「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載8)

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清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載8)

【10】

 「表現する情熱」と「知りたいという情熱」はイコールで結び付けられると思う。なぜ文学を改めて自分流に表現(批評)するのかと言えば、それは新しい読み方を見つけたいという野心や情熱からくるものであろう。それを証拠に、展示資料には当時ドストエフスキーといえば小林秀雄であった時代に「小林秀雄をいかに乗り越えるか。それが当時の課題であった。」と書いてある。なぜ乗り越えるのかと言えば、それは小林氏に勝ちたいからという理由ではないだろう。「もっと先へ進みたい=もっと(ドストエフスキーを)知りたい」という希望のために彼は小林氏を乗り越える必要があったのだ。 全ての出来事は先人を乗り越えることで積み重なっていくと考えることができる。乗り越えることができなかった時にそれは衰退の一途を辿ってしまう。例えばチェンカイコーの映画に「花の生涯」というものがあるが、あれに出てくる京劇俳優がもし師匠に勝っていなかったら京劇は衰退していたであろう。であるから次の世代がまた清水正氏を乗り越えなければならないわけである。

【11】

 清水先生曰く「書かなければならない作家に出会った、それだけのことである」表現するという途方も無く何の保証されることのない情熱の出所を定義するのであれば、清水先生の場合は、作品と作家の魅力ということになると思う。自分は、他の作品に触発されて表現する情熱を掻き立てられることはある。同時に表現の影響を受けることもある。しかしながら、表現する情熱は全く違う所から発出しているように思う。そして私が考えた「表現する情熱はどこからくるのか」という問いに対する答えは、「残したい」という感情だと思う。一種の保存装置を作ることである。特に私が専攻している写真というものはそのような記録的役割を強く持っている。以上のように私は私的な内部を外部化することが表現する情熱の発出場所だと考えた。また、清水先生のお話を伺って、表現とは内部のものを「外部」に普遍化することをゴールしているのではと思った。表現する情熱を機械のエネルギーとするならば、マシーンは自分、道は作品だなぁと思ったりもした。

 

21日のズームによる特別講義

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清水正ドストエフスキー論全集 第1巻~第11巻

 

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