清水正の『浮雲』放浪記(連載186)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載186)
平成A年8月11日

  「どつか體でも惡いのですか。」
  此仕立屋に同じ間借りをしてゐる、印刷工の松田さんが、遠慮なく障子を開けてはいつて來る。
  脊丈けが十五六の子供のやうに、ひくゝて、髪を肩まで長くして、私の一等厭なところをおし気もなく持つてゐる男だった。
  天井を向いて考へてゐた私は、クルリと脊をむけると蒲團を被つてしまつた。
  此人は有難い程深切者である。
  だが會つてゐると、陰鬱なほど不快になつて來る人だ。(59〜60)

 これは新鋭文學叢書・改造社版『放浪記』からの引用である(以降、『放浪記』からの引用は特に断らない限りこの初版本よ拠る)。
 印刷工の松田は優しい思いやりのある男だ。しかし芙美子はこの男にどうしても好意を持つことができない。会っていると陰鬱なほど不快になってくるというのだから、どうしようもない。ゆき子が一途でまじめな加野久次郎に肉体的な次元で何ら魅力を感じなかったように、松田もまた芙美子にとっては雄としての魅力に欠けていた。男と女は不思議なものだ。一方が激しく切なく求めても、他方はそのことに嫌悪さえ抱いてしまう。ゆき子は伊庭と三年間、秘密の関係を結んでいたにも拘わらず、伊庭との性的相性は富岡と比べるとはるかに良くない。伊庭との性的関係は駆け引き、取り引きの次元を一歩も抜け出ることはなかった。
 ゆき子は伊庭に対して心と体が一致して感応しない。ゆき子は伊庭に対して皮肉な嘲笑的な眼差しを一貫して注いでいる。伊庭は、ゆき子の軆を金で支配できても、その心までわがものとすることはできない。おそらくそんなことはよく分かっていて、伊庭はゆき子に接している。生温き男・伊庭のニヒリズムは、ゆき子に熱さも冷たさも求めない。さらに伊庭は、生温き女・ゆき子に義理と人情の次元での関係すら求めていない。伊庭のニヒリズムは本人の自覚からも解放されているので、何びとによっても捕獲されることがない。伊庭は十分に元気よく、金儲けの宗教ビジネスに没頭できる俗人のニヒリストで、自らのニヒリズムを理論化してみせる知的虚勢からも解放されている。こういったビジネスマンとしては、富岡兼吾よりはるかに成功して、金と権力を掌握した伊庭に男としての魅力を感じる女は少なくないだろう。しかし、伊庭はそんな女たちよりも、彼に皮肉な侮蔑的な眼差しを送り続けるゆき子に牽かれている。ここにもまた男と女の不思議がある。
 「女って。お金をかけてくれる人がなくちゃ、きれいにはならないもんなのね」とは先に引用したゆき子のセリフだ。ゆき子のセリフは俗な男をたぶらかすには十分な効力を発揮している。今、ゆき子に金をかけられるのは伊庭しかいない。ゆき子は伊庭の虚栄とプライドをそっけないセリフで巧みにくすぐっている。伊庭は脂さがってにやにやし、耳垢などをほじっている。ゆき子は、この俗な男の〈にやにや〉に冷徹な眼差しを送っているが、伊庭にとってはそんなことはどうでもいい。伊庭にしてみれば、冷酷で皮肉な女が、追いつめられて彼に媚びを売らなければならない、それだけで十分に気持ちがいいのである。
 そして、そんな二人の場に登場するのが大津しもである。しもは、この作品の中で実に寡黙である。余計なことはいっさい口にない。しかも作者はしもの内部にいっさい立ち入らない。しもが登場したのは、教主の法話が始まるということで、伊庭を呼びに来たのである。大日向教の経営者側に位置を占めようという思いで修行に励んでいるしもにとっては、伊庭とゆき子の、男と女の次元での関係など興味の外にある。が、外にあるからこそ、しもは二人の関係が打算でしか成り立っていないことを直観的に看破している。生温き男と女の打算で成立した関係のなんと味気ないことか。

  ゆき子も伊庭について広間へ行くと、三十人ばかりの男女の信者が部屋のぐるりに立って、教主と教師を迎えていた。ここだけ新しくつけ足したものと見えて、二十畳敷ぐらいの板の広間は、木の香も新しく、三面の祭壇には、紫の幕が絞ってあった。幕の後には、三日月型の鏡が光っている。
  その前に、教主の成宗専造が、中国風な腰高の椅子に腰をおろした。法服のような黒い服を着ている。胸に金色の三日月と日向草を組み合わせた紋章を刻んだバッヂをつけていた。(343〜344)