モーパッサン『ベラミ』を読む(連載43) ──『罪と罰』と関連づけながら── 清水 正

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

sites.google.com

 

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください。

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

                清水正・画

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)

モーパッサン『ベラミ』を読む(連載43)

──『罪と罰』と関連づけながら──

清水 正

 

 キリスト教の教義に対する根本的な疑問、キリストの言動に対する素朴な疑問に対し、わたしは誰からも納得のいく説明を提示してもらっていない。戦争に加担するキリスト教信徒など、わたしには自己欺瞞の最たるものとしか思えない。プーチンウクライナ侵攻に賛同の意向を表明するロシア正教会のトップなど、いったい彼らはキリストの言葉をどのように受け止めているのだろうか。

 煩瑣な議論に惑わされず、単純素朴にキリストの言葉を受け止めれば、戦争を肯定するキリスト者などあり得ないのである。トルストイロシア正教の教義を鋭く素朴にかつ執拗に反論批判したことによって正教会から破門されたことはよく知られたことだ。煩瑣な教義に誑かされるのは、自己欺瞞に気づこうともしない知識人に多いのは、彼らがキリストの言葉を自分自身の実存に結びつけて考えないからである。キリストの言葉を引き受けるということは、なにもかも捨ててキリストに従うことであり、それは十字架の途より他にはないのである。わたしは何度でも言うが、組織に属して自己保身をはかり、長生きするような者はキリストとは無縁な存在なのである。世には〈キリスト〉の仮面を被っていながら、そのこと自体に気づいていないような愚かな〈反キリスト者〉も多い。

 わたしが老詩人ノルベール・ド・ヴァレヌの言葉を引用し言及するのは、彼の言葉に込められた人生に対する真摯な姿勢を感じるからである。

 しばし彼の言葉に耳を傾けてみよう。

 

  僕は、今では、死があまりに間近に見えるので、腕をのばして突きのけたい気持に駆り立てられることが何度あるか知れない。死は地球を蔽い、空間をみたしている。僕は至る所に死を発見する。路上に押しつぶされている虫、散る木の葉、友だちの髯の中に見つけた白髪、そういうものが僕の胸を掻きむしり、僕に向かって叫ぶ。「ほら、そこにいるじゃないか!」

  僕のするすべてのこと、僕の見るすべてのもの、僕の食べるもの、飲むもの、僕の愛するすべてのもの、月の光、日の出、大洋、美しい河の流れ、それから、呼吸するのがあんなに気持のいい夏の夕方の空気、そういうものが全部、死のことを考えると台なしになってしまうのだ!(上巻・211~212)

 

 ノルベール・ド・ヴァレヌにとって死が最大の問題になっている。人生を送るにあたって死を意識しない人間はいない。問題は死をどのようにとらえるかである。ハイデッガーは人間を死すべき存在としてとらえた。どういうわけか人間は訳も分からず生まれ、そしてどうやら死ぬことを免れない存在としてあるらしい。敢えて〈らしい〉と曖昧な言い方をしたのは、とりあえずわたしは今生きており、自らの死を未だ体験していないからである。誰もが生きている限りは、自らの死を体験することはできない。すべての人間が死を運命づけられていると思うのは他者の死を通して推測しているに過ぎない。従って厳密に言えば、すべての人間は死すべき運命にあると断言することはできない。

 ところで、人間は死すべき存在ではなく、永遠の命を獲得することのできる存在だと断言した者がいる。キリストである。キリストは復活であり命である彼を生きて信じれば死ぬことはないと断言している。ハイデッガーによれば人間は死すべき存在だが、キリストによれば人間は永遠の命を獲得できる存在ということになる。理性に立脚する者がキリストの言葉をそのまま信じることは不可能だが、しかしハイデッガーの言うことに対しても理性は確固たる支持を表明することはできない。理性が言いうるのは、死そのものに関してなにも確定的なことを言えないということである。生きているうちは、様々な解釈を展開することは可能であるが、死んだ後のことなどなにも分からないということ、強いて分かることと言えば〈分からない〉ということだけである。

 ノルベール・ド・ヴァレヌはいかなる宗教にも救いを求めていない。宗教など子供騙しの愚かな幻想としか思っていない。それでいて死に対する不安、恐怖からの脱出を願わずにはいられないらしい。彼は自らの死をそのまま素直に受け入れる精神の安定に到達していない。彼はあらゆるものの不可避の死を認識しながら、自らの死から逃れようとする。宗教が人間の魂の救いを約束するものとしてあるなら、すべての宗教を拒む彼は自らの魂の救いをも断念すべきである。しかし彼の精神は死を凝視して、死を超越する解脱の方向へと向かうことはなかった。彼には死に親しむ視点が欠けている。彼は未だキリスト教的な観念を払拭できずにもがき苦しんでいるように見える。その意味ではノルベール・ド・ヴァレヌもまた、神の存在を認めた上で神に抗議するイヴァン・カラマーゾフと血縁関係にある。ユダヤキリスト教の土壌で育った者たちは、神を否定して無神論者になってすら、その無神論が〈神〉をすでに内深くに抱え込んでしまっているのである。

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

www.youtube.com



大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。 

エデンの南 清水正コーナー

plaza.rakuten.co.jp

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

お勧め動画池田大作氏の「人間革命」をとりあげ、ドストエフスキーの文学、ニーチェ永劫回帰アポロンディオニュソスベルグソンの時間論などを踏まえながら

人間のあるべき姿を検証する。人道主義ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。

www.youtube.com

 

www.youtube.com

www.youtube.com

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

f:id:shimizumasashi:20220130001701j:plain

表紙

f:id:shimizumasashi:20220130001732j:plain

目次

f:id:shimizumasashi:20220130001846j:plain

f:id:shimizumasashi:20220130001927j:plain

 

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。