ユッキーの紙ごはん(連載34)

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ユッキーの紙ごはん(連載34)


【私を見てよ、あ、でも見すぎてもイヤ】

ユッキー


 
 
 
 先日電車に乗っていたところ、正面に二人の男女が座った。外国人男性と日本人女性のカップル。大柄な男性はスケートボードを椅子に立てかけて大きく脚を組み、女性は彼の腕に身体を絡ませた。

 二人はやがて、スナック菓子を取り出した。しかもドリトス。ドリトス!? そんな、よりによってなぜ臭いのキツいものを……?と私が無表情で驚愕していると、彼女は彼氏にいわゆる 「あーん」 を始めた。英語で会話しているので内容はよくわからない。
 チーズ臭が漂うなか、今度はキスが始まった。ドリトスを食べた口で……?と私は二人の愛の大きさを前に敗北を自覚した。彼らがドリトスを食べた直後の口でキスできるのなら、もうそれは私が諦めるべきだ。

 電車内など公共の場でイチャつくカップルというのは、覚えのある人も多いだろう。そしてきっと愉快な光景ではないはずだ。それは嫉妬ではなく恐らく、電車内で化粧する女性、音や臭いのあるものを平気で食べている人を見る時のような軽蔑に似た感情だと思う。

 どうして不愉快なのか。「恥じらいがない」 「見たくもないものを見せるな」 「臭いが気になる」 ……と、多くの人は理由を述べるだろう。
 しかし、とある社会学の本が言うには、「儀礼的無関心という一種の演技を欠いているから」 だそうだ。

儀礼的無関心」 というのは社会学者E.ゴフマンの言葉らしいが、彼に関しては私も詳しくないので置いておくとして、簡単に言うと 「完全な無視ってどうなの?」 ということだ。公共の場における他人同士は、無関心に見せかけてチラッと存在の確認はしているという。その態度が一種のルールとなっている。
 しかし前述したようないわゆる 「マナー違反」 の人間達は違う。だから人は彼らに 「無視されている」 と感じるのだそうだ。

 要は、「無視しないで、少しは私のことを思いやってよ!」 ということだ。
 あえて意地悪な書き方をしたのは、マナー違反に対する感情は意外と自分勝手なんだなあという自己反省があるからだ。だって 「儀礼的無関心」 はあくまで暗黙の了解であり、法律ではない。自分が他人を思いやっているつもりだからといって他人にもそれを求めるのは、ちょっと自分勝手な気がしてしまったのだ。

 この本を読んで面白いと思ったのは、日常の不愉快な出来事はたしかに大抵の場合、「自分という存在が思いやってもらえていないと感じるから」 という理由を付けられることだ。
 道に痰を吐くおじさんも、土足で椅子に上がる子供も、それを注意しない親も。これらを見た時どうして顔を顰めてしまうのかと言えば、汚いからという物理的・合理的な理由に加えて、「この私が汚いと思うかもしれないという想像はしないのか」 という自己中心的な感情もちょっとはあるように思う。

 だけど普段こんな傲慢ともいえそうな感情は口にせず、もっともらしくマナー違反を批判する。もちろん私も。「電車でちゅーとか、恥ずかしくないのかな? しかもドリトス食べた口でするとか、私なら無理」 なんて。

 自分勝手な感情で社会のマナーが成り立っているなんて、なんだか逆説的な話だ。


■参考文献 『社会学』 (株)有斐閣

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