ネット版「Д文学通信」3号(通算1433号)。岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載2)

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ネット版「Д文学通信」3号(通算1433号)           2021年10月25日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第2回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

二、哲人たちの哲学の根底

 

純一少年の苦闘 「知性派ニーチェ」にとっての自我、学問、母、女性

 

 未だ「神」も「宗教」もよく考えなかった子供の頃の私が不思議に思って問うていたことの一つに、「人間はなぜ癌を治さなければならないか」、あるいは「人間はなぜ癌を治さなければならないと思わなければならないか」という問いがあった。狭義には、主語を「人間は」ではなく「先進国の国民は」、「科学文明の民は」などとすべきだろう。また、「癌を」ではなく「身体の病理・疾病一般や精神病理・神経症一般を」としてもよいだろう。

   私は、幼稚園・小学生の頃から、得体の知れぬ怪物が登場する色とりどりの悪夢を見て泣いたり、四十一度の熱を出したり、入院したりする一方で、そんなことをも問うていた。

 ともかく、私の就学時代(小学校、中高一貫校、中退前の大学時代)もずっと問うてきたし、いわゆる社会に(つまりは、自分の人材としての市場価値が勝手に他人の手で上下動する土俵に)出てからも、「病気を治さなければならないと思わなければならない」という暗黙の強制的な社会通念があるのを目の当たりにしてきた。

「病気で人が亡くなると哀悼の意を表さなければならない」という決まりになっているから、自分には縁遠い人でも、上司など目上の人に縁の近い人である限り、逐一その哀悼道徳に従い、お世話になったかのような日々を急いで創作し、お悔やみ申し上げていそうな表情を致し方なく作って、お悔やみ状や香典を出すほかないわけである。

 簡単に述べるならば、「人間は、逐一身体に手を入れて生命を修繕・管理するよりは、死んだほうがましではないか」という、うっすらと今でもある感想を、なるべく忘却したつもりで社会人生活を送ってはいるものの、さすがにしばしば気がおかしくなりそうになるのをどうするかという問題を今も抱えている。

 私のように、「自分自身や他人の病気について何も対応しないという態度が、自然であり、善であり、徳である可能性はないだろうか」とか、「癌で死んだ人に対して笑ったり、よくやったと拍手したりする形式の葬式がどうしてないのか」などと、すぐ少年に戻って疑問に思う人間にとっては、およそそれと思想の異なる人間(社会人)集団が日本社会で展開する冠婚葬祭に参加するのが苦痛で仕方ないのである。

 そこで、中学・高校生の自分なりに調べてみると、古代の歌垣や中世以来の盆踊りの娯楽性がそのまま死者の供養である時期が長くあった上、むしろ環太平洋地域・東アジアの供養文化は悲喜の感情の共存・混合形態のほうが自然だったことが分かってきた。今や真面目な葬式とやかましい盆踊り(阿波踊りなど)は完全に別物である。世話にもなっていない人の死について嘘泣きしなければならないのが、前者である。後者は完全に、和風のふりをした欧米風ダンスと化している。それで、先の巫女たちは多くの盆踊りへの参加を取りやめている。

 以来私は、今後の人生で、どうすれば人の葬式になるべく参加せずに生きられるか、自分なりに考えて生活している。私は、今の葬式は必ずしも供養にならないと考えているからである。結婚式にもほとんど参加しない。とりわけ、浄土真宗の葬式理念には、法華系新宗教のそれに対するのと同程度に疑問を感じる。これは経験した人にしか分からないのかもしれないが、自分がおかしいと思う社会規範との戦いは、単に私が武器を持っていないだけで、実態はほぼ闘争、戦闘に近い戦いであると感じられる。

 ともかく、このような戦後日本社会一般や日本の職場における暗黙の強制力の存在については、ずっと以前、幼少期から感じ取ってはいたが、芸能人の逸見政孝氏の「癌」告白会見を見て、決定的に思い知ることになった。今調べてみると、この会見は一九九三年九月六日、私が十歳の時のことだったようだ。

 私はこんなことに反応して悩む子だったのである。非常に失礼な言い回しにはなるのだが、この会見が、「戦後民主主義現代日本社会、進歩的文化人、昭和のほとんどの大人が作り上げてきた欺瞞精神」を私に認識させた出来事の一つであることをはっきり覚えている。これを見た視聴者は「癌を告白し、癌と闘う人は素晴らしい」と思わなければならないし、癌を告白した側も、視聴者がそう思うだろうと予定して会見していただろう。

 その頃から、自分の体が病に冒された場合に、それを(伝えておかなければ根本的に迷惑を被る可能性のある親族や恋人や友人に対してでなく)職場や学校や全国民に大々的にお知らせすることが流行しており、私にはこれが非常に苦痛である。この流行は、平成時代を通じて見事に完成した。

 しかし、そのような医療と葬式の実務上の問題はともかくとしても、その根底にある人間の「ルサンチマン(怨恨、反感)」と「弱者道徳」のほうが問題である。要するにこれは、大変厳しく言えば、「病気について語ったり立ち向かったり発表したりしている人たちは素晴らしい、そんな自分たち人間は素晴らしい」という、ニーチェの言う「ルサンチマン」と「弱者道徳」を、およそ先進国と日本の国民の多くが「畜群」・「末人」として共有していることによって初めて成り立つ流行だからである。

