荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載17)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
二十四日は柏の喫茶店を二軒ほどハシゴして林芙美子の「屋久島紀行」について執筆した後、荒岡保志さんと古書店「太平書林」で待ち合わせ、写真撮影などして居酒屋の「日本海」へ。ビールを飲みながら、現在、荒岡さんが書きすすめている「志賀公江論」の進行状況をきく。志賀先生に電話して、処女作「走れ!かもしか」が掲載された「マーガレット」についてたずねる。初出誌は持っていないということであったが、原画はあるとのことで、見せてもらうことはできそうである。今、荒岡さんは妙に絶好調なので、あと一カ月もすればまとまった「志賀公江」論が完成するかもしれない。

偏愛的漫画家論(連載17)
山田花子
 「誰にも救えなかったオタンチンに再び愛を」 (その④)

荒岡 保志漫画評論家


柏の古書店「太平書林」で。撮影は坂本智紀さん。

余談になるが、あの「赤塚不二夫」が、講談社少年マガジン」に連載していた人気漫画「天才バカボン」を、小学館「少年サンデー」に勝手に掲載してしまった事件があった。しかも、そのまま「少年サンデー」に連載が開始されたのである。当時の「天才バカボン」は、言うまでもなく大変な人気漫画である。そして、当時の「少年マガジン」と「少年サンデー」は売上部数を奪い合うライバル漫画誌で、犬猿の関係であった。このことは、タブーを超えている。
当時、小学館の「武居」という豪腕記者が「赤塚不二夫」と共謀して無理やり実行に移したらしいが、講談社の記者にしてはたまったものではない。降格、左遷で済むレベルの問題ではないだろう。逆に小学館側にして見れば、「してやったり」で、大変な快挙であろう。「デカバナ武居」と異名を持つ武居記者の巨大な鼻も伊達ではなかったということだ。

これには、前兆はあった。
赤塚漫画の特性に大きく関わるが、一言で言ってしまえば、それはストーリーではなく、キャラクターを中心に描かれたものだからである。

例えばである、有名なキャラクターで、良くピストルを撃つ目玉の繋がった「おまわりさん」がいるのは誰もがご存知だろう。また、一世を風靡した「シェー!」の「イヤミ」、出っ歯のキャラクターと言えばすぐにお分かりのことだろう。それでは、そのキャラクターたちが、どの赤塚漫画に登場するキャラクターか思い出せるだろうか。

その答えは、実はないのである。もちろん、彼らが初めて登場した赤塚漫画は存在する。
目玉の繋がったおまわりさんは「天才バカボン」であるし、イヤミは「おそ松くん」である。それでも、そのキャラクターたちは、紙面狭しと、自由に赤塚漫画を行き来するようになるのである。
おでんが大好きな「チビ太」、頭に旗をなびかせる「ハタ坊」、大口の「ダヨーン」、ちょび髭でパンツ1枚の「デカパン」、鰻と犬から生まれた「ウナギイヌ」、東大紛争でトレードマークにもなった日本一有名な猫「ニャロメ」、遂には「バカボンのパパ」まで、赤塚漫画に国境はない。

元々キャラクターが行き来しているので、いっそのこと全部持ってきてしまおうという発想から、連載中の人気漫画の連載誌を変える、という画期的な試みに辿り着いたと想像できる。

このことは、山田漫画にも共通しているではないか。向かうベクトルこそ異なるが、赤塚漫画も山田漫画も、そのキャラクターの強烈なオリジナリティが国境を外してしまうのだ。また、全く関係はないが、その「天才バカボン」事件の当時、「赤塚不二夫」はペンネームを「山田一郎」に変更していたと記憶する。「山田」とは、如何にも大雑把で無国籍な名前ではないか。どこにでもある名前だからこそ、逆に何にも捉われないという意思表示であったのではないか。「山田」=「自由」とは考え過ぎか。

余談が随分長くなってしまったが、1993年1月に発行された「花咲ける孤独」は、山田花子の追悼作品集といった内容で、「ガロ」に発表した作品を中心に、未発表作品、そして1992年1月8日号から5月14日号に秋田書店ヤングチャンピオン」に連載された「ノゾミカナエタマエ」が全話収録されている。この作品は、山田花子生前の最後の連載作品である。なるほど、この追悼色が強い作品集で、「マリアの肛門」の残り全話を収録することは適わなかったと頷ける。

