清水正の『浮雲』放浪記(連載183)

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清水正の『浮雲』放浪記(連載183)
平成A年2月13日

 〈干物〉を誰が干したのか作者は書いていないが、一番可能性のある者は大津しもであろう。四十歳近い女で、細君のある老人との間にできた子供を始末するために婦人科に入院していた女である。しもは「男の世話になれるような女とも思えないほど、四角張った、色の黒い骨太な女だった」が、すでに大日向教の教祖・成宗専造と深い関係を結んでいた。大津しもは、身分のある老人を引きつける何かを備えていたのかもしれない。いずれにせよ、作者は大津しもと〈老人〉の関係についても、成宗専造との関係についても具体的に描くことはしなかった。が、妙にリアリティのある女で、ゆき子がとらえた〈干物〉は、大日向教の世界で確実な位置を占め始めた大津しもの存在を鮮やかに象徴している。天井の高い、おちついた部屋から、ゆき子は狭い中庭に干された〈干物〉を眺めているわけだが、見方を変えれば、大津しもは大日向教の生活の場からゆき子を凝視しているとも言える。林芙美子の描く場面は奥行きが深く、読者の想像力を限りなく羽ばたかせる。

 「もし、怪しいと思って、新聞社からさぐりでも来たらどうするの?」
 「なあに、そんなのはすぐ判るさ。怪しい奴からは一銭も貰わないことにしている」
 「そんなに眼が利くんですの?」
 「そりゃア、こんな商売していると、どんな人間もすぐ見破ってしまうさ」
  ゆき子は、いつかは、こうした水商売にも似たからくりは長続きはしないだろうと思えた。だが、戦後に何をするあてもない人間が大量に放り出されているとなると、こうした異常な心理を持った人間も出てくるのだろう。
 「躯はどうなんだい?」
 「私も清診料を払って診て貰うくちね」
  ゆき子は笑いながら、煙草をふかした。富岡との問題が、まだいっこうに、自分では解決したものにはなっていなかったが、一時しのぎに、伊庭のこの仕事を手伝うのも悪くはないと思った。ゆき子は、もう、まっとうな仕事に就ける自信もなくなっていた。大日向教がどんなものであるにもせよ。何かのよりどころを掴むには、バーや喫茶店の女給になるよりも、ここで、一つ、ばかばかしい仕事を手伝ったほうが、気が楽になりそうでもある。(343〈四十六〉)