 これらの人々にとってこそ、肉親や友人は癌になって頑張って死んでよかったことになるし、癌で死んだ人を自己の正当性の維持のために再利用していると言える。根底には、病気が治った人や長寿の人、ひいては病気になったり震災にあったり事故に遭ったりして一躍時の人、頑張る人となった人たちのことが羨ましい、妬ましいという心理がある。これを「平成ルサンチマン」や「平成弱者(群衆)道徳」と名付けてもよいのではないかと思う。

 ちなみに、今単に「弱者道徳」と書いたが、ニーチェは『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』で、これを概ね次のように分類しているように読める。

 すなわち、ニーチェはまず、動物の一派としての人間が共同体生活を営む限り自身(自我よりも身体・身体性)と共同体の滅亡への恐怖に基づいて抱えることになる、「安全」と「危機」とを対置させる最古の弱者道徳を、「畜群(末人・畜生・家畜)道徳」と呼ぶ。次に、元来の「畜群道徳」を抱き込んで曲げ、「貴族道徳」の高貴さから離れた、ユダヤ人に典型的な、「清浄」と「不浄」とを対置させる僧職者の弱者道徳を、「僧侶道徳」と呼ぶ。さらに、僧侶的民族(ユダヤ人)の「僧侶道徳」が、その曲げた「畜群道徳」を口実とし、「貴族道徳」に反抗しつつ(自分たちの道徳が本物の「貴族道徳」であるかのように平民に見せかけつつ)発明し、それに煽動された平民のルサンチマンが嬉々として受容し、これを起源に持つキリスト教徒のルサンチマンが発展・普及させた、「善」と「悪」とを対置させる新しい弱者道徳を、「奴隷道徳」と呼ぶ。

 一方ニーチェは、あらゆる弱者道徳を超克し(というよりも奴隷道徳の発祥以前から、畜群道徳・僧侶道徳と共にあり)、「良い」生を目指す、「良い」と「悪い」を対置させる道徳を「強者(君主、主人、貴族、高貴)道徳」と呼んでいる。ニーチェは、最も厳しく断罪されるべきは概ね「奴隷道徳」としつつ、その黒幕を「僧侶道徳」であるとしているように読める。

 ただし、必ずしもそれぞれの道徳に当代の実際の動物的人間、ユダヤ人、僧侶、キリスト教徒、奴隷、君主、貴族などが対応するわけでもない。ニーチェの言う「強者」や「君主」や「貴族」や「超人」は、ただ横柄に指図しているだけの富裕な君主や貴族ではなく、むしろ彼らの「僧侶道徳」や「奴隷道徳」を打ち破る勇者や戦士といった意味である。

 しかもニーチェは、「奴隷(道徳)」を痛罵して「畜群(道徳)」と呼ぶことがあるほか、為政者にも奴隷道徳者がいる場合もあれば、ドイツの群衆やユダヤ人にも稀有ながら君主道徳者・超人(まさにニーチェ自身など)がいる場合もあると見ているなど、その語の使い分けは(実は人種差別主義者ではないだけに)不徹底である。

 そのため、本稿でも必ずしも使い分けない。本稿では、強者道徳君主道徳)と弱者道徳の双方を冷静に観察するため、弱者道徳一般には、あえて主に社会心理学上の「群衆」の「群集心理」を転用する形で、基本的に「群衆道徳」なる語を用いるとする。(従って、私が本稿で用いる、弱者・畜群・末人・奴隷の総称としての「群衆」は、むしろハイデガーの「ダス・マン(世人)」に近いとも言える。)

 しかし、私が初めてニーチェを知ったのは、十七歳、一九九九年の頃であり、「ルサンチマン」や「弱者道徳」や「畜群」・「末人」などという語を使って自分の対社会的違和感を自分に説明し始めたのは、高校時代の後期以降である。それまでは依然として、「ほとんどの人は病気になった場合に、どうして治したいとか治さなければならないという気になるのか」、「病気になった人を見て、どうしていたわったり心配したりしなければならないのか」、という私の問いの答えは、同時代に生きている人々を観察しても全く出てこなかった。

「死ぬのがつらい、怖い」という人が周囲にいるが、現在でも改めて考えてみると、この言葉を私が使おうとする場合、単に「死ぬときに、その病気の結末として覚えることになるだろう痛みや苦しみが嫌だ」という意味で使うのであって、「(存在するはずの神や真理、病理の医学的な解決方法を追いかける)自分がこの世からいなくなるのが嫌だ」という意味にはならない。普通は後者の意味で、人間は(正しくは今の日本国民や欧米先進国民のほとんどは、とすべきだが)死が恐ろしいらしい。

 しかし、今の私からすれば、当時から私は、キリスト教の神ではなく「始原の汎神」、「遍在する多神」、「カオス」、「大いなるディオニュソス」を唯一神と見ていたことになるので、私の生死を含む世界の全貌が、私が回避しようとすべきでない「善」(というより「良い」もの・こと、強者の想定内の出来事)である。この「大いなるディオニュソス」は、清水先生の好む表現でもあって、ニーチェの言うアポロン的理知とディオニュソス的情動の双方を包み込むところのディオニュソスの宇宙を言う。

どうしても私には、血を抜くのが恐ろしいとか、注射の針が怖いとか、もう春の花や秋の紅葉が私の五感によって見られなくなるのだけは寂しいとか、幼い息子(私)が入院している姿を見る母が寂しそうなので早く退院しようといった、生々しい直接感覚のほうが自然であると思われたのである。

