋根裏部屋の空想家、将来の有望な小説家や学者を夢見て努力する苦学生であったならば、〈アレ〉は〈幻想〉

(фантазия)、〈玩具〉(игрушка)の域を逸脱することはなかっただろう。ロジオンは一人の〈凡人〉として、地道な苦学生として生きる途からはずれてしまった。それはロジオンが自分を〈非凡人〉と見なしたいという、分をわきまえぬ思いにとらわれた結果であり、その思いを増長させていたのが教育ママのプリヘーリヤである。プリヘーリヤもまた自分の分をわきまえずに、息子のロジオンに過剰な期待を寄せてしまった。二百年の歴史を刻むラスコーリニコフ家を再建し、ラスコーリニコフ家の杖となり柱となるという、プリヘーリヤが息子に与えた使命は、ロジオンが引き受けるには余りにも大きすぎる〈荷馬車〉だったのである。この文脈からすれば、ロジオンは殺された〈めす馬〉であり、プリヘーリヤは殺したミコールカとなる。

 もう一度、〈めす馬殺し〉の夢の場面を振り返ってみよう。

 

 酒場の入口の階段のわきには荷馬車が一台、それも奇妙な荷馬車がとまっていた。それは、大きな運送馬を何頭もつけて、商品や酒樽を運ぶのに使う大型の荷馬車だった。少年は、たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬が、せかず焦らず規則正しい足どりで、山のように積みあげた荷を引いていくのを見るのが大好きだった。馬たちの様子には少しもへこたれたところなどなく、荷がないよりは、荷のあるほうが楽だといわんばかりである。(上・118~119)

 

 プリヘーリヤもロジオンも共に望んだのは〈大型の荷馬車〉を「せかず焦らず規則正しい足どりで」楽々と引いていく〈たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬〉であった。が、現実は見てのとおり、ロジオンもプリヘーリヤも老いさらばえた〈めす馬〉の運命を生きなければならなかった。ロジオンは〈たくましい運送馬〉、〈良心に照らして血を流すことが許された非凡人〉にはなれなかった。ところで、自分の分をわきまえずに殺人を犯してしまったロジオンの〈信仰〉を、本当に分をわきまえたものと見ることができるのだろうか。『罪と罰』の〈殺人〉から〈復活〉に至る物語は、分をわきまえた者から見れば、一編の真夏の夜の夢でしかないのである。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載9

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載9

 

 

 最後に〈めす馬殺し〉の場面で連想されるのは、十字架上で六時間の苦痛の末に息絶えたイエスである。ピラトに鞭打たれ、ユダヤ人に引き渡されたイエスは唾をかけられ、嘲られ、十字架を背負ってゴルゴタの丘をのぼり、処刑された。イエスは三日後に復活したと伝えられているが、ドストエフスキーが『白痴』の中で描いた十字架から下ろされたキリストは復活をまったく感じさせない恐るべき死体でしかなかった。

 ハンス・ホルバインが描いた「死せるキリスト」は、生前死者(ラザロ)をも蘇らせたイエスのその前後未曾有の一大奇蹟をすら嘲笑うかのように死の勝利を揺るぎなく宣言している。自然は〈神の子〉イエスをすら微塵の容赦もなく死の淵へと突き落とし平然としている。

