荒岡保志  清水先生との思い出




ドストエフスキー曼陀羅」特別号に寄稿していただいたものを何点か紹介したい。
今回は、わたしと同じく我孫子在住の漫画評論家荒岡保志さんの文章を連載したい。

清水先生との思い出(連載1)

荒岡保志

●エピソード一・初めに・清水正先生との出会い
 千葉県の北西部に位置する我孫子市は、水と緑が豊かで、
昭和期までは「北の鎌倉」と呼ばれていた歴史のある町であ
る。志賀直哉武者小路実篤など、多くの文化人が好んで住
み、白樺派と深い繋がりのある町でもある。尤も、今となっ
ては、JR我孫子駅前よりマンションが立ち並び、「北の鎌
倉」らしさは見る影もないが。
 
 JR我孫子駅南口ロータリーを出て左に折れ、天王台駅
面へ線路沿いに少し歩くと、右手に大型スーパー「I」が見
え、少し手前の左手に、そのこじんまりした飲食店「A」は
ある。店名には「呑み処」と銘打ってあるが、「居酒屋」と
呼ぶほど安直な店でもなく、「料理屋」、「割烹」と呼ぶほど
料理が主でもなく、気取ってもいない。店内は、継ぎ木のカ
ウンターが四席、四人掛けのテーブルが奥に一卓、補助的
に、カウンター席の後ろ側にテーブルが一卓。ただし、カウ
ンター席の後ろ側のテーブルは、客の荷物置きとしてしか用
を成していない。即ち、七、八人の客が入れば満席という小
さな飲食店である。私は、たまに「和風スナック」だと揶揄
するが、表現的には、結構的を射ていると自負している。
 
 間口が狭く、入口が小上がりになっており、縄のれんの奥
に格子戸のある「A」は、その抜群の立地条件とは裏腹に、
何故か一見の客は少なく、常に常連客で満たされる。一見の
客が少ないのは、その狭い間口、一段上がった入口、縄のれ
ん、更に格子戸が、何とも閉鎖的な印象を演出しているから
だろう。店頭の白地の電飾看板にある「呑み処」も、業態の
明確性に欠け、一見の客には、どのくらいの予算で飲める店
なのか見当がつかない。たまに訪れる一見の客は、通勤で店
の前を通るので、気にはなっていた、ただ入りづらかった、
と話す。予定調和というか、それが想定通りの満点回答であ
ろう。
 
 それでも「A」が、連日常連客で賑わうのは、単にここの
ママの、ありきたりな表現で申し訳ないが、やはり人柄なの
だろう。また、排他的な個人店が多い印象のここ我孫子で、
「A」はフラットであり、それなりに客層がいいと、私は断
言する。常連客に、出版関係、作家、如何にも文化人が多い
のも、ただの偶然とは思えない。一世紀も前に、多くの文化
人が我孫子に魅かれたように、ここ「A」にも、そんな居心
地の良さがあるのかも知れない。 
 私はと言うと、来店頻度が高過ぎて、もはや自宅の如きイ
メージで、ママも、年齢の近い母親のような存在となってい
る。
 かなり前書きが長くなってしまって申し訳ないが、ここで
本題に戻ると、清水先生と私との出会いは、この「A」であ
った。
もう、十五年も遡る。二〇〇三年、時期的には、秋の入口
くらいである。仕事を終え、いつも通り自宅に帰るかの如く
「A」の格子戸を開けると、カウンターに先客の後姿があっ
た。その後姿こそ、清水先生であったのだ。
 私は、その時初めて清水先生と会ったのだが、清水先生は
「A」には何度か見えている風であった。ママが、直ぐに、
「清水先生よ」と私に紹介してくれたその先客は、ハンチン
グ帽子を被り、白髪交じりの顎髭を蓄え、度の強い眼鏡の奥
に目力のある鋭い瞳を持つ、見るからに只者ではないオーラ
を放っていた事を、今でも思い出す。
 
