林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(5)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(5)


林芙美子浮雲』を読んで

齋藤真由香

 


  “理性が万物の根拠でありそして万物が理性であるならば、若し理性を棄て理性を憎むことが不幸の最大なものであるならば……”。浮雲という作品を読了して、私がまず思い起こしたのは、冒頭に引用されたシェストフのこの文句であった。富岡兼吾という、人間の理性と、その理性を憎むこころ、このふたつを兼ねて持つ男と、ゆき子という“何も許さない女”とが出会ってしまったがために起こった不幸が、この浮雲というふたりの男女の物語なのである。私がゆき子に対し“何も許さない女”などというぞんざいな仇名をつけるのは、私が富岡兼吾という男に好感を抱いているからである。最低にいくじがなくて、情けなくて、だからこそそんな自分にほとほと呆れ果てていて、それでも自分自身を見棄てることの出来ずに居る、富岡兼吾という男が好きだ。ここで特筆しておきたいのは、私が富岡に向ける好意が、彼という人間を愛した三人の女たちへの共感とは異なるものであるということである。私の好意は、程無く自己愛に近い。私は始終、この富岡兼吾という男に自分を重ねて居たのである。私は富岡と異なり女性であるが、彼は読者に性別という垣根を越えて共感をもたらすように思う。男であろうが女であろうが、わかる者にはうんざりするほどわかるし、わからない者には、なにをどうしたってわからない。人間は自分自身を見棄てることが出来ない。自分が嫌な人間であることをほとほと実感し、自分の行いを軽蔑し、卑屈になっても、それでもどうして自分が何よりも可愛いのである。そんな共感を抱く私が、ゆき子という存在に目を向けて抱くのは、恐ろしいという感情だ。彼女のなかに私たちと同じ葛藤は無い。彼女が持つのは、女として、雌としての本能と、それによってもたらされる煩悶、そうした類の葛藤だ。私とゆき子とは、同じ女性でありながら、そこが決定的に異なる。そのため私はゆき子に同調ができないし、どうしても彼女に対する心持ちも穏やかでない。
 “自分が可愛いンじゃなく、命に未練があるから”、自分は死ぬことが出来ない。と、富岡は言った。私のように彼に共感する人間というのは、この台詞に首を傾げて、だけどもぼんやりと自分もこう言うだろうなと考える。私たちは富岡を見棄てることができない。“完全な自由というものは生きても生きなくても同じになった時、初めて得られるのです。これが一切の目的です”。『悪霊』のこの一説が、富岡の、ひいては私たちの耳にもっともらしく響くのは、私たちが無欲とはかけ離れた人間だからに違いない。
 富岡は赦されたかったのだ。しかしゆき子は彼を赦さなかった。赦せなかったのである。彼女には富岡の抱える、罪の意識にも近い、自己嫌悪めいた葛藤を感じることができなかったのだから、当然だ。自分がゆき子の言う通り、“人間のずるさを一ぱい持ってて隠してるひと”であることは、富岡自身が一番よく理解していた筈だ。何をどうしたってこれが自分であるという自意識と、そんな自分を嫌悪する良心とが、彼のなかではいつだってひしめき合っていた。“自己矛盾にとらわれている。自分をどのように始末してよいのか判らない”。この一文が彼の苦しみのすべてだ。何よりも自分自身を愛しているのに、誰よりも自分が愛されてはならない人間であることを知っていたのが、富岡という男であり、彼がいつでも新しい女を欲して已まなかった理由が、ここにあるのではないだろうか。彼は自分が振り回されているという言い訳を欲していた。彼は矛盾にとらわれ自己嫌悪でこころを病んだ自分を“魂のない人間”と称する一方で、自分のこころを奪う女たちを一様に、力に溢れた“獣”と称した。力を持たない自分が、力に溢れた人間によって振り回される、哀れな小市民であることを、己の人生に対する言い訳としていたのではないかと思う。三人の女、すべての言い訳を失った富岡は、激しい下痢に襲われながら“人間はいったい何であろうか。何者であろうとしているのだろうか……”、こう考えてひとりおえつを零す。言い訳を失くし、己の抱える矛盾――良心を愛する理性と、己を守るための理性を憎むこころ――と正面から向かい合わなければならなくなった富岡を眺める私たちのこころは、その葛藤があまりに自分自身も持つ自己愛を思わせるために、同情心に満ち溢れてしまうのである。
 “あなたの恋も、わたしの恋も、初めの日だけは真実だった……。あの眼は、本当の眼だった。私の眼も、あの日の、あの時は、本当の眼だった。いまはあなたもわたしも、うたがいの眼……”。安南語でうたわれたこの歌を聴いたときの富岡のこころを想って、私は泣いた。この歌を聴きながら、ゆき子を抱いて一緒に泣けるような人間であったら、どんなに良かっただろうと、彼は考えたに違いない。そうして、そんな人間であったなら、彼は彼自身によって、自分を赦せたに違いないのだ。