 私は、幼稚園や小学生のときからこれを先生に向かって主張し、知性の発達が後れている子だと思われていた。中学・高校時代には、表立っては主張しなかったが、考えていることは同じで、それどころか、苦悩しながらも、実は自分のほうが本当は強い道徳の持ち主なのではないかと思えるようにもなってきた。恐ろしいと決まっている(人間が勝手に「恐ろしい」、「長寿の敵だ」と決めたにすぎない)死を逃れるために血を抜いてもらったり注射してもらったりして安心する倫理道徳や、国家・厚労省・病院などを主軸とする生命管理制度のほうが、私には薄々、人間の、日本の群衆の、最大の臆病、腰抜けに思えたものだった。

 それに高校生のときに、自我の卑近な問題から開始されるこのような絶対真理への疑念そのものが、病の期間や死の瞬間における痛覚や不快感の出現・体験よりも自我(自己意識)の消失を恐ろしいと思わない性質を持った人間個体にしか生じない問いであるらしいことに気づいた。あるいは、受験科目の世界史・日本史の細目として宗教や哲学に触れる中で、形而上の存在である「神」というものを追いかける自我を自覚できなくなるのを損失だとか消滅だと思わない人間個体にしか生じない問いであるらしいことが分かってきた。その直後に、キリスト教道徳の転倒者としてのニーチェを初めて知ったわけだ。

 ところで、清水先生はここ数年、病から来る神経痛と闘っている。その闘いが、いずれ訪れる自我の消失を恐怖し回避しようとする打算的自我によるものなのか、そんなことよりも今の今覚えている痛覚に顔が歪むしかなく、早く原稿が書きたいという生命衝動によるものなのか、私はずっと観察していた。結論としては、後者の闘い方であり、その闘い方を、私に似た、あるいは後述の鷗外的死生観によるものと私は理解した。病に対するこのような姿勢は、どうも昔から私に安心感を与えるのである。

 私は難産で産まれ、母親に抱きしめられて育った。母胎で一度心臓が止まり、生まれてこないことになっていたが(翌日の処理の準備が進められていたが)、復活し、奇跡的に生まれてきたのであった。その後もあまりに病弱な幼少年期を過ごしたが、気がつけばこうして文章を書いている。

詳しくは書かないが、母はそのような育てられ方をしていない。一方私は、幼い頃から、現実か悪夢か、実に様々な色や形の模様が頭の中や天井を駆け巡っているのが見え、そのたびに泣いては、すぐに母親が駆けつけた。

 だからこそ、私の自然死の全肯定は、母の愛への敬服と同義である。あんな治療もある、こんな新しい薬が出たと言っては、あちこち体の手入れを執拗に渇望して回る人間は、母の妊娠・出産・抱擁そのものを否定し挑発していることになるがゆえに、巡り巡って自らの生を最初から否定していることになるという原理に気づいてしまった。

 そうしてみると、「人は死ぬのが怖いものだ」とか、「病気と戦っている人は素晴らしい」といった、我々が問答無用に遵守しなければならないと義務づけられている、お坊ちゃま・お嬢ちゃま気取りの(上流階級の意ではなく、ニーチェが言う弱者としての)絶対倫理を作った人種・人間集団と、彼らが勝手に想定・立脚している絶対存在というものがあるはずである。ここで言う義務とは、単なる近代法による義務ではなく、守らないことが反人間的であるかのごとく自覚される奴隷的恐怖心を利用して捏造され、反人間に陥らないために遵守すべき原理と思われている受動的義務のことである。

 大学受験までに、小学校の社会科や道徳、中学校・高校の世界史の授業を今一度振り返って精査してみると、そのような義務設計をしてきた人間集団とは、まずはユダヤ人であり、ギリシャ人であり、ローマ・ラテン人であり、ゲルマン人であり、アングロ=サクソン人であり、キリスト教徒であると分かってきた。要するに西洋人、特に西洋の聖職者・学者である。また、原理的義務とはキリスト教道徳にほかならない実態もいよいよ見えてきた。

 しかし、それ以上に、日本の(自称無宗教の)いい大人が寄ってたかる群集心理こそが、日本の子供たちに西洋的自我とキリスト教道徳の植え付けという恐怖政治を敷いている最たる存在だと知るのに、私の場合、そこからそれほど時間はかからなかった。これが、大学時代にニーチェ哲学さえ中途半端にして、社会人時代の早期に日本思想や日本文化の復権の試み、そして故郷・吉備への懐古と郷愁の再来に進む要因となるのだが。

 以上が、私の少年期における、いや、すでに幼少期の頃の私に芽生えていた、群衆の自我と自分の自我との耐えがたき断層の恐怖と葛藤である。私の場合それは、敬虔なクリスチャンの家に育ったニーチェや、日蓮宗の家に生まれながら自らはミッションスクールへ通いクリスチャンとなった松原寛とは違い、神自体への違和感、信仰への懐疑ではなく、道徳や世界史の教科書で教えられる戦後民主主義、国民道徳、死生観への違和感として始まった。

 とにもかくにも、これまで、「医学」とか「医療」と何気なく呼んでいたものが、つまりは「西洋医学・医療」や「キリスト教医学・医療」であることに、さすがに小学生や中学生の私が気づくはずもなかった。

 これは別に、現代科学・医療を全否定しているわけではなく(実際、私は精神病理学や生物学、物理学、工学にやたら詳しい)、私のような人間は、自分の病気を(単に横にいる)肉親(私を分身として生み出した人)などのためにしか治せないから、現代医療をこれらの人のためにしか使えない、ということを意味しているのではないかいうことである。ごく普通は、自分の現世利益(長寿願望)と来世利益(神仏による救済)のために病院に行くようだが、一方で、自我についての根源的思索に明け暮れつつ、肉親が自分を心配するから病院に行って、頑張って医者と会話している私のような人もいるということである。

