清水正の『浮雲』放浪記(連載189)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載189)
平成A年8月26日

 猫にマタタビ、ゆき子にとって富岡がマタタビであれば、もはや二人の関係に理屈を差し挟むことはできない。富岡にとってゆき子は結果として宿命の女ではあっても、べつに惚れていたわけではない。ゆき子は、ダラットでの女であって、日本に引揚げてまで関係を続けるような女ではなかった。ゆき子が追わなければ、その時点で終わっていた関係であった。富岡はゆき子よりもおせいに愛着を感じ、おせいが殺されてからも、おせいの未練を断ち切れないでいた。ゆき子は、伊庭の妾になってすら富岡を忘れることはできない。今まで執拗に見てきたように、伊庭は富岡よりもはるかに事業能力もあり、それなりの人情もあるが、ゆき子の富岡への思いを断ち切らせるだけの決定的な要素に欠けていた。その要素が富岡の〈体臭〉であるなら、もはや伊庭に打つ手はない。動物的、生理的次元での要素を後天的に獲得するわけにはいかない。
 ゆき子は、大日向教の金庫から六十万円の金を盗んで、伊庭のもとを去る。ゆき子は、長岡の旅館から富岡に電報を打つ。ゆき子は、ここでも持ち前の執拗さを発揮する。富岡はゆき子が待つ部屋に、怒ったような顔で入ってくるなり「来なければ死ぬなんて電報は、非常識だね」と言う。富岡はゆき子に対して冷酷な態度をとりきれず、結局は彼女の甘えた脅迫に屈してしまう。作者は冷静に富岡の心理を描いてみせる「富岡は、ゆき子との、こうした長い交渉を宿命のようにも思うのだった。おせいも、邦子も死んだ。ただ、この女だけが、生き残っている。それも、逞しいファイトを持って生きているのだと思うと、今度は、自分のほうが、この女に追い詰められそうな気がした」と。ゆき子は、富岡と一緒になりたいという思いを抱いている。が、富岡は「僕は、明日は帰るつもりで、ここへ来たンだ」と言い、次いで「当分、女房も女もいらない。(略)このまま、二人は気持ちよく別れてしまえないものかね?」と呟くように言う。
 が、この二人はいつもこんな話をしては、それでも関係の糸を切れずに、ぐずぐずとだらしなく関係を続けてきた。富岡の優柔不断は相変わらずで、この男はゆき子に対して決断を下すことができない。ゆき子は酒に酔いながら、富岡の〈女を誘うような、むせかえる男の体臭〉の虜になっている。作者はゆき子の内心を代弁する「どうせ、富岡といっしょになったところで、うまくゆけるとは思わなかったが、ゆき子は、富岡を手放す気にはなれなかった」と。「気持ちよく別れてしまえないものか」と口に出す富岡と、そんな無情なセリフを耳にしても「富岡を手放す気にはなれない」ゆき子は、二人して酔いに身をまかせながら、次のような会話を交わす。

 「ええ、けっして、私は、あなたのように、絶望はしていません。生きてみせますとも、せいぜい、あなたは勝手に女をつくればいいのよ。河内のキャンプで、私は、ベラミーって小説を読んだけど、あなたは、あの中の主人公ね……。でも、あの主人公は、宿なしの風来坊だから、女を梯子段にして出世するンだけど、あなたは、女だけを梯子にしてる……」
  富岡は、そんな小説は読んでいなかったが、女を梯子にするとゆき子に言われて、むっとした。ゆき子の腕を掴み、引きずり寄せた。
 「そんなことを言うために俺をここへ呼んだのかい? 俺は、お前が、千万円の金を持って来たって、それをあてにするような男じゃないンだぞ……。教会の金を盗んだって、大手柄みたいな顔をしやがって……。そんなに俺がなつかしかったら、なぜ、伊庭のところに行くンだッ」
 「あらッ、何をおっしゃるのよ。自分で勝手なことばかりしていて……」
  富岡は、掴んだゆき子は、の手を放した。
 「君も、せいぜい男を梯子にするがいい」
  富岡は、ごろりと横になって、眼を閉じた。(370〜371〈五十四〉)