1998年1月に青林工藝社から発行された「からっぽの世界」は、「山田花子 最後のマンガ作品集」と銘打ち、言うなれば今まで単行本化されていない短編漫画を掻き集めた印象の作品集である。ここで、「マリアの肛門」の未収録だった話を一気に収録した、そうした事情により、「マリアの肛門」は3冊の単行本に分かれて収録されたわけである。

「マリアの肛門」であるが、連載当時は主人公がはっきり定まらず、強いて言えば、「修羅の図鑑」の延長上にある連作漫画だった。ただ、舞台は学園ではなく、社会人生活になっている。このことは、青年誌である「リイドコミック」の読者層を意識したためだろう。
あのルリ子がOLとして登場、相変わらずの小心さを発揮していること、楳図の呪縛も解け、ようやくボーイフレンドができたヒヨ子も、一切自己主張できないまま、大人になっても何ら変化もないダメ人間さを晒している。

ここで、注目したいのはたまみである。第9話に当たる「自由への飛翔」の中で、登場するたまみは、「たった一度だけ掟を破って心からやりたいことをした」と、リイド社の屋上から飛び降りてしまうのだ。「神の悪フザケ」で、高校生のたまみは、マンションの屋上に上るも、怖くなって死ぬことすら諦めた経緯がある。大人になって、それを吹っ切ったのである。
血塗れになったたまみに野次馬が集まる。野次馬たちは言う、「見ろよ、満足そうな笑顔・・・」と。
なるほど、「神の悪フザケ」の中で、ただの一度も見せなかった笑顔がそこに描かれている。あの、自信なさげな卑屈な笑顔ではなく、本当に満足した満面の笑みがそこにあるのだ。

ここで、飛び降りるのが出版社のビルの屋上というところに、山田花子の暗黙の意思を伺うのは私だけではあるまい。

少し戻るが、第6話の「HOW TO LOVE」であるが、この見開きの2ページの漫画が、山田花子の恋愛感を素直に物語っていると考える。

主人公の「エバ」は、植木のサボテンが進化し、長い黒髪の美しい大人の女性として花を咲かせている。同棲する彼氏はサラリーマンの「善太」、もちろんエバの世話をする。エバは、元々はサボテンであるが、今は人格のある人間となっているので、普通に食事が必要なのだ。
「善太さん、あたしの世話をするのが面倒なら捨ててしまっていいのよ」とエバが言うと、善太は烈火の如く怒り、部屋を出て行く。「大丈夫なのヨ」と、エバは、かすかに微笑む。エバには、善太が帰ってくることがちゃんと分かっているのだ。

山田花子の、理想的な男女関係だろう。このことは、総括して後述するが、男性不信にして男性恐怖症の山田花子は、その影響からセックス恐怖症であったと考えられる。ただし、やはり彼氏は欲しい、適度な依存はしたい、そんな思いが、エバを植物にしてしまったのだろう。一人は寂しい、嫌だ、それでも二人は重いのだ。

その後、「マリアの肛門」は、「純子」という、山田花子同様に観察眼の高いOLを中心に進められる。純子は、今までの山田漫画のキャラクターとは打って違い、美女で仕事ができそうなキャリアウーマンであり、結構攻撃的な性格を持つ、言うなればいじめっ子タイプのOLである。ただ、この純子も、山田花子の分身に他ならない。

昼休み、ランチタイム、純子は、同僚のOLたちとランチを食べに行く。今日は給料日なので、少し贅沢をして高級フレンチレストランで食事をする。同僚たちは、美味しいと満足気だが、純子は、みんなが豚小屋でエサを食う豚に見えてくる。「いくら気取って食事をしたって、しょせんエサを食ったら醜い獣に戻っちゃう」と、純子は気がつく。

疲れ目が酷く、薬局で買った目薬を注すと、世の中が全て醜く見えるようになる。ハンサムな彼氏はだらしない不潔男に、通勤時に通る銀座の街並みは廃墟に、会社では、同僚たちは妖怪、怪物に、そしてもらった給料の中身は何と木の葉と貝殻であった。純子は気づく、「そうか!これは心眼を開く目薬だったんだ」と。

「ハイセンスでキレる女」だと、純子が一目置く同僚OLがいる。ある日、疲れ目から目薬を注して、ふとその同僚を見ると、そこに映ったのは大きな赤ん坊だった。「魂は赤ん坊だったんだ・・・」、純子は今更腹を立てる。