 「職場に迷惑をかけて嫌われたくないから、病院に行く」という人までいるが、私がここで述べているのは、これも「群衆道徳に嵌まっていなければ不安だ」という利己主義の変種だということである。

 西洋人の子供にこのような葛藤があるか、未だ私も知らない。正しくは、私は言語学的・統語論的に西洋の幼児の言語世界を観察することによって、西洋人でさえ幼少期には非キリスト教的世界観、汎神・多神論的世界認識を持っている可能性が高いと知っているが、ここでは極度に学究的な説明は省略する。

 こうして私は、高校生のときにニーチェ哲学に出会い、ニーチェの死生観が私のそれに極めて近いことを知って救われることになる。ここから、ニーチェが好きでありながら、ニーチェ恐怖症でもあるという、私の人生が本格的に始まるのである。

 私は、東京大学を受験する前に、ドイツ哲学者の三島憲一の『ニーチェ』(岩波新書、一九八七)を読んで、初めてニーチェに出会っている。これが良くも悪くも、のちの東大中退へとつながる。つまりは、入学直前に永劫回帰と運命愛に出会った男が、その後の大学生活で名だたる教授陣から何か新たに学ぶことがあると期待できるわけがない。

 むしろ、様々な予備校の模擬試験を受けた中学・高校の時期、そして東大の入学試験の合格通知を得たところまでの時期において、私が確認できたのは、自分が東大に受かるということのみである。センター試験形式の世界史は毎回百点を採れること、その他の科目もそれに近いこと、自己採点してみると世界史と日本史のほか数学でも高得点を取れており、まるで数学で東大に入ったようなものであることなど、単に私の「お頭(おつむ)」、「お学力」に関する結果ばかりが、東大受験の思い出である。しかしそれを、東大には必ず素晴らしい学問世界と哲人の教授陣と友人たちばかりが待っていると勘違いしたことが、結果的に私自身を傷つけた。

 そもそも、受験前から、文系の教師は私に東大の文科が向いていると言い、理系の教師は私に東大の理科が向いていると言った。「君は日本の学校教育制度から外れた人生を過ごすことになり、あるところで急に先生側として大学に呼ばれるタイプだから、文理双方の道から大いに外れておいて構わない」と言った先生は一人もいなかった。先生方としては、そう言わざるを得なかったのだとも思う。要するに、東大の文理系のどちらを受けても受かるというのは、今も昔も私が自分で言っていることではなく、他人が私の成績の表層を見て言っていることの受け売りを私が言っているだけである。

 入学試験を突破できる学力が自分にあると自分で分かった時点で、おそらく私の日本の教育制度の観察は終了したのである。センター試験当日は、とてつもない胸痛に襲われていたことを覚えているが、それでもテストが解けないということはなかった。だが、その後の大学生活のことは、記憶が断片的にしかない。

 覚えているのは、東京大学駒場キャンパス近くの池ノ上駅から小田急線経堂駅までの、「東大からの逃走」と名付けた自転車での避難によって、東大生活は幕を下ろしたことである。無論、教務課への中退手続きは別にきちんと済ませてある。両親は、東大中退については全く何も言わず、それが私の前途を明るくしたことの一つである。大学を中退してから、むしろ周囲の人たちのほうが、「東大を中退するなんて、やはり何か考えることが人と違う天才や哲人だったんだ」と、また私に言い始めたのが大変興味深くも悩ましくもあった。ちなみに、最初に私のことを天才だとはっきり言ったのは、小学二年生のときの担任の先生であった。

 私は大学在籍時、人文学系と芸術系と社会学系の気質・性格と共に、理工学的・数学的な面での知識やパソコンに関する技術・能力も奏功して、西洋音楽の和声法や管弦楽法を一通り独学し、個人で(大学とは無関係に)楽曲も提供していた。

四歳から小学高学年まではピアノを習い、様々な発表会にも出た上、小学校の学習発表会でもいつもピアノや指揮者を任された私である。しかし本来は、今も昔も表舞台に出たい性格ではなく、大学に入った頃には、もはや演奏家・指揮者を務めることはなく、作曲家に徹するようになっていた。幼心にピアノを習いたくなったのも、人前で弾くことではなく、純粋に音の世界に興味を抱いたからだった。

 そのような裏方の理論家としての性格を生かし、大学生活初期の論文演習の必修授業では、ニーチェワーグナーの出会いと決別の音楽理論・音楽美学的側面について書いた。その時の担当教授が、国文学者で「九条の会」現事務局長の小森陽一先生であった。

 入学当初は、小森先生が、今知られるような、街頭におけるマイクを持った絶叫型の演説家で、共産党マルクス主義系の左翼思想をお持ちの先生だとはまだ知らず、授業での物静かな口調の通り、中道左派系の平和主義者だと思い込んでいた。そのため、ニーチェ思想と日本の保守思想の表向きの親和性と相違点という、触れないほうがよいことを語ってしまった。

 訝しげな顔をしながら良い成績を下さった小森先生ほか論文の先生方には、個人的には大変感謝している。だが、当時から何となく、東大の国文・哲学界から求められていないものを私は語ってしまっているという理解はあった。

 共産主義マルクス主義への移行の提唱や中国・北朝鮮賛美の言葉は、これら極左系の先生方の授業中にどうしても出てしまっていたので、教務課も他の教員たちも知っていたはずだが、当時このような極左系の先生方が新入生の必修授業に集中的に配置された理由は、未だによく分からない。いや、新入生が必ず所属することになる教養学部の大学院組織である総合文化研究科が、左翼勢力の学閥であったので、下部組織の教養学部がそれに染まっただけなのだろう。

