批評の残酷性と真実性と無力性――清水正の新著を読んで――

 批評の残酷性と真実性と無力性
――清水正の新著を読んで――

芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻一年
山下洪文

理性に基づいて生きるか、イエスの言葉に従うか。ソーニャはイエスの言葉に従い、ロジオンは懐疑と思弁の果てにソーニャに従った。わたしは果てしのない懐疑と思弁に明け暮れながら、〈永遠の命〉を見つめ続けている。(『「オイディプス王」と「罪と罰」』三〇七頁)

「理性に基づいて生きる」とは、〈世界〉のなかの有限的存在としての自己を引き受けることだろうし、「イエスの言葉に従う」とは、〈世界〉のことわりの〈外部〉へと自己投企するということだろう。
 そして、それら選択の行く末を「見つめ続ける」ことは、〈世界〉とその〈外部〉のあいだに自己を仮設し、批評家としての冷厳なまなざしを獲得することを意味するだろう。
 批評とは、〈世界〉と〈深淵〉のあいだにかけられた一つの架橋にほかならない。〈世界〉に寄りそって書けば現状追認になる。〈深淵〉に向かって書きつづけるなら、彼の精神は崩壊するだろう。批評精神とは、〈世界〉に貼りつくことも、〈深淵〉に投身することも自己に許さない、宙づりの美学であると言える。
 批評は、〈世界〉(実在)も〈深淵〉(非在)もともに見とおすことのできる、特権的な位置を占める芸術である。現実べったりの思考を、〈深淵〉の側から批判することもできる。非現実的思考を、〈世界〉に加担する立場から攻撃することもできる。
「批評の残酷性と真実性」(埴谷雄高)と呼ばれるものは、この性質から生れるのだろう。批評家はしばしば、この特権的立場を「高み」と思い違う。そこから見下ろすことのできる様々な精神現象を、偶像にでもなった気持ちで軽視するようなことも起こる。山城むつみが、柄谷行人らとの座談会で、「いまの若い批評家は、そもそも表現者を馬鹿にしている」という意味の苦言を呈していたことは、記憶に新しい。未熟な批評家ほど、その文学的射程の圏内にいる(と思われる)作家を小馬鹿にするものだ。
 彼らは、表現行為そのものの価値を信じようとしない。現実そのものの価値を信じないように。〈深淵〉に陥った作家を、安全地帯から嘲笑うだけで、自分はかすり傷一つ負おうともしない。
 が、ここに一つの背理がある。批評家は、〈世界〉や〈深淵〉に加担することはできるが、それに参入することはできない、ということだ。大衆になることも前衛になることもできない。ただ、その行方を見つめることしかできない。ここに、残酷性と真実性に継ぐ批評の第三の形質、無力性を私たちは見出す。
「果てしのない懐疑と思弁に明け暮れながら、〈永遠の命〉を見つめ続けている」という批評家・清水正は、単にソーニャの道か、ラスコーリニコフの道か、といったことを考えているのではない。批評(観察)するものは、そのどちらの道も歩めないのである。
「〈永遠の命〉」の在り処を見つめるだけで、決してそれを手中に収めることはできない。困難な信仰の道を見つめることも、在るがままに生きる大衆の行方を観察することもできるが、自分がその道をたどってゆくことはできないのだ。なぜなら、そうした瞬間から彼は観察者としての地位から叩き落とされ、いかなる意味においても安全地帯をもちえない一個の実存に化してしまうのだから。
 この悲劇を感受することなく批評するものは、例外なく、批評家というより冷笑家と化す。
 冷笑と紙一重のところで「批評」の孤塁を守ることのできない若造どもが、何ダース集まったところで、無意味なことだ。柄谷の立ち上げた「NAM」の無惨な死骸を見るまでもなく、冷笑からは何も生まれない。残酷性と真実性と無力性の自覚こそが、批評に威力をもたせる。
 ここで本題に入ろう。清水正の新著、『「オイディプス王」と「罪と罰」』の第二部、「映画『アポロンの地獄』と原作『オイディプス王』を読む」は、「ドストエフスキーの諸作品と関連づけながら」という副題からもわかるように、古代(「オイディプス王」の時代)と近代(ドストエフスキーの時代)、そして現代まで一貫して在りつづける精神の地獄を、包括的に見つめ直そうとする試みである。
 まず己の精神の成り立ちから語り起こす手法は、テキスト読みとか構造主義とかいう汚物を食い過ぎた読者の、受け付けにくいものだろう。だが、「十四歳の時に(略)善悪観念の絶対喪失に襲われ」たという清水が、いかにして文学と出逢い、人間という謎にぶつかったのかということは、一個の実存史としても興味深いものだ。
 このくだりを読んでわかることは、清水はハイデッガー実存主義の文脈というより、現存在分析の書物から理解したということだ。「時間」概念の解釈など、精神科医木村敏の深い影響が認められる。