情熱的なラブレターをもらい、送り主に会う純子だが、あまりにも自分の好みとかけ離れ過ぎた男性なので、キッパリとお断りする。それでもしつこく迫る彼を、例の目薬を注して見ると、それは醜い昆虫である。「こいつう、虫のくせに人間語しゃべってんじゃねーよっ!」と、純子はハエタタキで彼を撃退するのであった。

燃えないゴミの日に、古くなったマクラを捨てる純子だったが、勤務中も、そのマクラのことが気になって仕方がない。長年使い古したボロボロのマクラが泣いているのだ。純子は、居ても立ってもいられなくなり、仕事をそっちのけで、ゴミ捨て場に向かう。何とか間に合い、純子は、「今の私にとってはマクラが一番大事なの」と抱きしめる。

山田花子に、目薬は要らなかったはずである。彼女は、この程度の事象であれば全てが見えていた。「なにしろ他人の心の中を見透かす視力は千里眼的」と言うのは、山田花子が敬愛して止まない「根本敬」の言葉である。それは山田花子の孤独を増殖させるという不幸も伴うが。

何を信じろと言うのだろう。
「マリアの肛門」を読んで分かる通り、どんなハンサムで素敵な男性も上部だけであり、自分に恋焦がれる男性は昆虫である。同僚は所詮醜い豚で、あるいは妖怪、怪物の類で、唯一認めた同僚も、良く見ると赤ん坊だ。全国共通の価値として揺るぎないはずの現金でさえ、木の葉とどこが違うのか。山田花子の人間不信は、そのまま社会不信に発展する。
その中で、山田花子が信頼したのは、使い古しのボロボロのマクラだけだったのだ。

純子の恋愛感について、少しだけ掘り下げてみよう。これは、山田花子の実体験の恋愛とはやや開きがあると思えるが、恋愛に対しても不器用な彼女は、いっそ恋愛をこう捉えた方が楽だったのだろうと推測できる。

純子は言う、「男は利用する道具」であると。「表面は適当に甘えて心はガッチリつかんでおき、実は一秒たりとも気を許さないの」とも言う。他のボーイフレンドとキスをしている現場を見られたって怯まない。「私の愛はマコトさんオンリー!!」と凄むと、大抵の男性は折れる。「男の子だって信じていたいのよ」、純子は見透かしているのだ。
レストランで、食べるだけ食べたら支払は彼氏に任せ、サッと席を立つ。「調子に乗ってきたらビシッとシメておきましょう」、純子は滅多に一線を越えない。

マコトのために自分の部屋で料理を作って待つ純子は、「私って女の子みたい」と満足気である。しかし、約束の時間を過ぎてもマコトは一向に現れない。やきもきする純子だったが、何時間か過ぎて、ようやくマコトから一本の電話が入る。「残業で遅くなっちゃって」とマコトは弁解するが、マコトの遅刻は頻繁に起こるため、純子は、「これからはマコトさんが休みの日だけデートしましょ」と半ば強制的な提案をする。更に、「待ち合わせ場所はキッサ店にしましょ」と突き放す。もちろん、その提案に憤慨するマコトであったが、純子は、「文句があるならいつでも別れたげる。スペアならいくらでもいるもの」と強気の態度を崩さない。ただ、内心はビクビクと冷や汗をかく純子だったが。

そんなある日、マコトとのデートで、泣き喚く赤ん坊を見て、「赤ん坊の泣き声ってイライラしてくる」と言う純子に、「俺は、やさしいから気にしないね」とマコトが応える。「それじゃ、まるで私がやさしくないみたいじゃん」と内心思う純子だが、その怒りを押し殺す。そこに、ポツンと雨が降ってくる。「イヤ〜ン、おニューのスーツがシワになっちゃう〜」と純子が訴えると、今度は、「俺は割りと物の対する執着がうすいもの」とマコトは切り返す。ここで、純子のイライラは積もり、爆発する。「てめえ、いい加減にしやがれ!! さっきから黙ってりゃいい気になりやがって!!」と、純子はマコトを殴る、蹴る。そして、「あなたのおかげでせっかくのデートが台無しよ!!」と捨て台詞を残して、路上で血塗れのマコトから去って行く純子であった。

