荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載19)

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清水正の著作   D文学研究会発行本

偏愛的漫画家論(連載19)
山田花子
 「誰にも救えなかったオタンチンに再び愛を」 (その⑥)

荒岡 保志漫画評論家


柏の「太平書林」にて。坂本智紀さんと。 撮影・清水正

ここで、最後に紹介するのは、「ヤングチャンピオン」に1992年1月8日号から5月14日号まで連載された「ノゾミカナエタマエ」で、前述した通り、山田花子生前の最後の連載作品である。

主人公は、山田漫画では珍しく15歳の男の子で、その名も「山田花吉」、遂に、自虐的で直接的なキャラクターが誕生する。高校生という設定だから、高校1年生ということになる。
この花吉は、ギャグ漫画にもあまり類を見ない、途方もないぶ男に描かれ、クラスメイトから、「うんこ」とか、「ゲロ人間」と呼ばれている。性格は、過去の山田漫画の主人公を確実に継承しており、自己主張の苦手な、小心、不器用ないじめられっ子である。また、男の子というだけで、その劣等性はより増幅されている。
もう一人のキーになる登場人物は、「伊集院ヒカル」、花吉の幼馴染の美少女であるが、第2話以降、どういう訳か設定が変わり、現実に存在する女の子ではなく、花吉にしか見ることのできない一種の背後霊的な役割で登場している。山田漫画で、あっという間に設定が変わることにはもう読者は慣れただろう。

そんな花吉にも、何故かガールフレンドができる。第3話に初めて登場する「田中葉子」という、容姿も地味で、大人し目の女の子である。美術の時間、向かいのクラスメイトの似顔絵を描くという授業で、お互いに似顔絵を描き合い、少しだけ言葉を交わすようになる。花吉は、葉子のやさしさを感じるのだが、そこに現れるヒカルは、「田中ってやな女ね。この世にやさしい女なんかいるわけないでしょ」と花吉に衷心する。花吉は、「ヤメロ!」とヒカルの葉子への中傷を制止するが、クラスに戻ると、花吉の似顔絵をクラスメイトに見せびらかして花吉を馬鹿にする葉子の姿を見てしまう。

そんな葉子であったが、第5話で、「一緒に帰ってもいい?」と花吉に声をかける。これは、一つは気まぐれであり、もう一つは奴隷欲しさだと推測できる。
花吉は素直に喜び、緊張しながら葉子と一緒に帰るのだが、途中寄ったデパートで、ちゃっかりソックスを買わされたりするのだ。ここで再び現れるヒカルは、「あの女はロクなもんじゃないぞ、かかわりあっちゃダメよ」と忠告するが、聞く耳を持たない花吉であった。

花吉と葉子の不自然なデートは繰り返される。とにかく、葉子の言いなりの花吉である。始終、ビクビク、オドオド、花吉は葉子に気を使い、話す言葉を選ぶ。葉子が待ち合わせ時間に1時間遅刻したときも、卑屈に笑いながら葉子に合わせる。ヒカルは、「どうしてそんなに葉子におもねるの!?」と叱咤するが、花吉は、「ほっといてよ、もう消えてくれ!!」とヒカルの存在が疎ましく思えてきている。

そして、花吉と葉子は初めて結ばれる、否、結ばれるという表現には語弊がある、花吉は、葉子に、一方的に奉仕を求められる、と言った方が正確である。花吉は、一生懸命葉子の性器を舐め続け、尿を飲む。「ついに葉子の奉仕品となり果てたのね」と、ヒカルは吐き捨て、「もう二度とあなたの前に現れないわ、アデュー」と去って行く。

ヒカルは、花吉の最後の自尊心だったのだ。花吉を救おうと、何度も手を差し伸べたが、花吉はその手を拒絶してしまう。花吉こそ、山田花子自身ではなかったか。そして、山田花子の前から去って行くのである、ただ、「アデュー」と一言を残して。

また、山田漫画は、そのほとんどの登場人物が小学生、中学生、高校生という子供の延長上にある世代であることに起因するのだろうが、男女間のセックス描写が描かれることは滅多にない、否、「神の悪フザケ」の「タマミ編」第12話「生きていても大丈夫②」の楳図とヒヨ子、そして、この「ノゾミカナエタマエ」の最終話のみである。社会人が登場する「マリアの肛門」でも、前述したが、ヌードカットはふんだんに使われているのだが、実際のセックス描写には及んでいないのである。

ここで、「マリアの肛門」の第6話「HOW TO LOVE」で少しだけ話した、山田花子の恋愛感というか、もっとストレートなセックス感について考えて見る。

もちろん、山田花子にも恋人がいた。「自殺直前日記」の中の、「恋愛口座・男女物語」の章で、その交際の記録が綴られている。初めに紹介される恋人「N」は、私を女中代わりにしようとする、また、駅のホームで、「君が好きだよ。好きだよ。好きだよ・・・」と連発し、山田花子が応えるのを待つ。この構図は、たまみと楳図、また、ルリ子とケンジの恋愛関係に投射される。
そして、もう一人紹介されるのは毎晩電話をしてくる「K」、この、「本当は自分のロマンスごっこに酔っているだけ」、と酷評される恋人には、「ガキのお守りは疲れる」と突き放している。ここでは、山田花子の精神は純子である。


この「恋愛口座・男女物語」の中から、山田花子の恋愛感が露骨に現れる言葉を抜粋すると、「魂は男女を問わず自分よりちょっと弱い心を持つ魂に惚れる」、「恋愛とは強い方が弱い方を捕獲して支配し玩具にすることである」というところだろう。
山田花子にとって、セックスは支配され、玩具となることに過ぎなかったのである。そして彼女は、「セックスなんかしたくない。苦痛と屈辱に耐えられない。なんで恋人とセックスしなきゃならないのか?誰の為に!! 何故オスは愛を信じられないのか?」と問い、「セックスとは強い方が一方的に弱い方を快楽の道具にする遊びである」と、自ら答えているのだ。

山田花子のいじめられっ子だった記憶、そして、人間不信、男性不信が、彼女をごく普通の男女関係を営む行為、セックスから遠ざけてしまったのだろう。セックスが全てではないことは、山田花子の語る通りだと理解できる。しかし、セックスは恋愛の一部でもある。小学生時代のボーイフレンドではないのであるから、それを完全否定するということは、恋愛というカテゴリーさえ否定することになりかねない、否、現実に、山田花子は恋愛自体も否定していたのかも知れない。前述したが、山田花子の理想の恋愛関係は、「マリアの肛門」の、エバと善太であったのだ。理想の恋愛関係を構築するためには、エバは植木のサボテンになるしかなかったのだ。

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。