荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載20)

ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本
荒岡保志の山田花子論は今回が最終回。次回は、偏愛的漫画家論は一時中断して「志賀公江論」を連載する。今まで本格的な志賀公江論はなかったので、大いに期待している。

偏愛的漫画家論(連載20)
山田花子
 「誰にも救えなかったオタンチンに再び愛を」 (その⑦)

荒岡 保志漫画評論家

山田花子は、この「ノゾミカナエタマエ」の連載中、精神分裂病と診断され、1992年3月4日より、5月23日まで、約2ヶ月半にわたり、桜ヶ丘記念病院に入院することになる。

そして、退院した翌日、5月24日の夕方、日野市百草の百草団地の11階から投身自殺をしてしまうのだ。享年24歳という若さである。

壮絶だ。
最後まで、山田花子の孤独な魂は誰にも救えなかったのだ。両親も、妹も、親戚も、恋人も、友人も、仕事仲間、関係者も、そして、入院先の主治医、看護士、誰にも彼女の魂を救うことができなかったのだ。唯一彼女を癒した、否、彼女の逃げ道は漫画を描くことだけだったのだ。

何度か前述したが、彼女の死後、1996年6月に、「自殺直前日記」というタイトルで、その入院中の日記、そして大小20冊に及ぶ覚書きの一部が公開されている。

これがまた壮絶である。
山田漫画と同様、否、それを遥かに超えるエネルギーを持つ日記で、濃縮されたその言葉の一つ一つが突き刺さるようだ。

この「自殺直前日記」の「精神病院にて 私が考えたこと&身近にいた人々との会話」と名づけられた冒頭の章に、彼女が入院する直前の1992年2月24日から、実際に投身自殺をした当日に当たる5月24日までが掲載されている。

日記の中では、自分のことを「ネコ」、もしくは「タマミ」と呼び、主治医は「オカマ」、看護士は「ナス」、母親は「マム」、父親は「ポチ」、妹の真紀は「ダンゴ虫」、同じ病院の入院患者たちは「タケノコ」、「ホリ」、「ブタ」、「先輩」、入院前に働いていた喫茶店の従業員は「タヌ公」、「ロバ」など、全ての登場する人々が擬人化されて書かれている。

ここで気になるのは、父親の存在である。自分自身はネコなのに、父親はポチである。ポチとは、言うまでもなく、一般的には犬に付ける名前であり、山田花子の、父親に対する閉塞感が感じ取れる。ある意味、血縁関係を否定する、ということである。そして、妹真紀、ダンゴ虫であるが、ここにも、山田花子と妹との確執が読み取れるだろう。


少しだけ、日記を読み進めてみよう。山田花子の、最後の孤独な魂の叫びである。

「最後の灯はマッチ売りの少女。もしかしたら会えるかもしれない。幸福になれるかもしれない。いつまでたっても待ち人来ない。もういやっ!」(2月26日)
「いじめられっ子は花。私はみんなを救うために花になれば絶対に死なない。私は花、みんなのためならへし折られても平気なの」(2月26日)
「人間のままで幸せになりたい」(2月26日)
「夢と希望は子供を惑わせるハメルンの笛吹き。信じるコオロギは子供達(夢想家)。いつも裏切られてもういやっ!でも歩いていけば幸福見つかるかも。私ってなんてあまいんでしょう」(2月27日)
「私は絶対あきらめない。でも生きていればいいことあるかも」(2月28日)
「ムダ死にしとーない。朝―小鳥のさえずり、希望(アサー!)。夕方―カラスがカー、カー、カー、望み捨てるな&もしかしたら幸福になれるかもネ」(3月3日)

入院前の日記から抜粋したが、自分自身が人間から何かへずれ落ちて行く感覚が現れている。ただ、漠然とした幸せを求めていたこと、死に対する恐怖感を持っていたことは窺える。