 『白痴』のイッポリートも作者ドストエフスキーも人間の死に直面して戦慄しているのではない。彼らはあくまでも十字架から下ろされたイエス・キリストのその死体、復活などとうてい信じられないその無惨な死体に慄いている。なぜなら彼らはイエスを〈神の子〉、父なる神から地上の世界へと人間の姿を借りて降臨した存在であるというキリスト教の教義を受け入れていたからである。彼らにとってイエスは単なる慈悲深い人の子にとどまっていてはならなかった。イエスは人間なら誰しも受け入れなければならない〈死すべき存在〉としての運命を甘受するだけでなく、死をも超えた永遠の命を約束する存在でなければならなかったのである。しかし、理性と知性を身につけた近代人にイエスの〈神の子〉を純朴に信じることほど困難なことはない。自然は人間に限らずあらゆる生物の誕生と死をいっさいの感情抜きで司っている。〈神の子〉も〈父なる神〉も人間の願望、欲望を反映しているが、自然は人間を特別視することはない。イワン・カラマーゾフは神に地上世界における公平・真理・正義の体現を要求し、そのことがかなわずに神に抗議して発狂する。が、イワンが神に求めた〈公平・真理・正義〉は人間の次元を一歩も超えていない。自然は人間を含めたあらゆる現象界においてそれらを永遠の沈黙のままに体現している。ドストエフスキーが創造した信仰者と人神論者に共通しているのは、この自然とのすべき融合がなかったことである。イッポリートはあらゆるものを情け容赦もなく呑み込んでしまう冷酷な巨大な機械の如きものとして自然をイメージしている。が、それは自然の一側面を誇張しているに過ぎない。自然はあらゆるものを呑み込むが、同時にあらゆるものを生み出している。自然は個別的な〈死〉を突出させない。自然は人を〈単なる人〉や〈神の子〉などと区別しない、否、人に限らずあらゆる生物、物質に対して常に公平である。

 『罪と罰』において神と自然がことさら問題になっているわけではない。ロジオンは神と人間(特に非凡人)のことに関しては頭を悩ましたが、結果として彼は〈理性と力の意志〉をもって生きる非凡人を返上しソーニャの信仰に与することになった。作者はエピローグにおいて〈思弁〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)が到来したと書いて、ロジオンが復活の曙光に輝いたことを保証する。が、わたしのような読者は、作者の言葉にそのまま同意することはできない。夢の中で〈めす馬殺し〉に誰よりも悲憤を感じた七歳のロジオンが、十六年後、舞台をリャザン県ザライスクの片田舎から首都ペテルブルクに変えて、今度は現実の加害者となる。ロジオンが斧で殺した〈めす馬〉はアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人だが、シンボリックな次元では先に示したようにロジオン自身も、ソーニャも、カチェリーナも、プリヘーリヤも、皇帝も、神も、殺しの対象となる。作者は「本当にわたしはアレができるのだろうか?」と書いて〈アレ〉の多義的な意味を意図的に曖昧にすることで編集者や検閲官の目をたぶらかすことに成功した。が今や〈アレ〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉に限定したり、多義的な意味を曖昧に処理することは許されない。ロジオンが振り上げた斧はまず最初に自分自身の額を、次いでアリョーナ婆さん、次いでリザヴェータ……そして最後には神の額を叩き割ることになっていた。『罪と罰』の中でロジオンが明確に意識化できたのは〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉まてであったが、作者ドストエフスキーの内ではもちろん〈神殺し〉まで視野に入っていたと見ることができる。

 そこで改めて『罪と罰』における〈神〉とはなんであったのかということが問題になる。繰り返しを恐れず簡単にまとめておこう。まずソーニャの信じる〈神〉(бог)がある。この〈神〉はソーニャの傍らに顕れるが話しかけたりソーニャ以外の人間に見えることはない。次に〈ラザロの復活〉朗読場面で〈立会人〉(свидетель)となっていたスヴィドリガイロフである。彼は単なる〈奇蹟〉(чудо)の立会人にとどまることなく、〈現実に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)としての〈神〉(провидение)でもあった。ソーニャは現実に奇蹟を起こす神スヴィドリガイロフによって淫売稼業の泥沼から救い出され、ロジオンをシベリアにまで追っていくことができた。しかし、ロジオンは狂信者ソーニャの信じる〈神〉に最終的に帰依したが、その途上で奇蹟を起こしたスヴィドリガイロフに思いをいたすことはなかった。「ヨハネ福音書」の中のイエスは死んで四日もたったラザロを復活させたが、『罪と罰』の中の〈神〉はその姿を万人の前にさらすこともなければ、神の子であることを証明するための奇蹟を何一つ行うことはなかった。ソーニャの信じる〈神〉(бог)は現実の世界で奇蹟を起こした〈神=スヴィドリガイロフ〉(привидение)ではなかった。ロジオンはスヴィドリガイロフの奇蹟によってソーニャと共に愛によって復活することができたが、чудотворец、привидениеとしてのスヴィドリガイロフを真っ正面に見据えることはなかった。