 前述した通り、何故か、常連客に出版関係、作家が多いこ
こ「A」である。清水先生も、一目でそうであると分かる容
姿であった。作家ではなく、私は批評家だ、清水先生は言
う。そして、日本大学芸術学部の教授でもあると言う。私
は、日本酒を冷で傾けながら、清水先生の話に聞き入ってい
た。清水先生は、結構饒舌で、大学教授だけあって話は上手
く、説得力もある。
 
 良く覚えているのは、やはりドストエフスキーについて、
である。君はドストエフスキーを読んだか、読まなければ駄
目だ、そんな話を長々と聞き、私は、正直ドストエフスキー
には何の興味も持っておらず、中学生の頃に「罪と罰」を斜
め読みしたくらいであったが、清水先生の話は、これはもう
一度読み返さなければなるまいと思わせる説得力を持ってい
た。
 
 そんな飲み屋の、杯を交わしながらの会話の中で、ドスト
エフスキーから、きっかけは覚えていないが、突然テーマが
つげ義春に移行する。多分、私が多少漫画には蘊蓄がある、
とでも話したのだろう。ドストエフスキーでは聞き役に徹し
ていた私だが、つげ義春となれば別である。私に相当分があ
ると思っていた。ただし、そんな事が幻想である事に気付く
のに、大した時間は必要なかった。それは、私が、単なるつ
げ義春の一ファンに過ぎなかった、と思い知らされた、とい
う事である。
 
 創作は批評に劣る、とは誰が言った言葉であったか。そん
な言葉も思い浮かぶ。澁澤龍彦種村季弘巖谷國士を貪る
ように読み漁り、マルキ・ド・サドジョルジュ・バタイユ
について語る、文学青年気取りの十代であったが、あまり実
感した事がなかった感覚を、たった一時間、しかも杯を交わ
しながらの会話の中で実感させられた、否、実感出来た。即
ち、批評家とは、ここまで作品を読み解くものなのだ、清水
先生は、作品を読み解いているのだ、という実感である。私
が、あらゆる作家の一ファンに過ぎないのは、作品が面白い
という感情に支配されているだけだからだ。分析し、数値化
する事は絶対になかった、という事なのだ。
 
 実は、この初めての清水先生との出会いで、もう一つ驚い
た事があった。
 ドストエフスキーからつげ義春にテーマが移り、散々つげ
義春論を打った後、批評家で、日本大学芸術学部の教授であ
るまでは理解したが、更に、清水先生は、最近、つげ義春
評論集を出版したと言うのだ。タイトルは、『つげ義春を読
め』だと言う。
 当時、私は、新宿二丁目の、長年の親友が経営しているゲ
イバーに、月二、三回のペースで通っており、その前に、必
紀伊國屋書店で新刊書を物色するのがルーティンワークと
なっていた。そこで私は、つげ義春の代表作である「ねじ
式」を表紙にあしらった、『つげ義春を読め』という辞書の
ように分厚い評論集を手にしているのだ。その分厚い評論集
は、何とレジ前に、五、六冊が平積みにされていた。ただ
し、定価で四七〇〇円、なかなか衝動買いするような価格設
定ではなく、少しだけ立ち読みはした。
 
 清水先生の評論は、漫画の一コマ一コマを、丁寧に読み解
いていくという手法で、立ち読みした時には、正直、ご苦労
な批評家が居るものだな、くらいにしか思えなかった。
 その清水先生が、何故か我孫子市の飲み屋で、私と同席
し、つげ義春について語っているのだ。立ち読みしかしてい
ないので、偉そうな事は言えないが、その事は私にとって
ちょっと嬉しい体験であった事は言うまでもない。また、早
速『つげ義春を読め』を紀伊國屋書店で購入した事も言うま
でもないだろう。
 十五年前、二〇〇三年、初秋、清水先生との出会いの時期
を、それほど誤差なく記憶しているのは、この『つげ義春
読め』の初版発行時期の出会いだからである。また、清水先
生とは、「A」が縁で、それから「A」以外でも飲むように
なる。