 実は、私は中学・高校生の頃からX JAPANとそのリーダーYOSHIKIの音楽が好きだったが、YOSHIKIが一九九九年の「天皇陛下(現上皇陛下)御即位十年をお祝いする国民祭典」の奉祝曲を作曲・演奏することが決定した際、公開質問状(YOSHIKIは受取を拒否)を送ったのも、小森陽一先生をはじめとする当時の東大大学院総合文化研究科を中心とする東大極左学閥であった。

 

 私たちは、この(YOSHIKIファンの)「動員」に主眼をおいた「式典」が戦争に(戦争をすることへ)向けて「国民精神」を準備するねらいを持っていると感じています。(中略)

 YOSHIKIさんも御存知のように、この年(一九三七年)蘆溝橋で中日両軍が衝突し、中日戦争が全面化し、日独伊防共協定が結ばれた後、日本軍は南京を占領する際、大虐殺を行っています。(中略)

 YOSHIKIさんは、このような「式典」で、なぜ「奉祝曲」を自ら作って演奏なさるのでしょうか。

(「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」をめぐる「YOSHIKIさんへの公開質問状」 東京大学教員有志、東京大学大学院総合文化研究科教授 石田英敬 小森陽一 代田智明 他、主旨賛同 東京大学大学院総合文化研究科助教授 高橋哲哉 他、一九九九年十一月十一日 より)

 

 YOSHIKIとファンを軍隊・兵士と見るこれらの言葉に、東大合格に向けて邁進する私の心は大いに傷ついたが、その傷でさえすぐに癒えたのは、まだまだこの東大学閥が私にとって遠い存在だったからである。東大入学当初から小森先生らの必修授業を受けることになって、ようやくこの一件を思い出したくらいであった。

 しかし次第に、東大左派陣営全体の行動の激烈化も目の当たりにするわけである。大江健三郎や小森先生が典型的だが、当時の東大の教養・文学部系学閥(大学院組織やOB含む)には、天皇制打倒論者、共産主義者はいくらでもいた。のちに「九条の会」で東大学閥と共に結集した京大系の梅原猛鶴見俊輔とも、まるでトーンが違った。

 ここに、「天皇」とは何か、「国民精神」とは何か、「神道」とは何か、といった問題が私の中に本格的に発生したのである。私は、小森先生の思想にも首肯しないが、小森先生が批判した国家主導の「国民精神」をも、確かに群衆道徳と見て抵抗するのである。

 ちなみに現在、YOSHIKIはただ黙々と、東日本大震災の被災地域をはじめ、世界中の苦しむ人々に莫大な額の寄付を続けている。東大の共産主義マルクス主義者たちとも、「国民精神」の主唱者である政府とも、やっていることが違う。

 当時、私の必修外国語(フランス語を選択)の先生は、大江健三郎と同じく東大仏文科出身の野崎歓先生(当時助教授。現在は早期退職・名誉教授)であった。野崎先生のフランス観・西洋文明観には当時から、ファッションとしての西洋・フランス(パリジャン、パリジェンヌ、シャンゼリゼシャンソンに対する日本人としての典型的な憧れ)を感じ取っていたが、野崎先生は、私の中退後、二〇〇八年に「『赤と黒』翻訳論争」といって、スタンダールの『赤と黒』の野崎先生の翻訳(誤訳)をめぐって大論争を巻き起こすこととなる。まず立命館大学文学部教授の下川茂が、野崎先生の誤訳は数百箇所にのぼると指摘し(下川茂 「『赤と黒』新訳について」 『スタンダール研究会会報』十八号)、他の文学者・作家・翻訳家らも誤訳を指摘したり様子見をしたりしていたが、光文社と野崎先生がその指摘を参考に黙って後追いで改訂し続けた、その学問・文芸に対する態度が、問題にさらに拍車をかけた。翻訳業界と海外文学ファンの間では、出版社と翻訳者の蜜月の悪いお手本として有名な話になってしまった。

 私は、この背後にも、東大の仏文科や総合文化研究科・教養学部陣営が持っていた無国籍的・進歩的左派思想に対して、京大や私立系の他大学の学者・文化人らが持っていた違和感があったと思う。これらの東大左派学閥には今でも、戦後民主主義の進歩思想の継承者として、大江健三郎村上春樹を賛美している先生方は多い。

 私が、言語学に手を出し、とりわけ日本の古典と言語的相対論に基づく人工言語学を自ら確立しようとして、岩崎式言語体系を考案し始めたのは、善くも悪くもこれらの文芸・語学の先生方への違和感からである。

 これまた個人的には、野崎先生ほか文芸・語学の先生方にも大変感謝している。一方では、自分も学問・芸術をやる以上は、東大内の学閥や東大と他大学の争いの構図というものも捉えられていなければならないと思って、自分なりに観察してきた。

 その後、私は仕事の関係で、野崎先生に原稿の執筆依頼を出す形で再会することとなる。これは、ほぼ東大人文系出身者で固められた私の上司・役員陣営が野崎先生を推薦したために、私に自動的に回ってきた実務であった。