 

 

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載8

 

 

※〈めす馬殺し〉の場面を江川卓訳とアカデミア版原典で確認しておこう。ミコールカに殺される〈めす馬〉は様々に形容、表記されている。順番に列記する。

■「そんな大型の荷馬車に、ちっぽけな、やせこけた葦毛の百姓馬」(上・119)〔в большую такую телегу впряжена была маленькая, тощая, саврасая крестьянская клячонка,〕(ア・46)

 〈ちっぽけな、やせこけた〉という形容で、小柄で背の低いアリョーナ婆さん、同じく小柄で痩せたソーニャを連想させる。〈疲れ弱った人〉でプリヘーリヤを連想させる。  кляча ①痩馬, やくざ馬. ②【俗】疲れ弱った人.

■「そんなやせ馬に、引けてまるかよ!」(45・119)〔Этака кляча да повезет!〕(ア・47)

 ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「そんなでっけえ荷馬車にこんなちっぽけな馬をつけやがって!」(上・120)(ア・47)〔этаку кобыленку в таку телегу запрег!〕(ア・47) 背の高い女リザヴェータを連想させる。

 кобыла ①雌馬. ②元気な背の高い女.  кобылица ①雌馬. кобылка ①【指小, 愛】→кобыла(雌馬).

■「なあ、みんな、この葦毛のやつァ、てっきり二十からの婆さま馬だぜ!」(上・120)〔А ведь савраске-то беспременно лет двадцать уж будет, братцы!〕(ア・47) ん歳!〕

 〈婆さま馬〉でアリョーナ婆さんを連想させる。  саврас 【口】①あし毛の馬. ②駄馬. савраска 【口】①同上愛称.

■「ところがよ、みんな、この婆ァ馬ときたら、」(上・120)〔а кобыленка этта,〕(ア・47)

 〈婆ァ馬〉でアリョーナ婆さんを連想させる。

■「いかにも楽しそうに、葦毛をひっぱたこうと身構えた。」(上・120)〔с наслаждением готовясь сечь савраску.〕(ア・47)

■「こんなへなちょこの婆ァ馬」(上・121)〔этака лядащая кобыленка〕(ア・47)

 アリョーナ婆さん、プリヘーリヤを連想させる。

■「かわいそうなお馬をぶってるよ!」(上・122)〔бедную лошадку бьют!〕(ア・48)  

〈かわいそうな〉の形容でリザヴェータ、ソーニャを連想させる。 лошадь ①馬.

■「馬のそばに走りよる。」(上・122)〔бежит к лошадке.〕(ア・48)

■「哀れな馬はもういけなかった。」(上・122)〔бедной лошадке плохо.〕(ア・48)  

〈哀れな〉の形容でソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、さらに「哀れな少年」(上・126)〔бедный мальчик〕(ア・49)と書かれたロジオンを想起させる。

■「こんな馬にそんな荷をひかせるなんて、恐ろしいこった」(上・122)〔Видано ль, чтобы така лошаденка таку поклажу везла,〕(ア・48)  ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「牝馬」(上・123)〔кобыленка〕(ア・48)  ソーニャ、リザヴェータ、アリョーナ婆さん、プリヘーリヤを想起させる。

■「こんなやせ馬のくせに、」(上・123)〔этака дядащая кобыленка,〕(ア・48)

 ソーニャ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「少年は馬の横を駆けぬけ、」(上・123)〔Он бежит подле лошадки,〕(ア・48)

■「また馬のそばへ駆けよった。」(上・123~124)〔опять бежит к лошадке.〕(ア・48)

