荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載18)

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偏愛的漫画家論(連載18)
山田花子
 「誰にも救えなかったオタンチンに再び愛を」 (その⑤)

荒岡 保志漫画評論家

柏の古書店「太平書林」にて。 撮影・清水正
「マリアの肛門」に続き、「ガロ」1990年7月号に掲載された「オタンチン」は、読み切りの短編漫画として発表されたが、その後、「バチあたり」、「問題児」、「ナチュラル・キッド」、「バカの時代(増刊号)」、「馬鹿は死んでも治らない」などを続々と発表し、「オタンチン・シリーズ」と銘打った連作短編漫画となっている。

また、「マリアの肛門」と同様に、このシリーズも何故か1冊の単行本に纏まらない。「ガロ」の1990年7月号から12月号まで6ヶ月に渡って連載された、6話のみのシリーズにも関わらず、収録された単行本は3冊に渡る。

発表順に追うと、「オタンチン」、8月号掲載の「バチあたり」は「花咲ける孤独」、9月号掲載の「問題児」は「からっぽの世界」、10月号掲載の「ナチュラル・キッド」、11月号掲載の「バカの時代(増刊号)」は1995年11月に発行された青林堂版の「神の悪フザケ(改訂版)」、12月号に掲載されたオタンチン・シリーズ最終回と銘打った「馬鹿は死んでも治らない」は「花咲ける孤独」と、これも実に複雑な収録形態をとっている。これは、多分、「ガロ」掲載時には単発の短編漫画として取り扱われたためだろうと想像する。

この「オタンチン・シリーズ」は、「ガロ」掲載時期の代表作と言っていいだろう。

主人公は小学校4年生の「栗山マサエ」、本来なら特殊学級で授業を受けなければならない少し足りない女の子である。いくら掲載誌が「ガロ」だったと譲歩しても、この設定は類を見ない。しかも、山田漫画である以上いじめの対象にされていることは容易に想像できる。そして、もう一人、マサエのクラスメイトで、一応はマサエの友達として登場するが、実は意外と冷ややかな目でマサエを見ている「山本ヨーコ」、言うなれば山田花子の分身である。

ただし、第1話に当たる「オタンチン」では、設定が漠然で、単純に頭の悪い小学生、そのための不器用な小学生として描かれている。やはり自己主張は不得意で、些細なことをクラスメイトに責められ発狂したように暴れる。先生から、「もう4年生なんだからもう少ししっかりしてもらわないとナ」と説教を受ける。そのまま中学校に進学するが、陰口で、「あいつ小4の時発狂したんだぜ」と後ろ指を指される。

この第1話は、あきらかに独立した作品である。元々、シリーズとして主人公をマサエで固定しようという意思はなかったように思える。実際に山田花子の体験から生み出されたキャラクターであると想像するが、その、頭の悪いマサエの、それこそオタンチンな行動に興味を持って描かれたのだろう。ただ、この第1話だけを見ると、先生の「しっかりしてもらわないと」、また、中学校に入って、クラスメイトの「少4の時発狂した」という発言から、一応は普通学級の生徒だったことが分かる。

第2話の「バチあたり」は、再び小学生時代のマサエに戻る。「女のよオ 股の間ってどうなってんのかなア」というクラスメイトの男の子たちに、「パンツを脱いで見せて下さい」とお願いされるマサエは、「一生のお願い」とあまりに真剣な態度に負け、ゆっくりとパンツを下ろす。その途中、「脱いじゃダメ!」と直感が走り、マサエはパンツを下ろすことを止める。「何でだよオ〜今更」と起こる男の子から、慌てて逃げるマサエであった。

「問題児」では、マサエは小学5年生に進級している。ここで、初めて、マサエが智恵遅れであることが描かれている。クラスの授業で、マサエだけが小学校2年生の勉強をしているのだ。やはりクラスメイトからはからかわれ、その度に発狂するマサエである。ここで登場するヨーコは、「マサエみたいな子には親切にしてあげなきゃいけないんだ」と、マサエと距離を置きながらも優しい一面も持つ。ただ、内心、マサエが発狂して問題が起きることを楽しみにもしているヨーコである。

ナチュラル・キッド」、「バカの時代(増刊号)」に登場するマサエは、「問題児」の流れをそのまま受け、何をやらせてもずれが生じ、当たり前のことであるがクラスからは浮き続ける。
バレーボールの試合中にふらふらとどこかへ行ってしまったり、授業中に一人で急に笑い出したり、全く意味不明の作文を書いたり、とにかくその行動に一切のルール、規制がない。
その中で、マサエを援護するクラスメイトも現れる。「みんな笑うなよオ!かわいそうだろ!」、「やめなさいよ、からかうの」という正義の味方たちである。「人を差別しちゃいけないんだよ!」と声を上げるクラスメイトに、「ばかな奴らだ」と一笑するヨーコである。「この世に、必要のないムダな人間なんかいません、誰でも目的があって生まれて来るんです」という先生の言葉に、「存在には目的が必要なのかー」とまるで他人事のように聞き流すヨーコは、「マサエなんか、人間の形したエテコーだよ〜だ」と切り捨てる。
マサエを援護するクラスメイトは、遠足の組み分けでも積極的にマサエを仲間に入れる。しかし、マサエにそんな優しさが通用する訳はなく、案の定、マサエは遠足先でも行方不明になる。マサエが見つかったときにはもう夕方過ぎであった。やっとのことで帰宅したヨーコであるが、何と自分の家が燃え上がっているのを見る。火事である。この火事で、父と母は死んでしまう。周囲から同情を受けるヨーコであったが、当のヨーコは何とも思わず、葬式も泣きまねで済ます。

ヨーコは益々ドライになって行く。とても小学生とは思えないドライさである。ここまで読むと、ヨーコのドライさは家庭環境に起因していることが読み取れる。また、クラスメイトからからかわれるマサエの存在は、ヨーコにとっては必要だったことも分かる。マサエはヨーコの隠れ蓑である。冷ややかにマサエを見るヨーコではあるが、そのいじめられっ子の中に自分自身を投影しているはずだ。「明日は我が身」である。また、「存在には目的が必要なのかー」とボーっするヨーコは、この漫画を描いている、まさにその瞬間の山田花子の問いだったであろう。

そして、「オタンチン・シリーズ」の最終話である「バカは死んでも治らない」であるが、これには壮絶な最後が待っている。体育の授業で、来週行われるダンスの練習をするクラスであるが、マサエの手を握るのを拒否する男の子がいる。「バチあたり」で、マサエのパンツを脱がそうとした男の子である。そのことでクラス全員が先生に叱責されるのだが、怒る男の子は、放課後マサエを待ち伏せ、何とカッターナイフで切り刻んで殺してしまうのだ。たまたまその現場を通りかかったヨーコは、遠くで「ギャ〜!」と叫ぶマサエの声を聞いているが、平然とチョコレートを舐めている。
翌日、マサエの机の上には花を生けた花瓶が置かれる。

ドライにも歩度があるが、子供の持つ残虐さ、ということか。ヨーコにとっては、マサエはエテコーだったのだから。バカは死んでもバカのままであった。また、もう一方で、いじめに対する恐怖感を描いている。いじめる方にとっては遊びの延長かも知れないが、いじめられる方は死の恐怖を味わっている、一歩間違えば死に直結する、ということを訴えているのだ。
荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。