林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(4)

平成26年度「文芸批評論」夏期課題。
林芙美子の『浮雲』を読んだ感想(4)


林芙美子浮雲』を読んで

成瀬光憂

 

 主人公の女、ゆき子の生き方はまさに「浮雲」です。ポツンと空に浮かび、風に流され、他の雲と交わっては、また千切れて流れていく。浮雲が流れる空の青い色は彼女の孤独なのでしょうか。この物語からは孤独の匂いが強くします。生前、作者である林芙美子は孤独な人間だったのでしょうか。彼女はよく色紙などに好んで「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」と書いたそうです。『浮雲』の主人公である幸田ゆき子に何ともぴったりな言葉です。私は『浮雲』を読みながら、林芙美子はゆき子に己を重ねたのだろうか、と何度も思いました。彼女の人生を調べてみれば、ゆき子の人生と重なるような出来事が度々起こっていたことがわかります。ゆき子の孤独は、作者の孤独なのでしょうか。
 浮雲の様なゆき子の人生に絡みついて交わり、千切れて離れ、また交わる、そんなもう一つの浮雲があります。それが富岡という男です。昭和十八年、農林省に勤務することになったゆき子がベトナムタイピストとして出向することになったとき、そこで出会った男が以前から現地へ赴任していた農林省の技師、富岡でした。ベトナムでの新しい生活、彼はそこでゆき子に新たな愛をもたらしました。しかしこの富岡と出会わなければきっとゆき子にはもっと他の生き方があったのではないかと私は思ってしまいます。それでも、彼が女から愛される魅力がある男だというのはこの作品を読んでいれば女である私は悔しいがわかってしまうので、ゆき子も抗えなかったのでしょう。きっと富岡もまた、孤独だったのです。やがて日本が敗戦を迎え一足先に帰国する際に、妻と別れてゆき子と一緒になるとまで言った富岡は、半年以上遅れて帰国したゆき子の電報に何の反応も起こしませんでした。そして富岡を訪ねたゆき子は、農林省を辞めた彼が以前の富岡とは違うこと知るのです。彼は農林省を辞めて色々な仕事に手を出しましたが、すべて失敗してしまい、夢も希望もなく、ただその日をかろうじて生きているような状態であったのです。だからこそ富岡は、何とかゆき子を遠ざけようとしたのでした。ゆき子も生活に窮し、生きる為に街娼のようなこともやります。ゆき子にも希望がなく、あるのは凄まじい孤独感と絶望だけだったのです。やがて深い絶望と孤独の底で、ゆき子と富岡の二人は伊香保温泉で心中を図りますが、未遂に終わります。男と心中を図る、ということは様々な文学で登場する場面です。それは男女の絶望と逃避の象徴だと私は思います。客に恋をした遊女も、人生に絶望した文豪も心中をしました。最期くらいは大切な人と共に、心中は日本に脈々と続く悲しくもどこか美しい文化であり絶望を死の美学に昇華させた一つの形なのではないでしょうか。
しかし富岡はゆき子をそこまで巻き込んだのに、伊香保にある飲み屋の女房に熱を上げるのでした。そんな彼にゆき子は愛想を尽かしますが、彼女はこのとき、富岡の子を宿していました。ゆき子は昔世話になっていた義弟、伊庭を訪ねて子どもを堕ろし、彼の囲われ者として生きるようになります。
 伊庭、という男。彼はゆき子の人生に浮かぶ富岡とは違うもう一つの雲です。ゆき子が静岡の高等女学校を卒業した後、神田のタイピスト学校に通うため上京した際に寄宿先として選んだ家の主人。それが姉の夫の弟である伊庭でした。彼には妻がいましたがゆき子と関係を持ち、彼女が農林省に就職した後もその関係は続いていたのです。
伊庭と共に暮らす日々の中、再び富岡が彼女の元を訪れます。彼は伊香保で恋に落ちた飲み屋の女房と恋仲になったのですが彼女の夫に彼女を殺されてしまい、さらに自分の妻も困窮の末に病死し人生に絶望しきっていました。しかし屋久島で営林署の仕事を見つけ、ゆき子の元へ戻ってきたのです。そしてゆき子もまた、伊庭の金を持ち出して富岡の心を呼び戻そうとしていたのでした。やはりまた二人は一緒になります。二人の関係は言葉にするのであれば「腐れ縁」、これが何より相応しいものとなっていたのです。そして共に 屋久島の営林局へ行き間もなく、富岡が山へ行った土砂降りの日、ゆき子は喀血で死にました。そして残された富岡は凄まじい孤独の中で一人生きていくのでした。
 交わり、千切れを繰り返した二つの雲はどちらも絶望と孤独から逃れられぬままに物語は終わります。これはドラマチックに見えて、きっといつの時代でも、どんな場所でも起こり得る男と女の話です。読み終えて、私は何だか泥の中にうずくまっているような気分になりました。何処までも人間らしい登場人物たちのことを「なんて駄目な奴らなんだろう」と思いながらも、何処かで憎み切れず愛おしいと思ってしまうから私もまた人間なのです。林芙美子が人間の内面を女性だからこそ描き出せる視点で書かれた『浮雲』は、時代を超えて現代を生きる私の胸にもずしりと重たくのしかかるものでした