■「力まかせに葦毛の上に振りあげた。」(上・124)〔с усилием размахивается над савраской.〕(ア・48)

■「哀れなやせ馬の背に力まかせに一撃を加えた。」(上・124)〔другой удар со всего размаху ложится на спину несчастной клячи.〕(ア・48)

 アリョーナ婆さん、リザヴェータ、ソーニャ、プリヘーリヤを連想させる。

■「哀れな自分の持ち馬に」(上・125)〔свою бедную лошаденку.〕(ア・49)  ソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「牝馬」(上・125)〔кобыленка〕(ア・49)  ソーニャ、リザヴェータ、プリヘーリヤ、アリョーナ婆さんを連想させる。

■「やせ馬は鼻づらを突きだして、苦しげに息をつき、死んでいった。」(上・125)〔Кляча протягивает морду, тяжело вздыхает и умирает.〕(ア・49)

 アリョーナ婆さん、リザヴェータ、カチェリーナを連想させる。 

 

 以上、この〈めす馬殺し〉において〈馬〉は様々に表記されている。кляча、кобыла、саврас、лошадьおよびこれらの愛称語で記されている。まさにミコールカによって殺された〈馬〉が単なる痩せて年老いた百姓馬のみを意味しているのではなく、実に多義的な象徴性を内包していたことが分かる。作中に登場する主要な女性人物たち、ロジオンによって実際に殺されたアリョーナ婆さん、リザヴェータを始めとしてソーニャ、プリヘーリヤ、カチェリーナなどがみなそれぞれ大きな荷馬車を引いて息絶え絶えに生きていた。さらにロジオン自身もまた、二百年の伝統を持つラスコーリニコフ家を再建するという使命を課せられ、ラスコーリニコフ家の杖として柱として母や妹の希望を一身に背負って輝かなければならなかった。ロジオンもまた彼一人では引ききれない余りにも大きな荷馬車をあてがわれていたことでは、夢の中で息絶える百姓馬となんら変わらなかった。想像力をさらに膨らませれば、〈馬〉はロシアの皇帝にまで及ぶであろう。ニコライ一世の後を継いだアレクサンドル二世は農奴制解放を初めとして、司法権の独立、国立銀行創設、大学改革など早急にロシアを近代化しなければならなかった。皇帝もまた巨大な後進国〈ロシア〉という荷馬車を引いてあがきもがかなければならなかった。.アレクサンドル二世が「人民の意志」派のテロリスト、イグナツィ・フリニェヴィエツキ(ポーランド人)の爆弾で暗殺されたのは一八八一年三月十三日、『罪と罰』が「ロシア報知」に発表された一八六六年から十五年後、ドストエフスキーが逝去してからわずか一ヶ月後のことであった。 

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載7

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載7

 

 

 ロジオンの第二の犯行、目撃者として現れたリザヴェータ殺しを見てみよう。

 

  部屋のまんなかに、大きな包みを手にかかえたリザヴェータがつっ立ち、茫然自失したように殺された姉を見つめていた。顔は布きれのように青ざめ、悲鳴をあげる力もないらしかった。走りでてきた彼を見ると、彼女は木の葉のように小刻みに震えはじめ、顔じゅうに痙攣が走った。片手をもちあげ、口を開きかけたが、やはり叫ぶことはしなかった。そして、そのまま彼の顔を穴のあくほど見つめながら、部屋の隅のほうへのろのろと後じさって行った。悲鳴をあげようにも空気が足りないといったふうで、あいかわらず声ひとつ立てなかった。彼は斧をかざして彼女にとびかかって行った。彼女の唇は、ちょうどごく幼い子が何かにおびえ、その恐ろしいものをじっと見つめながら、いまにも泣きだしそうになるときのように、いかにも哀れっぽくゆがんだ。そのうえ、この哀れなリザヴェータは、斧を頭上にふりあげられているというのに、手をあげて自分の顔をかばうという、このさい、ごく自然に必要な身振りさえしようとしなかった。それほどに単純で、いじめつけられ、おどしつけられていたのだ。彼女は、空いているほうの左手をほんのわずかもちあげたが顔まではとてもとどかなかった。そして、彼を押しのけようとでもするつもりか、その手をのろのろと前に差しのべた。斧の刃はまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。彼女ははげしくその場に倒れた。ラスコーリニコフはすっかり度を失い、彼女の包みをひったくったかと思うと、またそれを投げすて、玄関の間に走りこんだ。(上・165~166)