「生きるのに理由はいらない。絶望するなら死んじまえ。人生なんかどうせくだらない。幸せは実は背中にかくれている。嫌なことばかりでない」(3月8日)
「友達がほしい、守ってほしい。寂しい。一緒に夢を見てくれる人がほしい」(3月9日)
「生きるー耐える、我慢する。死ー諦め」(3月13日)
「この世ー弱肉強食。あの世ー平等」(3月14日)
「冬の寒さに耐えればきっと春がくる(甘い&クサイ&いい子ぶりっ子&空しい)」(3月16日)
「この世で困難を乗り越えた者は来世で幸福になれる。(心がけ)信じる者は救われる」(3月19日)
「こんな人生もういやっ!苦しいのはあんただけじゃあないんだよ。楽しいこと見つけよう」(3月23日)
「漫画家山田花子セミの抜け殻。詩人・鈴木ハルヨとして再出発する」(3月27日)
「とりあえず、何とか今日も生きてみよう」(3月29日)

幸福を求め、何とか生きようと書く山田花子は、もうすっかり死に取り付かれていることが読み取れる。山田花子は抵抗しているのだ、少しでも気を抜けば、死が足元に迫っていることは充分承知の上なのだ。

「何の希望もないけれど、今日も一日生きていてみよう。死ぬよりマシかもしれない」(4月4日)
「来世ではきっと幸福になれますように」(4月10日)
「途中でやめたもの。高校、ステンドグラス、まんが学院、劇団、ピアノ、声楽、ギター、マンガ家(?)、絵本学校、キーボード、高校の演劇部」(4月17日)
「何故こんなことになってしまったのか&これからどうしたらいいのか」(4月28日)
「私は一体何を待っているんだろう。今までの私の人生は何だったの。これからどーしたらいいのか?」(4月30日)
「退院したら毎日どーやって生きていったらいーのか」(5月17日)

この日記を読むと、症状は日増しに悪化しているのではないか、とさえ考えてしまう。唯一の生きがいと言っても過言ではない漫画であるが、それさえ、途中でやめたもの、の中に含まれているではないか。それでは、本当に「どーやって生きていたらいーのか」である。しかも、5月22日、すなわち退院する前日の日記であるが、「召されたい理由」と題して、死を受け入れた理由を、箇条書きに7項目に分けて整理しているのだ。

① いい年こいて家事手伝い。世間体悪い、やっかい者、ゴクツブシ。
② 友人一人もできない(クライから)。
③ 将来の見通し暗い。勤め先が見つからない(いじめられる)。
④ もうマンガかけない=生きがいがない。
⑤ 家族にごはん食べさせられる。太るのイヤ。
⑥ もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい(無力感、脱力感)。
⑦ 「存在不安症」の発作が苦しい。

私は精神科医ではないので、もちろんここで批判めいたことを書くつもりはないが、この日記を素直に読むと、これは相当追い詰められているように思える。特筆すべき項目は、もうマンガがかけない、というところであろう。漫画は、山田花子の唯一の逃げ道であったはずだ。これでは、彼女の退院直後の投身自殺は寧ろ必然であったのではないかと思われても仕方がないだろう。

この「自殺直前日記」は、ご家族の全面的な協力により編集、出版され、ご両親も自ら寄稿している。「高市由美(山田花子)最後の日々」で、父俊晧は、「特に心身に障害はなくても、この世ではいくら努力しても、生きていき難い人達がいることを知った」と、そして「私の一番長かった日」で、母裕子は、「ナップザックを背負い、ハンドバッグを持ち、ベレー帽の下から三つ編みをたらして、玄関から、ただいま、と、由美が帰ってきそうな気がする」と、何度読み返しても胸が熱くなる思いが伝わってくる。山田花子、こと高市由美は、かなり恵まれた家庭環境で育てられたことは間違いない。ただ、その家族の思いは、彼女の魂に届くことはあったのか。