山田花子にとって、純子は理想の女性像である。絶対に自分にはできない男女関係がそこに存在するのだ。

それは、単純に言えば女性主導型の恋愛関係である。今までの山田漫画に登場する女の子たちを振り返って見よう。たまみ、ヒヨ子、桃子、ルリ子、彼女たちは一様にして男の子の玩具であった。言いたいことも言えず、男の子の為すがままであった。最後に純子が爆発したのは、彼女たちの溜まりに溜まったストレスからなのだ。

また、自分の部屋でマコトのために料理を作る純子は、「私って女の子みたい」と発言している。山田花子は、純子を、普通の女の子とは位置づけてはいないのだ。普通の女の子は、やはり恋愛では主導権が握れない、そう思っているのだ。いくら純子という理想の女性像を創造しても、そのラインは越えられなかったのだ。この些細なことにも、山田花子の恋愛に対する弱さ、臆病さは露出している。

そして、ぶち切れた純子は、もちろんマコトとは破局を迎えるわけだが、すぐにスペアは現れる。眼鏡でニキビ面、今一つパッとしない印象の「民夫」である。

まだ交際して間もない純子と民夫のストーリーは、8話に渡って描かれている。ここに描かれる純子は、マコトに対する妙に尖った感情が緩和され、少しだけしおらしい女の子の一面を見せている。サブタイトルも、「私ハ、アナタノ愛玩動物デス」と、山田花子が理想の女性像を投影した純子と同一人物とは思えない変貌ぶりである。

交際し始めたばかりの民夫は、男の子としては正常なことであるが、純子の肉体に興味深深である。民夫は、民夫の部屋で寝入ってしまう純子の下着を脱がし、いろいろな角度から眺めて、「フムフム。なるほどこうなっているのか」と納得する。そこで目が覚める純子は、民夫に虫眼鏡を差し出す。

純子が可愛くて仕方がない民夫は、純子の顔をいじり遊ぶのだが、熱中する民夫は純子の肉体にも複雑なポーズをとらせ、やがて純子の肉体はパブロ・ピカソ調のオブジェになってしまう。

この話を読むと、民夫はまだ童貞で、成熟した大人ではないことが分かる。漫画の中で、民夫は純子に「愛しているよ」と何度か囁いてはいるが、どうもこの発言も眉唾である。実際に、民夫は、寝入っている純子を撫で回しながら、「コイツは俺だけのペットだぜ」と言っている。民夫にとって純子の位置づけはペットで、厳密に言えば恋愛の対象ではない、否、成熟していない民夫に恋愛というカテゴリーさえ存在しないのだ。
成熟していないため、逆に民夫には性的な欲求も欠如しているように思える。初めて目にする女性性器を、まるで昆虫採集の標本でも見るかのように観察する民夫は、まるで去勢されているかのようだ。その辺りの淡白さが、あの純子の警戒心を解くのか。

そんな民夫に、純子がいつまでも付いて行くとは思えない。もちろん、早々に別れは訪れる。民夫は成熟していないのだから当たり前のことだが、交際するに連れ次第に我侭になって行くのだ。何度も別れ話を切り出す純子だったが、「ちゃんと説明してくれなきゃ、こっちだって納得できないでしょ!!」とか、「今からキミの妹に電話かけるから事情を説明してどっちが悪いのか聞いてみろよ」とか、民夫の馬鹿馬鹿しいくらい子供の意見に、いつも煙に巻かれてしまう。

民夫と別れた純子は、あの「ハイセンスでキレる女」の同僚のOLに自分の恋愛感を打ち明ける。「運命の出会いとか、神様の決めた相手とか・・・そんなもの、子供の幻想だったのよねエ」、「異性を好きになる理由なんて、その場のノリやタイミングなのよネ」、「恋愛なんか、一時だけ楽しければいいゲームなんだってやっと気付いたの」と語る純子に、「もともと運命とか信じないヒトだからさー、今の彼氏とは、会えてよかったネ、って言い合ってるしイ・・・恋人同士と言ったってしょせんは他人でしょ?」と「ハイセンスでキレる女」は応える。純子は、自分の恋愛感がまだまだ幼稚であると思い知るのであった。

この、純子と民夫のストーリーには、山田漫画としては過剰とも思われるヌードカットが登場する。これも、青年誌である「リイドコミック」の読者層を意識したサービスなのだろう。
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。