 

 ロジオンはこの第二の殺人、リザヴェータ殺しを〈まったく予期しなかった殺人〉〔совсем неожиданного убийства〕と思っている。ロジオンが予定していたのはアリョーナ婆さん殺しのみであって、リザヴェータの出現はまったく予想外であったというわけである。この〈第二の殺人〉を予期しなかったのはロジオンで、もちろん作者はこの殺人を自覚的に描いている。ドストエフスキーの小説家としてのしたたかさは、『オイディプス王』を書いたソフォクレスに匹敵する。誰一人解けなかったスフィクスの謎を解いた英知の人オイディプスは父親殺しと母親との契りに関しては驚くべき愚鈍ぶりを発揮している。つまりソフォクレスがそのように描き分けているということである。犯罪に関する論文を投稿して採用されるほどの英知の人ロジオンが、ことリザヴェータ殺しに関してはまったく想像力も直観も働かない愚者を演じさせられているということである。

 ロジオンは偶然センナヤ広場でリザヴェータと古着屋の女房との会話を耳にする。女房は明日の〈第七時〉(六時から七時)にアリョーナ婆さんには内緒で出かけてくるように言う。この〈第七時〉を午後七時と思いこんだロジオンはまさに〈悪魔〉(черт)のかどわかしに乗ってしまったと言えるが、その〈悪魔〉を派遣したのが作者ドストエフスキーに他ならない。ロジオンの〈踏み越え〉(преступление)は〈アリョーナ婆さん殺し〉にとどまってはならなかったからこそ、作者はロジオンの〈踏み越え〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉とは書かずに〈アレ〉と書き、〈第七時〉を〈七時〉と思い込ませるのである。リザヴェータ殺しの現場を直視すれば分かるように、ロジオンは〈まったく予期しなかった第二の殺人〉において微塵の躊躇も見せていない。ロジオンは自分の確固たる意志でリザヴェータの額を叩き割っている。これは見ようによっては、「良心に照らして血を流すことが許されている」などという理論を超えて、ロジオンは実に恐ろしいことをしでかしてしまったということである。ロジオンはリザヴェータ殺しに関して何ら理論的な正当化をしていないし、そもそもリザヴェータのことをまともに思い出しもしない。しかし、理不尽な〈めす馬殺し〉に捨て身で抗議をしたロジオンが、よりによって哀れなリザヴェータを躊躇なく叩き殺してしまったのだ。ロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカよりもはるかに残酷で理不尽な殺しの張本人となったのだ。いっさいの弁明をしないロジオンの罪は深いが、作者は最後まで無罪意識のままのロジオンを復活へと導いていく。いったいどういうことだ。作者にはすべてが許されているのか。

 世界の不条理、悲しみや苦しみに誰よりも敏感に反応し、抗議と悲憤の叫び声をあげるロジオンが、二人の女の頭を斧で叩き割ってしまう。この二人の女の殺害現場を夢の中に登場した七歳のロジオンが目撃していたとすれば、どのような叫び声を発しただろうか。二十三歳のロジオンは七歳のロジオンの叫び声にどのように答えるのか。七歳のロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカを赦すことはできなかっただろう。はたして七歳のロジオンは二人の女を殺したロジオンとどのような折り合いをつけるのか。 商家の女将からの恵みの二十カペイカ銀貨を放り捨て、アリョーナ婆さんが身につけていた二つの十字架を彼女の胸に投げ捨てた殺人者ロジオンが、ネワ川の底に沈んだ二十カペイカ銀貨を探し出すこともなく、アリョーナ婆さんの血にまみれた十字架を浄めることもなく、どうして復活の曙光に輝くことができるのか。無罪意識のままの殺人者ロジオンとスヴィドリガイロフの善行によってシベリアにまでロジオンを追ってこられたソーニャを復活の曙光に輝かせた《愛》(любовь)とは……。