 さて、東大入学後しばらくして、在学中の二〇〇一年八月二十二日、百年間続いた駒場寮が強制執行により廃寮となった。その光景を今でも覚えているが、大学側にも学生・寮生側にも与せず、どちらかというと廃寮を望んでいた私には、藤原定家の『明月記』の「紅旗征戎吾が事に非ず」の心境だったのである。私は、いわば自らの心境を藤原定家の言葉に仮託することで、左右どちらの勢力にも荷担しない姿勢を確認し、安心したのであった。

 一方、私がニーチェに活路を見出し、ドイツ語にも手を出すかと思っていた中、東大その他のニーチェ哲学陣営が右傾化し始めたのも、この頃である。ニーチェ学者らが盛んに賛同・介入した「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、つくる会)の教科書が登場したのも、私が東大に入った二〇〇一年である。

 西尾幹二小堀桂一郎西部邁佐伯啓思などの保守論客は、皆口裏合わせをしたかのようにニーチェ哲学を学んだ者たちである。その多くがつくる会に参加・関与し、教科書を執筆している。会の結成メンバーである初代会長・西尾幹二の師からして、ニーチェの名訳者、手塚富雄であるが、西尾幹二に見られる、ニーチェ主義を原理主義的保守と考える立場は全く見られない。

 芳賀徹などは、仏文系からつくる会に入り、監修者から理事の座をも占めたが、よくよく見ると、これまたニーチェの名訳者、竹山道雄に師事している。ただし、竹山は独仏両国に留学し、戦前の軍国主義と戦後の左翼思想の双方を同様に批判した。芳賀先生とは後年、野崎先生と同様に、やはり仕事の関係でお会いすることとなったが、私とは全く異なるニーチェの読み方をしており、また私は、芳賀先生の東洋史観・日本史観に接することで、つくる会の上層部が目指す日本国・日本史の性格を改めて目の当たりにしたのであった。

 芳賀先生はまだ穏健なほうであったが、それでも当時(二〇一〇年前後)の時点で、極端な親米(米国追従)主義に立つ一方で、脱欧化の主張を伴う摩訶不思議な国粋主義的発言が目立っており、私としては真正面から聞いていられなかった。「まあ、アメリカの言うことにはついていくしかないでしょう!」という言葉が今も私の耳に残っている。脱亜入欧ならぬ入米脱欧を説く摩訶不思議な親米保守思想は、つくる会のメンバーには珍しくない思想である。

 要するに、ニーチェを正しく読んだ先哲たちの弟子たちばかりが、つくる会側こそが、ニーチェを曲解・誤読しているのであった。つくる会の教科書は、自虐史観の是正以前に、基本的な間違いが多い上、ニーチェをはじめとする様々な独仏・大陸哲学に対する曲解を日本史へ適用し披露する場になっていて、恥ずかしい思いがした(今もする)ものである。

 つくる会はその実態として、日本の右翼というよりも、東大を中心とするニーチェや西洋哲学・学問の曲解・誤読学閥が組織したと言ったほうが、本当は正確だと思う。その曲解・誤読には、意図的に行っている場合と、本当に読み誤っている場合の、両方が混在しているようである。

 小森先生、野崎先生、芳賀先生をはじめ、お世話になった(思想の左右を問わぬ全ての)先生方に対する私の深い感謝の念と、先生方の思想や発言について私が抱いている感想とに、かなり隔たりがあることが多いことが、私自身の中でもかなり厄介であるが、それがまた面白くもある。

 曲解・誤読学閥に属さなかった、真のニーチェ学者、ドイツ文学者・哲学者たる東大の学者には、先の手塚富雄竹山道雄のほか、氷上英廣、秋山英夫、原佑、吉沢伝三郎などがいるが、属さなかったというより、その弟子たちが勝手に後からこの学閥を作ったのである。吉沢伝三郎以外はこの学閥の隆盛とつくる会の誕生を知らずに世を去ったことが、せめてもの救いと言うべきだろう。もちろん、岩波文庫から『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』の翻訳を出した東北(帝)大の木場深定や、ちくま学芸文庫ニーチェ全集の翻訳者たちも、真のニーチェ学者陣営のほうの学者である。

 これらの真のニーチェ学者たちは当然、私が生まれる少し前から高校を卒業する前後までに、次々と東大を退官し、この世を去っている。私が見た東大のニーチェ学閥は、全体が曲解・誤読学閥と化し、つくる会に関与・介入し始めてからである。

 こうして私は、どの先生からもニーチェや独仏哲学を学ぶことなく東大を去ったわけだが、この状況でよくも(正しく)東大のほうを見捨ててニーチェのほうを見捨てなかったものだと思う上、どうして東大中心の名だたる頭脳のほうがニーチェの狂気よりもおかしいと判断できたのか、このあたりに、どうやら私自身の哲学、日本論、文化・文明論などの一つの要諦があるのだと思う。要するに私は、私自身(後述する自然信仰的・汎神論的・多神論的「私」)を根拠としてニーチェと向き合うことだけは、この頃からできていたのだと思う。

 水島総らによる「日本文化チャンネル桜」の台頭とニーチェ哲学陣営らの参加も、この頃である。しかも信じられないことに、共産党系・共産主義新左翼の急先鋒だった知識人やネットユーザー・学生たちが、突然、日本だ、天皇だ、保守だと言い始めたので、驚いたものである。

 その走りと言えば、かつての西部邁藤岡信勝である。両名とも、つくる会の重鎮である。二〇一八年一月の西部邁の自殺(氏の自称は自裁死)のときには、水島総ほか保守論客らが西部邁を「実存主義者」だと称えた。私は、つくる会のメンバーのうち西部邁に対してだけはやや違う敬意を持って見ていたので、その死を悲しく思ったし、少しは涙も出たが、私からすると周囲の人間が安易に「実存主義」の語を用いすぎである。ただし、ニーチェが実は「哲学者」や「実存主義者」ではなく「哲人」・「反哲学者」や「実存引き受け者」であるとする私の文脈においては、西部邁は哲人ではなく「実存主義者」、つまりイデオロギーにとどまってしまった人であるとは思う。

