モーパッサン『ベラミ』を読む(連載50) ──『罪と罰』と関連づけながら── 清水 正
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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
モーパッサン『ベラミ』を読む(連載50)
──『罪と罰』と関連づけながら──
清水 正
世界に頽落して生きる人間を否定することはできない。自らの死に頓着せずに生きるその生き方は、なまじ死にとらわれて精神を病む生き方よりもはるかに賢明とも言える。わたしはここでヴァレリーのテスト氏の言葉を想起する。「人々は、言語によって、思考の空間を軽々とわたっているけれども、ぼくにはそれが、深い淵のうえにかけわたされた軽い板みたいな気がしてきたね、うえを通るのはいいが、立ちどまると危ないのさ。すばやく動いてゆけば、板の力をかりて、助かるけれども、少しでもそれにしがみついていたりすると、このわずかな時間のために、板は折れ、何もかも、深い奈落へ落ちこんでしまうんだ。いそいでいる者にはわかっていたんだ。けっして重みをかけてはならないのさ」。
ここで語られていることを人生に当てはめたら、人生の意味など問わずに、人生の舞台を軽やかに生きる者は、立ち止まることの危険を予め知っていたということになろう。思索に快楽を覚えるような人間ならまだしも、日々の生活を生きる者にとって〈死とは何か〉などと深刻に考えることほど危険なことはない。死は死について考える者にも、死を忘却する者にも必ず襲ってくるものなら、畢竟、どちらを選んでも同じことである。人生の板の上にあってしょっちゅう立ち止まらざるを得ない者は、深淵に落ちる可能性を覚悟しておかなければならないが、軽やかにわたっていく者は深淵に突き落とされる危険を回避することができる。しかし生涯を通して一度も立ち止まらずに板の上を渡りきる者などごくわずかであるに違いない。死の観念から逃れようとしても、死は至るところに潜んで、思わぬ時と所で顔をだす。友人、知人、家族の死は、否応もなく自らの死をも感じさせ、考えさせられる。が、ジョルジュがそうであったように、現世での生に享楽を求める人間は、死を凝視し続ける忍耐を持ち合わせていない。誕生と死の間の束の間の生を思い切り楽しもうとする者は、先駆的覚悟性を引き受けた〈侍〉のような人間よりはるかに多数を占めるに違いないが、その生を否定する根拠はない。まさにどちらを選ぶかは各人の自由である。
ジョルジュは神や永遠に向けての志向がないので、当然、現世を享楽し、現世での権力獲得を目指すことになる。これは一人ジョルジュだけではなく、『ベラミ』に登場する人物に共通した傾向である。老詩人ノルベール・ド・ヴァレヌにおいてすら社交界への出入りを控え、孤独の生活に甘んじていたわけではない。彼はジョルジュを相手に自らの死生観を披露するが、彼はそもそも話す相手を間違えている。相手がジョルジュでは死生観をめぐっての深遠な対話が展開されるわけもない。ドストエフスキーはロジオンの前に鋭利な心理洞察者ポルフィーリイや、海千山千の淫蕩漢スヴィドリガイロフを登場させ、読者を果てしない深みへと誘うが、モーパッサンはジョルジュ・デュロワの前に、彼の死生観に揺さぶりをかけるような独自な思想を持った人物を登場させない。ジョルジュもノルベール・ド・ヴァレヌも彼らの対話において自らの内的世界を根底から崩壊させられるかもしれないという危機感がまったくない。読者は提示されたノルベール・ド・ヴァレヌの死生観を語られたそのままに受け取るほかはない。その意味でこの〈死生観〉は絶対として提示されていると言っていい。彼の〈死生観〉に揺さぶりをかけるのは批評家であって、従順な読者はそのまま読みすすめていくに違いない。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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