小林リズムの紙のむだづかい(連載89)

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紙のむだづかい(連載89)
小林リズム

【教会で交わされるキスと池袋駅で交わされるキス】

 キスをしている姿を人に見られるどころか両親にまでも晒すなんて信じられないという理由から、いつか結婚しても絶対に結婚式はしないと心に決めていた。八歳の私はそれくらい頑なだった。
「目って閉じるのかなぁ?」
「どのタイミングで閉じるの?顔はさぁ、ななめになってるよね」
 ドラマのキスシーンを眺めては、どうやってあんなことをやってのけるのか不思議でたまらなかった。弟と「チューは縦で、キスは顔を横に傾けてるね」ということを話したこともあった。なぜ目を閉じるのかとか、鼻息はどう処理するのかとか、考えれば考えるほど唇と唇を重ね合わせる行為がロマンチックな光景になっていることが変に感じて、人間てすごいなぁと思っていた。食べたり、しゃべったり、せわしなく動かす唇を、真面目な顔して重ね合わせて物思いにふけるなんて、どうかしている。

 小学校の頃に、親友との交換日記のなかで「キスってどうやてするんだろうね」と聞いたことがあった。やり方やタイミング、行動の意味、ちょっとした憧れとか、我に返ったときのシュールさとか、何が楽しくてやっているのかとか、ちっとも想像つかなかったのだ。それに対して親友の答えは「うーん…目を閉じて、あとはロマンチックに…」と書かれていて、えぇ!?ロマンチックにってどんな!?と、幼心にますます謎は深まるばかりだった。

 もうだいぶ昔に読んだ素敵なキスの仕方という記事には、とにかく「ゆっくり」というポイントが挙げられていて、お互いに焦らしつつゆーっくりと唇を向かわせていくのがいいとあった。もう少しで当たる、あぁ、あとちょっと…という3センチくらいの距離をじんわりと縮めていく、その時間と興奮を楽しむのが大人のキスの仕方なんだとか。
 確かにドラマでは、キスする間際にふたりの顔の隙間に夕陽が当たり、やっと唇と唇が出会ったときに光が閉ざされて綺麗に重なったシルエットが色っぽく演出されている。そうか、焦らしと時間をかけることこそが、良いキスの仕方なのか…。

 と、一応は納得していたのだけど、その考えを覆すことが起こった。終電間際の駅の切符売場でカップルのキスシーンに遭遇したのだ。それはもうあっという間の出来事で、柱に寄りかかって名残惜しそうにしている彼女に、Suicaにチャージをしている最中の彼氏がパッとふりかえりサッとキスをしたのだった。男の子のほうはまたすぐに機械に向き直ってSuicaを引っ張りだして照れ隠しをしていて、女の子のほうは唐突なキスに何が起こったのかわからない様子で、でもそのあとに見せた嬉しそうな顔が印象的だった。半分寝た状態だった私の脳が、覚醒して乙女心を呼び起こしてくるくらいに、素敵だったのだ。
 焦らしと時間を惜しみなくつかうことは人を興奮させると思うし、届きそうで届かない状態はいつだって人の欲望をかきたてる。けれど時間を惜しみなくつかうこと以上に、思いがけず、うっかり放出してしまった相手に対する愛情のほうが、人を惹きつけるのかもしれない。きっとあのカップルにとっては、雑踏にまみれた池袋駅をもが思い出の場所になる。電車内でいちゃつくカップルに「TPOわきまえろよ」と心で毒づくほうだけれど、時と場所と場合を考えない他人様のふいうちのキスにすっかりと魅せられてしまったのだった。