 私の東大在学時代における、ニーチェ哲学陣営の(東大を中心とした)全国的な右傾化について、ナチズムがニーチェを利用したときの手法に似ているとまで言うのはやめて、ここでは少しだけ大袈裟に、「東大学閥」や「右翼学閥」という弱者・群衆道徳に自ら陥る学者が多かった、とだけ言っておこう。

 その頃の私のニーチェ論文は全て破棄したので、残っていない。共産主義者の先生に最初のニーチェ論文を提出し、まずいことをしたと気づいたときにはニーチェを誤読した右翼学閥に囲まれていた二十歳前後の若者の心境を、今まさに私自身が思いやるところである。しかし、本稿においてその頃の論文の内容の大部分が、私の記憶をもとに、新たな思想を加味しつつ蘇るであろう。

 無論、当時の論文も、東大の極左思想や伝統的な中道左派思想から、ニーチェを誤解したニーチェ学者らによる日本の伝統の捏造、極右思想までの全部に、違和感を表明するものであった。ただし、日本の古典の美に最も安堵を覚えるようになった私の性格もあって、もはや『新古今和歌集』の九条良経藤原家隆藤原定家らの日本的象徴美をたった一人で静かに愛する心が定まっていき、沈思黙考の日本精神・大和魂を目指すようになったのである。

 いずれにせよ、私は学生期と二十代を、思想の全く異なる先生や同窓生や仕事の上司とばかり関わるという皮肉な「強運」によって過ごしたのである。私はもし、一九八二年以外に生まれ、二〇〇一年以外に東大に入っていれば、中退しなかったかもしれない。だが私は、この年に母に産んでもらったことに感謝している。

 こうして私の場合、前述の死と葬式と大衆をめぐる問題を抱えつつも、ニーチェ的実存の意識的追究よりは、比較的早くから東洋的実存や日本的実存を直接模索するようになった。従って、後述する哲人たち(ニーチェ森鷗外夏目漱石、松原寛、清水先生、巫女たち)の少年少女期・学生期とは、共通点も多いが、全く異なる点もある。清水先生の十八番であるドストエフスキーには全く触れず、神道、仏教、神仏習合、巫女祭祀、日本庭園、和歌、雅楽、書、日本家屋を愛し、京都も旅した。

 ただし、西洋絵画のうち、象徴派絵画や唯美主義絵画や表現主義、とりわけベルギー象徴主義やロシア象徴主義には、大変慰められた。ウィリアム・アドルフ・ブーグロー、ローレンス・アルマ=タデマ、ジャン=レオン・ジェロームギュスターヴ・モローポール・デルヴォーオディロン・ルドン、レオン・スピリアールト、フェルナン・クノップフ、ジャン・デルヴィル、フランツ・フォン・シュトゥック、ヴァレンティン・セローフ、ミハイル・ヴルーベリ、ヴィクトール・ボリソフ=ムサトフ、ミハイル・ネステロフ、イサーク・レヴィタンなどは、私が好んできた画家である。それは私が、これらの絵画にニーチェへの親和性を見出しているからである。

 しかしながら、やや余っていた血気を利用して、中退後の数年間は、三島由紀夫、万場世志冶といった、天皇愛に死した男たちをも追っていた。

 「あなたはいつか、三島由紀夫のようになるでしょう」とは、私が二十三歳の頃に、私の曲を弾いてくれた一人の音大生、ヴァイオリニストの卵の女性が、私に対して述べた言葉である。その真意は、「あなたは三島由紀夫のように力強く天皇論を唱えることになるでしょう」ということではなく、「いつか死ぬのではないかと思える人の音楽を奏でるのは全く面白くない」ということであった。

 そのうち、その周囲のヴァイオリン奏者や管楽器奏者、作詞家、歌手の卵の女性たちの間でも、「岩崎さんは鬱病ではないか」、「そのうち死んでしまうのではないか」という噂が勝手に広まり、わざわざその心配を私に直接言ってきた女性までいる始末で、結局、うち何人かの女性と恋愛関係になりそうなところまで進みながら、誰とも恋愛関係にならなかった。それどころか、かなりはっきりとした失恋に終わっていった。

 一つ言えることは、私の危うさを察知したこの女性たちの発言と洞察力は極めて正しかったということである。同時に、私が煩悶している時期に出会う、ある種の女性たちは、私の死を(死なんとする具体的行為をではなく、思索に身がやられて痩せこける形式の死を)ぎりぎりのところで止める役割を担っていることを知った。この女性たちの一部は、研究所(IJAI)のスタッフとなった。

 しかし、全く不思議なことに、自分の実存の仕方について「日本的実存を呈している」などという言い方をするようになってからも、私は一度クリスチャン(カトリック)の女性(のいわば巫女)と交際している。あるいは逆に、全く交際したこともない統合失調症の女性が、インターネット上で一方的に、神の下における私との結婚宣言を行い(友人女性たちに宛てて投稿し)、症状から目覚めた女性とご家族に謝罪される事態も発生した。

 今思えば、これらの女性たちが私に対して果たした役割も、音楽系統の女性たちと全く同じで、簡単に言うと何度か私の死を防いでいる。これは、清水先生が失恋によって体重四十三キロとなっていたときに、結局は女性たちに助けられた経験の意義と合致すると思う。

