清水正の『浮雲』放浪記(連載128)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義がユーチューブで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html


ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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 清水正の『浮雲』放浪記(連載128)
平成◎年3月6日
 坂口安吾は『吹雪物語』の中で、野々宮がサチ子の勤めている酒場を訪れた時の場面を次のように書いている。

 気がつくと、街燈の淡い光が緑の窓掛を透して、幽かに室内へ流れていた。街燈はどこにあるともわからない。そして室内へ流れる光は、窓掛の色のために、緑色の光芒に変っていた。ちょうど野々宮の横手に鉢植えのかなり大きな樹があった。降誕祭の祝木に使うつもりのものらしい。房々と枝葉の垂れた、樅の種類に相違なかった。緑色の光芒はその中辺の一部分へ流れていた。幽かな、そしてやわらかな光であった。安らかだ。なんという切なさだろう。このところ墓なりと光の言葉が語るようだ。そしてここにねむる人の憩いの哀れと安息が静かに宿っているようだ。やわらかな光。そしてこの安らかさ。

 ニコライ・スタヴローギンは植木鉢の緑を通して、落日の斜めな光線が太い束になって流れ込んでいるのを見ている。野々宮は街燈の淡い光が緑の窓掛を透して、幽かに室内へ流れているを見ている。富岡は一種の神秘的な緑の光線が部屋の中にまで侵み込んでくるのを見ている。ニコライは緑色の光線の中から〈何かしら小さな一点〉が浮き出してくるのを見つける。それは銭葵の葉の上にとまっていた小さな赤い蜘蛛である。マトリョーシャの自殺を確信しつつ凝視していた赤い蜘蛛である。この蜘蛛はニコライの内部に潜む悪魔であり、銭葵という緑の聖性に張り付いたちっぽけな血塗れの〈キリスト〉ニコライの隠喩的存在でもある。ニコライは『悪霊』の表舞台において負のキリストを一身に背負ったある種のパロディ的存在であるが、このパロディ的な存在をさらに戯画化して戯れていたのがピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーである。
 ニコライは小さな赤い蜘蛛を見た直後、凌辱して自殺へと追いやったマトリヨーシャを目前に見る。ニコライの告白を米川訳で見てみよう。

 余が目の前に見たものは! (おお、それは、うつつではない! もしそれが本当の映像であったら!)余が目前に見たのは、痩せて熱病やみのような目つきをしたマトリョーシャ、ーーいつか余の部屋の閾の上に立って、顎をしゃくりながら、小っぽけな拳を振り上げたのと、そっくりそのままなマトリョーシャである。余はこれまでかつて、これほど悩ましい体験を覚えたことがない! 余を威嚇しながらも(しかし、なんで威嚇しようとしたのだろう? いったい余に対して何をすることが出来たのだろう? ああ!)、結局わが身ひとりを責めた、理性の固まっていない、頼りない少女のみじめな絶望! こういうものはあとにもさきにも覚えがない。余は夜になるまで、じっと身動きもせずにすわったまま、時の移るのも忘れていた。これが良心の呵責とか、悔恨とか呼ばれているものだろうか、余にはわからない。今でさえなんとも言えないに相違ない。しかし、余はただこの姿のみがたまらないのである。つまり、閾の上に立って、威嚇するように、小さな拳を振り上げている姿、ただこの姿、ただこの瞬間、ただこの顎をしゃくる身ぶり、これがどうしてもたまらないのだ。その証拠には、今でもほとんど毎日のように、これが余の心を訪れる。いや、映像の方から訪れるのではなくて、余が自分で呼び出すのである。そういうふうでは生きて行くことが出来ないくせに、呼び出さずにいられないのである。たとい幻覚でもよい、いつかうつつにそれを見るのだったら、まだしも忍びやすいに相違ない!(194〜195)

 富岡が書いたのはあくまでも〈南の果物の思い出〉であって、〈告白〉ではない。富岡の〈思い出〉の中に〈マトリョーシャ〉に匹敵する存在はない。