荒岡保志  清水先生との思い出(連載2)


お知らせ
ドストエフスキー曼陀羅
協力:ドストエフスキー文学記念博物館(ロシア・サンクトペテルブルク)
期日:2018年11月13日(水曜)〜11月30日(金曜)
開館時間:9:30〜16:30(月曜〜金曜) 9:30〜12:00(土曜)
場所:日本大学芸術学部芸術資料館
 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
  日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階
  (西部池袋線江古田駅北口下車1分)
※どなたでも入場できます。守衛室で手続きの後、会場にご来場ください。
 展示会場には清水正ドストエフスキー論の掲載雑誌、単行本、写真。清水正所蔵の貴重なドストエフスキー文献などが展示されています。またサモワール、イコン、燭台なども展示されています。
清水正編著『ドストエフスキー曼陀羅』№5号、8号、特別号を展示開催中は希望者に無料で配布します。
【特別企画】

清水正ドストエフスキー論執筆50周年
    清水正先生大勤労感謝祭

 第一部  今振り返る、清水正の仕事
      (日本大学芸術学部芸術資料館に於いて)
 第二部  清水正先生 特別講演 「『罪と罰』再読」
      (日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 E303教室に於いて)

 日時:2018年11月23日(金・祝日)15:00〜17:30 
 場所:日本大学芸術学部芸術資料館
   〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
   日本大学芸術学部江古田校舎 西棟3階 芸術資料館&E303教室
   (西部池袋線江古田駅北口下車1分)

     お問い合わせ:TEL03-5995-8255(文芸学科事務室)


ドストエフスキー曼陀羅」特別号に寄稿していただいたものを何点か紹介したい。
今回は、わたしと同じく我孫子在住の漫画評論家荒岡保志さんの文章を連載したい。

清水先生との思い出(連載2)

荒岡保志


●エピソード二・漫画評論家
 
荒岡保志の誕生
 
清水先生から着信が入る。今、我孫子の居酒屋「Y」に 居るから、飲みに来なよ、と。私は、余程の用事がない限 り、清水先生から声が掛かれば、必ず飲みに向かう事にして いた。清水先生の話は、私にはかなり刺激的で、面白かった からである。ドストエフスキー宮沢賢治、そして漫画、勿 論、文学、芸術ばかりじゃなく、世間一般の政治、社会の話
など、清水先生は、この世間一般の政治、社会の話でさえ、 独自の切り口で分析して来る。それも、また面白いのだ。も う一つ、お互いに相当な酒好きであった、と付け加えてお く。
 
清水先生に呼ばれ、居酒屋「Y」に着くと、先生は、一人 でカウンターに座り、必ずワープロを打っている。清水先生 は、居酒屋でも、喫茶店でも、また移動中の電車の中でも、 必ずワープロで原稿を書いているのだ。このエネルギーの強 さには、いつも驚愕させられる。清水先生は、今までに発行 した著作物が百冊を超えていると豪語するが、この批評に対 するエネルギーが、弥が上にも清水先生に原稿を書かせてい るのだ。何か、妖怪が取り憑いたかのようでもある。
 
そして、いつも通りに、居酒屋「Y」で文学論、芸術論を 打つのだが、その中で、清水先生から、私に取って非常に興 味深い提案を頂く。それは、荒岡は、漫画に詳しく、それだ け話せるのだから、漫画評論を書いてみないか、という事 だ。そして、もし、その漫画評論が作品として出来ていると なれば、清水先生が編集しているドストエフスキー&宮沢賢 治・研究情報誌「D文学通信」に掲載してくれる、というの だ。
これは、私に取って、人生を変える出来事であった、と言 えば大袈裟かも知れない。ただし、前述した通り、文学青年 気取りだった私に取って、自分の書いた文章が少なからず他 人に読まれるという感覚は、一つの夢であった事は事実だ。 勿論、私の書いた評論如何によるのだが、その入口に立った という事実だけで興奮に値する。清水先生は、漫画家なら誰 でもいいから、今、嵌っている漫画家について書きたまえ、 と言ってくれた。
 
さて、真面目に文章を書くなんて、二十年振りである。こ れでも私は、十代から同人誌を主宰し、自分自身も評論を書 き、発行人として文庫本を二冊発行した経緯もある。まだま だ、多少は書けるはずだ、と自分自身に呪文を唱える。
 
書くべき漫画家は直ぐに決まった。多くの作品は生んでい ないが、その作品の繊細さが何時までも残り、壮絶な人生を 生き、二十四歳の若さで、飛び降り自殺により他界した漫画 家、山田花子である。当時は、山田花子が飛び降り自殺をし てから、十年以上も経っていたのだが、それでも山田花子を 選んだ理由は、やはり私にもその作品の繊細さが何時までも 残っていたからだろう。
 
それから、山田花子作品を全作読み直したのは勿論だが、 彼女の生い立ち、その死に至るまでの経緯についても徹底的
に調べ直した。私小説的要素の強い山田花子の漫画作品は、 ストレートに彼女自身が投影されているからである。
 
そうした作業の中で、やはり、今まで、私は山田花子につ いてあまり理解していなかったのだと再認識する。つげ義春 の時と同様、私は単なる一ファンに過ぎず、何となく山田花 子を分かっていたかのような気分になっていただけなのだ。 山田花子の、本当の、絶望に次ぐ絶望、死でしか報われな い、孤独な魂と、私は、ここで初めて向き合えたのだ。
 
原稿用紙にして約二十ページの山田花子論は、一週間で書 き上がった。タイトルは「山田花子論〜誰にも救えなかった オタンチンに愛を」である。「オタンチン」は、勿論「オタ ンコナス」と同義であるが、山田花子の作品「オタンチン」 からそのまま採用した。
 
私は、早速清水先生に連絡を取り、書き上がったばかりの 原稿を見て頂くために、再び居酒屋「Y」で落ち合う段取り をした。
 
いつも通り、居酒屋「Y」のカウンターに座り、私が手渡 した山田花子論に目を通す清水先生。いつも通りの、目力の ある鋭い瞳で、である。二十年前の、大学受験の合格発表の 時を思い出す、緊張の時間である。一通り、私の山田花子論 に目を通した清水先生は、これは使える、と言う。更に、荒岡の評論は、作者への愛情がある、とまで言って頂く。この 瞬間は、今でも、克明に覚えている。
 
ドストエフスキー宮沢賢治・研究情報ミニコミ誌「D文 学通信」は、不定期刊行ながら、既に一四〇〇号を超えた歴 史あるミニコミ誌である。ミニコミ誌なので、一号は十ペー ジから二十ページ程度の、パンフレットというか、栞のよう な冊子であったが、私の「山田花子論〜誰にも救えなかった オタンチンに愛を」が掲載された一一〇四号は、私には燦然 と輝いて見えたものだ。あまり実生活では経験した事のな い、不思議な達成感である。
 
清水先生は、私の分と、私の知り合いに配布する分とで、 十部ばかりを用意して下さった。そして、その私の処女作が 掲載されたミニコミ誌を私に手渡した清水先生は、更にこう 言うのだ、また、次の漫画論を書きなさい、荒岡の漫画論は 連載にするから、と。  漫画評論家 荒岡保志の誕生である。