答えはNOである。
「親切=お節介。心配=ありがた迷惑。ドラマごっこはうっとうしい」とは、「自殺直前日記」の「花の言葉・寸言集」の冒頭にある言葉である。

漫画誌には発表されなかった、「子リスの兄妹」という作品がある。「さあ、ゴハンにしよう」と兄が妹「チョロ子」に差し出すご飯は、ドロリとしたスープ状で、「どうしちゃったの、これ!?」と妹が問うと、「チョロ子が虫歯が痛い云ってたから食べ易いようにかみくだいておいたんだけど・・・」と兄は答える。「こんなもの気持ち悪くて食べられますか!!」とチョロ子は激怒し、スプーンを投げつける。申し訳なさそうに、「お兄ちゃんのしたことって大きなお世話だったの?」言う兄に、「ウ・・・」と言葉を飲み込むチョロ子であった。また、チョロ子が朝目覚めると、何と全身の毛がツルツルに剃られている。「キャーッ、何よ、これ!?」と驚くチョロ子に、「チョロ子が寝汗かいて暑苦しそうだったから剃ったんだけど・・・」と兄は言う。憤慨するチョロ子に、「だけどね・・・お兄ちゃんはお前の為だと思ってやったんだよ」と、兄は瞳をキラリとさせる。チョロ子は、「グ・・・」と言葉を抑えるのが精一杯である。

親切とお節介の相違は、ここまで極端な表現であると大変分かりやすいのだが、実際にはそこに微妙なラインが存在する。ただし、山田花子にとっては、そんなラインは関係なかったのだ。山田花子にとっては、全てがお節介だったのだ。
この「子リスの兄妹」のタイトルの一コマ目であるが、「森の木の穴に子リスの兄妹が暮らしていました」という件で、「やさしい兄」と「ワガママな妹」と紹介している。これは逆説である、否、山田花子の強烈な皮肉である。

「シンドバット」1990年5月号に発表された「ジョン&ミーコ」では、「今晩ミーコの部屋に泊めてもらってもいいかな!?」と言う穏やかそうな犬の「ジョン」が、恋人のキュートな猫の「ミーコ」の部屋に遊びに行くところから始まるのだが、煙草を吸うミーコに、「女の子がタバコなんて!よしなさい」とか、部屋を掃除するミーコに、「もう少しノンビリした方がよさそうだよ」とか、かなり柔らかい口調で話しかけてはいるのだが、コマの中でもジョンはその存在がどんどん広がって行く。そして、「ぼくは何も命令しているわけじゃないんだ」というネームのコマでは、ジョンの存在感は、もうそのコマいっぱいに広がってしまっている。

ジョンはそのまま、ポチ、すなわち山田花子の父親であろう。もちろん、悪気はない。命令するつもりもない。口調も穏やかである。それでも、山田花子は耐えられなかったのだ。その繊細で孤独な魂は、その家族の善意さえ受け入ることができなかった。家族の愛でさえお節介だったわけだ。

父親、そして母親の愛情さえ拒絶し続けた山田花子。もちろん、恋人や友人の愛情も、彼
女に届くはずもなかった。それでも、彼女は「自殺直前日記」の中でこう書いている。
「友達がほしい、守ってほしい。寂しい。一緒に夢を見てくれる人がほしい」
ここで、本当に山田花子のことを理解し、同じ夢を見てくれる人が現れたら、そして、彼
女に手を差し伸べていたら、山田花子が自ら命を絶つまでに至らなかったのではないか。

この答えも、NOである。
彼女は、決して、誰にも手を差し伸べることはなかっただろう。決して、自らを救うことはしなかっただろう。リアルな死だけが、彼女の苦悩を、無力感、脱力感を開放する唯一の方法だった。リアルな死だけが、彼女の本当に孤独な魂を癒す、唯一の方法だったのだ。

再度、「根本敬」の言葉を借りる。
山田花子は、絶望、絶望、絶望に次ぐ絶望、更に幾つかの絶望を超えた果てに、燦然と
輝く桃源郷がある事を予見していた節もあるのだが、生きながらえたままそこに辿り着くには、気力、体力共、余りにしんどかった」

そして、山田花子の死後、青森県の恐山で、口寄せにより彼女と再会を果たす「根本敬」に、彼女はこう語るのだ。
「誰も恨んでないからね。わかったでしょ」

誰にも救われなかった孤独な魂を持った漫画家山田花子。きっと今頃は、「マリアの肛門」でやっとの思いで投身自殺と遂げるに至ったタマミ同様、満面の笑顔で、「くだらない人生」をせっせと生き続ける我々を見下ろしているに違いない。

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)、漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。
現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。