  わたしが考えた時間論において人間を頂点とするピラミッド型の進化図はあり得ない。(略)時間は、人間に時間に関する意識があり、体感があることによって存在する。従って時間意識と体感がない者にとっては、人間といえども〈時間〉は存在しないことになる。(同、三一〇―三一一頁)

逆に言えば、〈時間〉を体感しさえすれば、その時代の時間意識さえあれば、ドストエフスキーオイディプス王の世界を疑似的に生きることも可能になる。清水の批評は、〈時間〉の概念を空想的に超克しようとする試みであると言えるかもしれない。
さて、清水の論考は、紀元前四二七年ごろに書かれた戯曲と、一九六七年に撮影された映画を重ねあわせつつ検討してゆくかたちで書かれている。
書き継がれてきたドストエフスキー論とおなじように、ここでも問題になるのは、人間における自由と必然の問題である。

  彼ら(オイディプス、イオカステ、テイレシアス)は定められた運命を生きているにもかかわらず、自らの自由な判断において生きる。(略)彼らには自分たちの〈意志〉すら、神が決定した運命のなかに繰り込まれているのだという意識が立ち上がってくることはない。(同、三七三頁)

  一方的に呪われた運命を定められた者が、どうしてその運命に対して弾劾されたり罰せられたりしなければならないのか。こういった基本的な疑問を、当のオイディプスも、その他の人物も持たない。(略)『オイディプス王』において神や神々は批判の対象となることを許されていないのである。(同、三八三頁)

なぜ〈神〉は弾劾されないのか。なぜ〈神〉の言葉は絶対的な響きを付与されているのか。それは、〈神〉という仮構が、オイディプスをはじめとしたすべての人々にとっての、精神の原質をなしているからである。〈神〉を否定したり、抗議したりすることは、そのまま自己否定にほかならない。彼らは、自我を守るためにも、また自己の属する共同体を守るためにも、〈神〉を信じなければならぬのである。
 もっとも、こう言っただけでは、古代世界を了解することはできても、その不条理のなかで生きた人間の悲劇を救い出すことはできぬだろう。作中人物の思考・行動をそのまま受け入れることなく、ときには疑義も呈する清水独特の手法は、『オイディプス王』に対しても発揮される。論考の結語とも言うべき一節を、以下に引用してみよう。

  盲目となったオイディプスは神に仕えるテイレシアスの次元にとどまることなく、徹底して〈真理〉を追求しなければならない。自らの出生の秘密を知ったからには、神の出生の秘密を白日のもとに晒さなければならない。盲目となったオイディプスは闇の世界をさまよいつつ、神の実体に迫らなければならない。(同、四二九―四三〇頁)

ここで彼は、「批評家」の枠をはみ出して発言しているかのようだ。批評の本質が、観察行為にあるとすれば、ここで清水はあきらかに批評家の位置から転落している。転落する先が〈深淵〉なのか、〈世界〉なのかは、これからの営為によってのみ決定されるであろう。