清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載14) 再び小林秀雄の「『罪と罰』についてⅡ」へ ──小林秀雄流レトリックについて──(1)〈」江古田文学107号より再録
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ソーニャの部屋
──リザヴェータを巡って──(連載14)
──小林秀雄流レトリックについて──(1)
この論は、まずは小林秀雄の「『罪と罰』についてII」のある箇所から始まった。ソーニャがロジオンに請われて〈ラザロの復活〉を朗読する場面に関しての小林秀雄の言説である。先に引用した箇所をご覧いただきたい。
小林秀雄の文章は立ち止まって考えるといったい何を言っているのかさっぱり分からない。〈読者の通俗なお人よし〉が分からない。〈作者の説教〉が分からない。〈評家の通俗な人の悪さ〉が分からない。〈作者の恐ろしい皮肉〉が分からない。従って〈説教、皮肉、そんなものは幻である〉と書かれても、何を言っているのかさっぱり分からない。小林秀雄の文章は分かったような気持ちにさせるが、立ち止まって検証のまなざしを向けるとたちまち曖昧なレトリックと化してしまう。小林はこういった曖昧な言葉で、自分を通俗なお人よしの読者でもないし、通俗な人の悪い評家でもないのだと言いたいのだろうか。ずいぶんと自分を高見に置いた言い方にみえる。小林が自分の書いている文章に説得力を持たせたいのであれば、まずは〈通俗なお人よし〉ぶりを発揮している〈読者〉を、〈通俗な人の悪さ〉を発揮している〈評家〉を明確に示すべきであろう。彼らの名前や、彼らが発表した感想なり論文なりを明示しなければ、小林の読者は小林の言っていることを具体的に検証することができない。
小林は臆面もなく〈説教、皮肉、そんなものは幻である〉と書くが、この言説そのものが根拠のない〈幻〉ということになる。小林の批評に惹かれる読者は、この〈幻〉に幻惑されているのではないかと思うほどである。出典を示さず、根拠を示さず、高見に立って独断的に裁断する批評の〈説得力〉など〈幻〉に過ぎない。小林が自らの批評の〈幻〉性にどこまで自覚的であったかは分からない。しかし、この〈幻〉に説得力を付与するために、小林が彼流のレトリックを駆使したことは確かである。小林流のレトリックに酔いしれる読者は、教祖の言葉に魅了される信者と同じで、そのレトリックの内実に迫ろうともしないし、その根拠を問おうともしない。
小林秀雄はロジオンの殺人に触れて「読者は、凶行の明らかな動機も目的も明かされてはいない。そんなものが一体必要か。そんなことはどうでもいい事ではないか。よくなくっても後の祭りだ。殺されて了ったのではないか。現に私はこの眼で見た。そうだ、見る事が必要なのである。だが、評家は考えてしまう」(119)と書いている。これもまた典型的な小林流レトリックである。小林は「見る事が必要だ」と強調し、「考えてしまう」者など評家失格で、作品の本質に迫ることなどはなから不可能だと断言しているような物言いである。小林流レトリックにはベルグソンの本質直観の思想が色濃く反映している。対象の本質を把捉するためには、いくら視点を増やして解釈してもだめで、直観によるほかはないというのがベルグソンの考えであるが、小林の〈批評〉(見る事)はこの〈考え〉(直観)を忠実に受け継いでいるということである。
さて、小林は「現に私はこの眼で見た」と書いているが、いったい何を見たというのか。小林が自分の眼で見たものを具体的に書いてもらうのでなければ、彼の言うことは分からない。小林の見たものが作者の描いた殺人現場であるなら、読者は作品を読めばいいので、べつに評家の言説など必要としない。小林は「だが、評家は考えてしまう」と書いて、評家が〈考える〉ことを否定するかのような物言いをしている。作品批評はもちろんテキストを徹底的に見る必要があるが、この〈見る〉ことと〈考える〉こととは別のことではあるまい。テキストの森に踏み込むためには様々の方法を駆使する必要がある。その謂わば考古学的な発掘作業を遂行することで、テキストが全く新しい光景を浮上させることがある。小林は見ずに考える評家を明示していないので、彼らの書いた批評を具体的に検証することはできない。また小林自身も自分が見たものを明示していないので、そもそも議論にならない。
清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。
「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年に寄せて」展示会が9月1日より日大芸術学部芸術資料館に於いて開催されています。
展示会場の模様を紹介していきます。
※学生の入構制限中は、学外者の方の御来場について制限がございます。
詳細のお問い合わせにつきましては、必ず下記のメールアドレスにまでご連絡ください。
yamashita.kiyomi@nihon-u.ac.jp ソコロワ山下聖美(主催代表)
目次内容は
はじめに──二〇二一年〈清水正の宇宙〉の旅へ──
ソコロワ山下聖美(日大芸術学部文芸学科主任教授)
停止した分裂者の肖像──清水正先生の批評について──
上田薫(日大芸術学部文芸学科教授)
動物で読み解く『罪と罰』の深層「江古田文学」101号から再録
清水正・著作目録
※購読希望者は文芸学科研究室にお問い合わせください。
「清水正・批評の軌跡」web版(伊藤景・作成)を観ることができます。清水正•批評の軌跡web版 - 著作を辿る
「林芙美子に関する著作」10冊と監修した「林芙美子の芸術」「世界の中の林芙美子」
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六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました。
会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)
会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)
※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。
九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて『清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。
下記の動画は2016年の四月、三か月の入院から退院した直後の「文芸批評論」の最初の講義です。『罪と罰』と日大芸術学部創設者松原寛先生について熱く語っています。帯状疱疹後神経痛に襲われながらの授業ですが、久しぶりに見たら、意外に元気そうなので自分でも驚いている。今は一日の大半を床に伏して動画を見たり、本を読んだりの生活で、アッという間に時が過ぎていく。大学も依然として対面授業ができず、学生諸君と話す機会がまったくない。日芸の学生はぜひこの動画を見てほしい。日芸創設者松原寛先生の情熱も感じ取ってほしい。
https://www.youtube.com/watch?v=awckHubHDWs
ドストエフスキー生誕200周年記念お勧め動画。
まだ元気な頃の講義です。
ジョバンニの母親は死んでいる、イリューシャ少年はフョードルの子供、など大胆な新説を開陳しています。ぜひご覧ください。
銀河鉄道の夜&カラマーゾフの兄弟 清水正チャンネル - YouTube
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新刊書紹介
清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅 松原寛&ドストエフスキー』
『清水正・ドストエフスキー論全集』第11巻(D文学研究会)A5判上製・501頁。
購読希望者はメールshimizumasashi20@gmail.comで申し込むか、書店でお求めください。メールで申し込む場合は希望図書名・〒番号・住所・名前・電話番号を書いてください。送料と税は発行元が負担します。指定した振込銀行への振り込み連絡があり次第お送りします。
下記の動画は日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。 これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk