水曜日は大学院の授業。本日も車内と江古田の喫茶店で原稿執筆。
地下室の手記』について書き進めている。四十年前この作品について引用だらけの批評を書いたが、この作品は引用したくなるような叙述場面に満ちている。下司、卑劣、ろくでなし、醜悪な輩である地下男と娼婦リーザの関係に執拗に照明を与えている。源氏物語で読むドストエフスキーというテーマで書いているので、地下男とリーザのセックス、その描かれざる性愛場面に注目している。ちなみに地下男はリーザと二回ほどセックスをしている。





清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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鷹尾俊一の『ピエタ』へ向かって

 

小山田二郎の『ピエタ
今年2014年は小山田二郎の生誕百年にあたる。小山田二郎と言えば『ピエタ』である。わたしは1968年1月、多磨霊園裏の小山田家のアトリエで『ピエタ』に出会った。小山田二郎の妻で画家である小山田チカエに招待されたその席で出会った。当時、小山田二郎は妻子を捨てて若い女と失踪中であり、チカエは必死になって夫二郎の隠れ家を探索していた。わたしはチカエに案内されて、二郎と生活を共にした高円寺のアパートを訪ねた。取り壊し中のアパートにすでに窓はなく、がらんどうの部屋は寒々としていた。チカエは「あの壁に二郎は絵を描いていたの」と言った。よく見れば、無数のひっかき傷のような模様が刻まれていた。庭に井戸水を汲むポンプが壊されずにあった。「ここでマリアのおしめを洗ったりした」チカエは新婚当時の貧乏暮らしの一端を懐かしそうに語った。チカエにとって二郎は永遠の伴侶であった。どんなに貧乏しても、キャンバス代わりの壁があり、絵描きとしての夢があった。二人は初めて授かった子供に魔理亞という名前をつけた。
 わたしは高い天井のアトリエに飾られた『ピエタ』の前に釘付けになった。とつぜん地震が襲った。魂の震えと地震の揺れが呼応した。わたしにはよくあることだ。後にわたしは小山田二郎の画集を入手し、『ピエタ』について書いた。(「小山田二郎の『ピエタ』を参照)

 二郎の『ピエタ』は、たとえばミケランジェロの『ピエタ』とは受ける印象がまったく異なる。後者のマリアに呪詛はなく、驚くほどの平静な悲しみが漂っている。わが子イエスの死をこれほど安らかに受け入れられる母の偉大な寛容と信仰の深さを読みとればいいのだろうか。大きく開いた両足で支えられたイエスの痩せた体は、まさに子供のように華奢である。この体からは六時間におよぶ十字架上の苦悶を伺うことはできない。イエスは死体というよりは、深い眠りの中にある子供のようにさえ見える。マリアのたくましい脚と両腕に支えられたイエスに、三日後に復活する神秘を湛えた肉体を感じることはできない。マリアの憂いを含んだ悲しみの顔は、悲嘆と苦悶をうち深くに押さえ込んでいるとも思えない。安らかに眠る我が子を慈しむような眼差しを下方へ向けている。
 小山田二郎ピエタ』のマリアの両目は大きく見開かれ、天空へ向けられている。この眼差しの彼方に神の存在を予想することはできない。この両目は虚空を見つめ、呪詛と憤怒に充ちている。平たい頭部の両端からピラミッド状に広がった黒いマントは激しい魂の戦慄を堅く押さえ込んで固まっている。抱え込んだわが子イエスは石膏で固めた死体そのものである。頭部は白骨化し、復活を微塵も予想させない。この硬直化した肉体は、魂を抜かれた硬直した死体(物体)として反り返っている。物質としての重量感は伝わってくるが、魂の浮揚感は伝わってこない。
 ミケランジェロの『ピエタ』において、イエスの体はマリアの両脚に支えられ、上半身は右腕に抱え込まれて、眠り(死)から覚醒(復活)を予想させるポーズとなっている。復活を内在させたイエスの体は死体というよりは、一時の眠りに入った生ける肉体としてマリアの両腕に抱かれている。憂い顔のマリアはわが子の復活を確信した魂の安らぎの中にある。

 小山田二郎のマリアからは救いようのない憤怒と悲嘆の叫びが発せられている。この終焉を拒まれた慟哭こそが、わが子に向けられた愛の唯一の証であるかのように、マリアは呪詛と憤怒のただ中にとどまっている。
ミケランジェロの『ピエタ』には、謂わばアポロン的な整合性が感じられる。ニーチェの言う、ディオニュソスを内部に湛えたアポロンではなく、文字通り、調和のとれたアポロンであり、この整ったマリア像からは、慟哭、叫び、苦悶の震えが伝わってこない。マリアはわが子を失った母の悲しみを体現していない。このマリアはまるでキリストの若き花嫁のような初々しさを保っている。その憂いを含んだ顔には、苦悶と嘆きの皺が刻まれていない。予定調和的な信仰と祈りの姿がアポロン的な像として現れているだけで、不信と懐疑の淵から沸き上がる苦悶と悲嘆はまったく見られない。

ドストエフスキーが『白痴』で描く、ハンス・ホルバイン作『死せるキリスト』に対する衝撃の告白を聞いた後では、ミケランジェロの『ピエタ』は余りにもきれいすぎる。第一、イエスの死体そのものが〈死体〉としてのリアリティを持っていない。この死体からは六時間の十字架上の苦しみに耐え抜いたイエスの苦悶が微塵も伝わってこない。手足に打たれた釘跡、両胸脇に差し込まれた槍の傷もない。苦痛、恐怖をまったく刻印していない、深い眠りに陥った、脱力した肉体そのものである。この『ピエタ』のイエスに、復活を確信させる死を感じることはない。換言すれば、〈死〉も〈復活〉も絵空事であり、ズシンと響いて来るものがない。予定調和的できれいで穏やかなのだ。
このアポロン的な調和こそが最高美の体現なのだと思うひとにとっては、ドストエフスキーが衝撃を受けたハンス・ホルバイン作の『死せるキリスト』や小山田二郎の『ピエタ』は余りにもその美の概念から逸脱したもの、グロテスクで醜悪なものと映るかもしれない。
 
 余命いくばくもないイッポリート少年は問う「キリストのすべての弟子や、未来のおもだった使徒たちが見たとしたら、こんな死体を眼の前にしながら、どうしてこの受難者が復活するなどと、信じることができたろうか?」「もし死というものがこんなにも恐ろしく、また自然の法則がこんなにも強いものならば、どうしてそれに打ちかつことができるだろう」と。なぜ、ホルバインの『死せるキリスト』を前にしたドストエフスキーてんかんの発作に襲われそうになり、イッポリート少年はこういった疑問を抱くのか。それは彼らがキリストの死と復活を、その場に立ち会った者以上にリアルに深く考え続けていたからにほかならない。
 イエスは人間なのか、神の子なのか。後者なら、なぜイエスは十字架上で、みんなが見ている前で自らの死を免れる奇蹟を起こさなかったのか。生きているうちには、死んで四日も経ったラザロを、「ラザロよ、出よ」の一言で蘇らす奇蹟を起こしたイエスが、今は十字架から下ろされ、その顔は「鞭の打擲でおそろしく打ちくだかれ、ものすごい血みどろな青痣でふくれがり、眼を見開いたままで、瞳はやぶにらみになっている。その大きく開かれた白眼はなんだか死人らしい、ガラス玉のような光を放って」いる。
 そこにあるのは神の子の死体、三日後の復活を約束された神々しい死体ではない。まさに神に対する自然の勝利を明かす、醜悪で恐ろしい人間の死体なのである。神の存在に関してドストエフスキーは生涯を通して苦しんだ。神は存在するのか、しないのか。フョードル・カラマーゾフは二人の息子を前にしてこの問を発した。イヴァンは神は存在しないと断言し、アリョーシャは神は存在すると答える。フョードルはイヴァンの考えを肯定するが、アリョーシャを「モイ アンゲル=Мой Ангел」(わたしの天使)と呼んでいる。ドストエフスキーは死ぬまでドミートリイの言う「神と悪魔が永遠に決着のつかぬ戦いをしている」、その広大無辺の内的世界をのたうち回って創造を続けた作家であった。もしドストエフスキーキリスト教信者と言うなら、彼はベルジャーエフの言うように、それまでのキリスト教を計り知れぬほど深く掘り下げた信者なのだ。
小山田二郎の『ピエタ』はドストエフスキー文学の洗礼を浴びている。死せるキリストの頭は明確に白骨化している。これは復活の拒否、神に対する自然の法則の勝利を宣言している。問題はキリストのセメントで固めたような胴体部である。ここにはソーニャらしき女性も埋め込まれている。死せるキリストにソーニャが内在しているとすれば、この明らかに白骨化した死体も、復活の可能性を残している。
 わたしは『罪と罰』に登場する、一家の犠牲となって淫売婦に身を堕したソーニャを、十九世紀ロシアの首都ペテルブルクに降臨したキリストだと思っている。二人の女を斧で殺害したラスコーリニコフは、シベリアに流刑された後でも、自らの〈преступление=踏み越え=殺人〉に〈грех=罪〉の意識を感じることはできなかった。が、この殺人者に作者ドストエフスキーは復活の曙光に輝く場面を与えた。
 イルティシュ川を眼前に、丸太に腰掛けたラスコーリニコフの前に緑色のスカーフを被ったソーニャが現れる。緑色は聖なる者の証である。ソーニャはこの時、実体感のある〈幻〉(видение)として現れている。
 キリストと言えば、金髪、痩身、白人の男というイメージが強い。キリストは黒髪、縮れ毛、デブ、丸顔、黒人、黄色人であってはならない。人間の罪と苦悩を一身に背負って十字架上で息を引き取ったイエス・キリストの顔や身体は苦悩、苦悶、悲痛を体現していなければならない。大口を開けて笑ったり、食べたりしてはならないし、糞便やセックスもしてはならない聖なる男性としてイメージされている。
 ところで、鷹尾俊一の『横たわる像』を『ピエタ』像のイメージに重ねて観ると、この像は胸部の膨らみから女性的であるように見えるが、同時に十字架上から下ろされたキリストのようにも見える。小山田二郎の『ピエタ』において死せるキリストの胸腹部に埋め込まれていた女性(ソーニャ)が、鷹尾俊一の像においては、明確に全身体に顕現している。
 はっきり言おう。鷹尾俊一の『横たわる像』は死せるキリストであり、同時にその死体を抱き抱える聖母マリアでもあるのだ。
 絵画史上、彫刻史上、聖母マリアと死せるキリストを一体化して顕現させた作品はないだろう。『横たわる像』に死せるキリストとなって横たわることができる。聖母マリアとなって死せるキリストを抱きかかえることができる。このマリア・キリスト一体像を背後から抱きかかえることもできる。鷹尾俊一の『横たわる像』には畏るべき秘儀の深淵が横たわっている。

参照
小山田二郎の『ピエタ
 三月三十日、小山田二郎の画集を買った。帰り、私は電車の中で、印刷された白黒の『ピエタ』をむさぼるように見た。するとどうだろう。そこには、実に多くの人間の顔が隠されていたのである。私は正直いって驚いた。白骨のように描かれた死んだキリスト、その頭部近く接吻するかのような若い女の顔、しかもそれがゴリラのような女の顔と重なり、また見ようによってはソーニャのごとき、実に静かな白痴のような女とも重なり合っている。キリストの顔の中にも二、三の男の顔がうめこまれているかのようだ。キリストの胸部、腹部にも顔が描かれ、死んだキリストを抱きかかえている“ある者”(聖母)のふところには、明らかに浮かびあがってくる人物が四人ほど描かれ、けずりとられている。何故、これほどの人物が(主に顔貌であるが)を描き、それをけずりとるようにして秘め隠したのか。しかも画布の右上、左上にも人物の鋭い眼が描かれ隠されているのである。私がはじめてこの本物の『ピエタ』を見たときに感じた迫力、その秘密がこんなところにあっのだろうか。
 『ピエタ』の死んだキリスト、これは、ドストエフスキーがハンス・ホルバインの描いたキリストを見て、てんかんを起こしたという、その画をはるかに凌ぐ迫力と絶望の力をもってぃる。キリストをかかえている、男とも女ともつかぬ黒衣の人物、その顔は、悲嘆、恐怖、憤怒、絶望、呪詛‥‥‥どの言葉をもってしてもいいつくすことのできない表情で描かれている。その眼は何を見ているのか。何かを見ているようで、何も見てはいない。天空に向けられたいわく言いがたい眼である。要するに『ピエタ』に明確に描かれた二人の人物(聖母とキリスト)は、それ(画)を見る者を決して見てはいない。だがこの画を見ていると背筋がぞっとするような、あやしげな薄気味の悪い迫力で見詰められるような触感を覚えるのだ。その秘密は、この画にぬりこめられた種々な面貌を持った人物の眼が、きッと、こちら側を見すえるからなのだ。しかし、この徹底してうすら寒い、不気味な画の中にも、愛はあったのだ。それは死んで硬直し白骨化したキリストに接吻する女性のふくよかな、正面図として見ると泣いているような女性によって表現されているのである。
 小山田二郎はこの『ピエタ』によって、人間の究極的な場面における運命そのものを描いている。そこには、愛、呪い、死、叫び、驚き、それらを全部包みこんで、そういった人間のどうすることもできない運命そのものを表出しているのである。この画は小山田二郎の最高傑作といっていいのだと思う。ここには彼の世界観、宇宙観といったものが、多くの謎と秘密を隠しながらも、痛ましく、救いがたく、叫びのごとく、呪詛のごとく、誰も立ち入ることのできない厚い壁でさえぎりながらも、透明なガラス箱に封じ込めているのである。芸術家は、ニーチェのごとく誤解よりも正解をおそれるというであろう。小山田二郎の『ピエタ』を正解するということは慄きに近いものがある。
 私がこの画を見た瞬間思ったことは、この画はドストエフスキーを熟読し、その世界を突き抜けた者にしか描き得ないということであった。この画を描いた小山田二郎に強いた、このおそるべき緊張、その狂気じみた、人間の運命に関する呪詛、愛、これはいったい何であったのだろう。この画を前にした者、少なくとも芸術を理解できる者は、彼のその極度の緊張と対抗できるだけの精神的(霊的)エネルギーを発散しなければならないのである。すばらしい芸術作品は、それを見る者を決して無傷のままにしておくことはない。この『ピエタ』から発する得体の知れないエネルギーは、この画を見る者のすべてに襲いかかり、とり憑き、まとわりつき、一瞬も休ませてはおかないのである。おそらく、そのエネルギーは、作者小山田二郎自身に向けて最も強く発し続けているだろう。それを自覚しているのも小山田二郎であり、それに生涯対抗していかなければならないのも小山田二郎であり、そこから一刻も早く逃亡を企ろうとしたのも小山田二郎であろう。残念ながら、私は彼の代表作は『ピエタ』しか見てはいない、彼が当時(高円寺時代)描いた『ピエタ』前後の創作群を見れば、彼が当時、何を創造しようとしたかを、もっと的確に看ることは可能であろう。今は、まだその時がきてはいない。
 
 右記の文章を書き終えてから、数日たったある日、私は小山田二郎の『ピエタ』に近似した構図の画を発見した。ひとつは、キリスト教大事典(教文館発行)の図版編に収められているアヴィニョンピエタ(板絵・一四五○ー一四六〇・ルーヴル博物館)であり、もうひとつは大系世界の美術13・ルネッサンス美術(学研発行)に収められているボッティチェルリの《ピエタ》である。しかし構図は似ていても、小山田二郎の描く『ピエタ』から受ける衝撃は、それら二つの《ピエタ》とは全く異質なのである。小山田二郎の『ピエタ』は、死せるキリストをピラミッド(墓)型の聖母のふところに封じ込め、そこにぬりこめられた秘密を解く者、あばく者を、呪い殺すかのような不気味な迫力をもっているのである。周知のように、ドストエフスキーはホルバインのピエタから受けた衝撃を『白痴』のイッポリートやムイシュキンに託して語っている。だが、小山田二郎の『ピエタ』を見てしまった私は、彼の『ピエタ』こそ問題にしなければならない。信仰、キリストの復活、愛‥‥それらの問題を、私は小山田二郎の、硬直し白骨化したキリストを前にして考えていかなければならないのだ。『ピエタ』に厳然たる“死の世界”を見てしまったからには。
 小山田二郎の『ピエタ』は、死せるキリストを巨大なピラミッドの内部に封じ込め、一瞬のうちに氷結させてしまったかのようだ。永生も復活も信仰も、そこでは徹底的に拒絶され、愚弄されているかのようだ。それは神に対する、芸術家の大胆な挑戦とも受けとれる。全身全霊をもって彼は問う。神よ、この硬直し氷結したキリストが復活するのか、と。ここにあるのは、誰も逃れることのできない厳然たる死があるのみではないか、と。小山田二郎は、この“死”こそ永遠であり永生であると主張しているかのようだ。ーー。死せるキリストに寄り添い接吻する女性の愛、その愛の力が、この巨大なピラミッドを瓦解させ、氷結したキリストを蘇生させることができるのだろうか。
 小山田二郎は『ピエタ』に、自分自身の運命をこそきざみこんだのかもしれない。『ピエタ』が作者自身の自画像のごとく感じられるのは、はたして私だけであろうか。生きながらにして、美に殉死したキリスト、それが小山田二郎であるような気がするのである。
 (「ドストエフスキー狂想曲」第Ⅵ号。1978年6月30日。清水正小山田二郎の『ピエタ』」より)