小林リズムの紙のむだづかい(連載65)

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紙のむだづかい(連載65)


小林リズム

【何もしない、を、ずっとしていたい】


 こんなのは自分のやりたいことじゃない、ここは自分のいるべき場所じゃない。
 そんなふうに縛られたり枠にはめられることから逃げ続け、いくつになっても懲りずに自分探し。体裁上、ミュージシャンやら小説家やらを「夢」と語って取り繕いながらも、ちっともやる気なんかなくて、働かなくてラクに生活していくことだけを考えて回り道している。もっとアリノママの自分を認めて受け入れてくれる場所が、きっとどこかにあるはずだ、と、思いたい。

 久しぶりに足を運んだ大学の研究室で清水先生から「これ読んでみなよ」と渡されたその漫画が、つげ義春の“無能の人 日の戯れ”だったから、笑ってしまった。無職の卒業生に貸すものとしては、あまりにもストレートなタイトル。無能、という言葉のどうしようもなさは救いようがない。
 パラパラとめくってみると、私が今まで読んだことのある少女漫画のような華やかさは皆無で、地味で暗い感じがページの隅々に染み込んでいて、ジメジメした匂いが漂ってきそうな梅雨の押入れみたいだった。

 堕落。怠惰。貧困。そんな単語が思い浮かぶシーンで敷き詰められ、びっくりするような展開もないまま、淡々とした日々が並べられている。かつて漫画を描き売れたこともあった主人公が、落ちぶれて仕事を失くし、石屋やカメラ屋やなどいろんなことに中途半端に手を出すという内容。妻子もいるのに本腰入れて働こうとしないでヒモになったりしているあたり、見事なダメ人間っぷりを発揮している。自由奔放というよりはただの行き当たりばったりで、夢があるというよりは何もしたくないだけ。そんな彼に主人公の妻はこう言い放つ。
「私恐いわ。あなたの性格って自分で自分をダメなほうへ追い込んでゆくんだもの」

 高校生くらいの頃から、私は「何もしない、を、ずっとしていたいなぁ」と思っていた。好きな時間に目を覚まして好きな本をだらだらと読んで、食べたいものを食べたいときに食べ、好きなときに会いたい人に会いに行く。それを「いつかは家でできる仕事がしたい」とまるで夢を語るような表現に置き換えていたのだけど、ひたすら何もしないで生活していきたいという、その一心なのだ。けれど「将来は沢山の人を楽しませたい」とか「笑顔にしたい」とか、「ひとりでも多くの人を救いたい」なんて目を輝かせている人たちを前にそんなことを堂々と言えるはずもなく、誰の役にも立たない、何のためにもならないことを夢と掲げることができるほど、無邪気にはなれなかった。

 無能であるということは、無職であるということと似ている気がする。誰の役にも立っていないという後ろめたさは、誰かの役に立って生きていると自負している人よりもずっと暗くて重いし、自分のためにしかならないことはいつか虚しくなる。生きることを納得させる方法なんて、人に何かしてあげて自分を満足させることでしか埋まらないのかもしれない。それでもこの主人公のダメっぷりは、同じく役に立たない人間を救ってくれる。

 それにしても、この無能な主人公を、これまた頭の悪そうな鼻を垂らした息子が「お父さん、迎えに来たよ」といつも現実に引っ張ってくる瞬間がなんとも言えない。地に足のついていないふわふわした主人公を、現実に居続けさせるのは、やっぱり家族という枠組みだったり、仕事や学校などの所属先なのかもしれない。さて、私はいつまで無能で居続けられるんだろう。何もしない、を、いつまで続けられるのか。自分で自分をダメなほうへ追い込んで、どこへ向かうのか。私の無能物語は、まだ始まったばかりだ。