 ある意味では、私を助けた女性たちも、本稿で挙げる神道の巫女たちに匹敵する巫女である。しばしば彼女たちも含めて「巫女」と書いてしまう所以は、そこにある。巫女は英語では「medium(媒介者、霊媒)」、要するに神々と交信する者である。一神教では、絶対者・超越者と交信する者である。先の統合失調症の女性についても、当時の私の苦悩を吸い取ったのだと本当に実感している。

 いくらニーチェの「生の哲学」に触れ、生きる意志と自然死(というより、今の日本では病院死、群衆道徳迎合死となるのが関の山で、真の自然死などあり得ないが)を決めていたところで、三島由紀夫のようになる恐れがあった男性だと理解された私は、八百万の神々や「究極の」絶対者を信じる女性の巫女性・聖母性の全てに助けられたわけである。

 最近は、神道儀式を担う本物の巫女たちと、東洋哲学・日本思想上の会話が非常に合うので、議論したり手紙・メールを交わしたり和歌を詠み合ったりして戯れ遊んでいるが、「絶対者の実在を信じることが人間の最大の強さだ」と私に言った、先のクリスチャン女性(巫女)を含むクリスチャンの知人女性たちの信仰と、何がどう同じで、違うのかについては、私の中で学究の対象となり続けてきた。先のクリスチャン女性に限れば、明らかに他の日本のカトリックの聖職者たちと違う絶対者を見ており、神道精神に通じるものがあった。

 改めて、巫女たちや今の私を支えているアニミズム神道、仏教の思想と同時に、それらの自然観とユダヤキリスト教の説く絶対真理との関係、そして一部のクリスチャン女性を含むこれらの女性の勘が見ている「究極的な」別の絶対者と、女性の勘(始原の力)について考えざるを得ない。

 私はこれらの女性たちに、第二の母を感じてきたと言ってよい。女性だけならいくらでもいるが、始原性と母性性と女性性の宇宙論的統合が成り立っているこのような巫女たちの存在は稀少である。今や私の中で、母の原理と女の原理を知ることは、宇宙・世界の原理を知ることと同義になっている。巫女たちと話していると、第二の母胎に入ったような気になることもある。

 私がこのような女性ばかりに出会う宿命の源流は、まさに第一の母、実母にあると思う。私の命を救った最大の存在が母であった。私の母は全くもって巫女体質であり、今私が交流している巫女たちの師になれる人である。昔から数日後に家の裏で亡くなるおばあさんを言い当てたり、枕元に子供が来たり、母が行ってはいけないといった雪道で交通事故が起きたり、数日後の地震を言い当てたりする。今や哲人を自称している私のほうが、母から雲や風の成り行きの観察と鋭敏な直覚による地震予知の報告を受けるたびに、気象庁のウェブサイトに注目し、科学的結果(実際の地震の発生と画面表示)を待機している有様である。

 これを非科学的と言う人は、その発言のほうが非科学的で、そもそも対象の人間や物質に聴診器や顕微鏡を使わずに、自らの体調の変化や変性意識(脳と身体のはたらきの変化)だけで外界を我が事として分かる科学を「霊感」や「神託」と呼ぶのである。「霊感」や「神託」の第一の名前が「母性」である。原始的霊感は純粋経験的直覚の最新科学である。それを担うのが巫女たちである。

 その意味では、私はニーチェや松原寛に似て、母という存在を支柱にして、実にいろいろな女性に出会い、女性たちに囲まれて生きているのであった。私は、母なるもの、巫女的なるものを、哲学や宗教や芸術の言葉で記録すべく産まれてきたと思う。

大学中退後、ずっと動向を追っていた哲学者の須原一秀が、「一つの哲学的プロジェクト」という名目で、二〇〇六年に神社で自死したのだが、この頃になると私は、神道や仏教に基盤を置きつつも、三島由紀夫などの自決の志士たちからは離れた日本的実存を呈するようになっていたので、ほとんど動じなかった。須原一秀は著書『自死という生き方』で、三島由紀夫伊丹十三ソクラテス、自分自身の能動的で快活な自死を群衆に「平常心」で解説・説得する形をとった。

 その後二〇一八年に、前述の通り西部邁自死したが、この時にももはや動じなかった。もちろん、三島由紀夫の場合、その人生の終盤には、「絶対者」という語を、キリスト教の神に対してだけでなく、天皇に対しても盛んに用いていた点が、他の自決者と一線を画する特徴であるが。

 私が注目し、動向を追っている哲学者、学識者や芸術家、文化人の男たちがなぜか順番に自死していく現実には、もう慣れた。私は今でも、これらの男たちの死生観を、群衆道徳で形成された国民の死生観よりはずっと評価しているが、彼らを超人思想の体現者などとは思わなくなったのである。ニーチェの生き証人と呼べる哲人など、戦後日本には元からいないのかもしれない。

 いずれにせよ私は、少年期から二十代におけるニーチェと女性たち(巫女的なるもの)との出会いの体験を通じて、嬉しくも哀しくも、絶対と相対の決闘に放り込まれることとなったのである。そして五年前に、松原寛との出会いが加わった。

 私の自我の苦闘体験が、ニーチェや松原寛、そして今回取り上げた(ニーチェを読んで自らの神道に生かしている)巫女たちのそれらに及ぶとは到底思わないが、あまりに深い関連性を有しているので、記しておいたのである。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                        発行所:【Д文学研究会】

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