清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載6

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載6

 

 

 作者はロジオンにおける〈運命〉、偶然の積み重ねとしての必然をたとえばロジオンの回想に託して次のように表現する「思いがけなく訪れて、すべてを一時に決定してしまったあの最後の日は、ほとんど物理的ともいえる作用を彼におよぼした。まるでだれかが彼の手をつか、強引に、盲滅法に、超自然的な力で、逆らう余地もなく彼を引きずって行くようだった」と。ロジオンを犯行現場へと引きずっていく〈だれか〉とはいったい〈だれ〉なのか。〈悪魔〉なのか、〈神〉なのか、それとも〈神でもあり悪魔でもある〉或る何ものなのか。さらにそれとも〈神〉でも〈悪魔〉でもない、まさにすべての自然・世界事象の運行を司るものなのか。ロジオンは自らの犯行に〈運命の予告〉を、〈神秘的でデモーニッシュな力の作用〉を感じるが、そこで彼の思考は停止する。ロジオンは〈運命〉そのものを問うことはないし、〈神〉と〈悪魔〉の関係性、そののっぴきならない共犯関係についても一切発言することはなかった。

 第一の犯行・アリョーナ婆さん殺しの現場を見てみよう。ロジオンは後ろを向いた老婆の頭上めがけて斧を振り上げるが、刃先は自分の方に向かっていた。つまりロジオンは斧の峯で老婆の頭を叩き割っている。象徴的次元で解読すれば、ロジオンは無意識のうちに老婆より先に自分の頭を叩き割っていた事になる。ロジオンの額には666の悪魔の数字が刻印されていたのであるから、彼は最初に自らの〈悪魔〉を殺した後に老婆を殺害したことになる。ところで、素朴な疑問を呈すれば、自分の〈悪魔〉を殺した者がたとえ一匹の有害な〈虱〉とは言え、三度も斧を振り下ろすことができるのだろうか。もし、できるとすればロジオンにおけるアリョーナ婆さん殺しは、〈悪魔〉のなせる技ではなかったという意味でもそら恐ろしい出来事となる。まさにロジオンは〈良心〉に照らしてアリョーナ婆さんを殺したことになる。もう一つ注目すべきことは、ロジオンは殺したアリョーナ婆さんの首に掛かっていた紐を、死体を台にして斧で叩き切ろうとしたことである。ロジオンはためらって実行はしなかったが、一瞬とはいえそのように思ったことは事実であり、殺人者ロジオンの恐ろしさを体感する。こういつた青年を観念的次元で読み解くことの危険性をまさまざと感じる場面である。

     注目すべきは、アリョーナ婆さんの首に掛かっていた紐には糸杉と銅の二つの十字架と七宝細工の聖像とがついていたことである。読者はアリョーナ婆さんがソーニャやリザヴェータとは違ったにせよ、熱心な信仰者であったことを忘れてはならない。ソーニャは淫売婦でありながら神を信じ、リザヴェータは年中孕みながら神を信じ、そしてアリョーナ婆さんはユダヤ人並の高利貸しでありながら神を信じている。ロジオンは神に向けて呪われた運命からの解放を願いながら、キリスト者アリョーナ婆さんを斧で叩き殺し、二つの十字架を彼女の胸の上に投げ捨てるのである。ロジオンは商家の女将から恵まれた二十カペイカ銀貨もネワ川に投げ捨てているが、これほどの涜神的な行為を繰り返しながら、にもかかわらず彼は神そのものを捨て去ることはできなかった犯罪者なのである。