荒岡保志の偏愛的漫画家論(連載24)

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偏愛的漫画家論(連載24)
華倫変
 死に憑かれたカルト漫画家は極楽に辿り着けたのか (その④)

荒岡 保志漫画評論家


●「桶の女」に表現される宇宙論


前回、華倫変処女作品集「カリクラ」から、この作品集の脇を固める異色作品をご紹介したが、ここで、華倫変の本骨頂、と断言出来る傑作を批評したい。それは、「カリクラ」第4話「桶の女」である。私は、この作品こそ華倫変の最高傑作、代表作と推す。華倫変の、その死生観には圧倒される。

時代は江戸時代。場所は郊外。新田の開拓の為、多くの人足が集められ、その作業現場の近くには多くの娼婦たちが集まり、遊女町のようになっていた。中には、ゴザだけ持って商売をする夜鷹まがいまで集まっている。
主人公は「サヨ」、サヨの商売の場所は桶の中であった。「思えば呑気な仕事なものですよ」、サヨは言う。買う人がいれば商売をし、いなければ一日中桶の中で寝て暮らす生活。そして、ここにいる人たちは皆過去にひと騒動あっただろう曲者揃いである、その中で自分の過去なんかはごくありふれたものだ、と思い安堵するのだ。
サヨは未だ若い。十代半ばか、後半ぐらいだろう。曲者が集まる娼婦たちは、ためらい傷があったり、美人ではあるが妙齢、また殆ど幼児、若いサヨも、ここに来るまでには思い出したくもない相当な理由があったろう。ここでサヨが安堵するのは、それを思い出さなくても良いからである。この中では、そのサヨの過去なぞは埋もれてしまう程度の出来事なのである。

そんなある日、この遊女町に「円乱」と言う名の老人の坊主がやって来る。人は良く優しいのだが、恐ろしく無頓着で、身体もずっと洗っていないようで臭く、酒に酔ってセックスの最中に大便を漏らしたりするので、娼婦から鼻つまみ者になっている。円乱を迎える物好きは、今ではサヨだけとなってしまった。
華倫変漫画に登場する女の子は、のべつ幕なしに頭が悪く、物事を深く考えない。しかも、その全員が、自分の頭が如何に悪いかを自己認識をしている。「ピンクの液体」のユカリは、「笑っちゃうくらい悪い」と言い、「電車がこない」の女子中学生は「頭悪いんですよー」と自己紹介、「赤い鎖骨」の西本は「どうせバカだし」と考える事を諦める。サヨも、冒頭で「頭の悪い私にはわからない」と言っている。その為に、華倫変漫画に登場する女の子は、全てを受け入れるのだ。良い言い方をすれば、無垢なのだ、否、考えたくない事が多すぎて、無垢にならざるを得なかったのかも知れない。

その遊女町で殺人が相次ぐ。そんな環境の町であるから、治安も糞もあったものではない。最近になってうろつく武士が、セックスの最中に娼婦の首を切り落としていると言う。「遊女の命なんざ結局のところゴミ屑だね」、娼婦たちは口々に言う。
そんな事件の横行も手伝ったのだろう、娼婦たちの間で念仏を唱える事が流行する。浄土の偉いお坊さんが来て教えてくれたと言う念仏は、「南無阿弥陀仏」である。そう唱えれば極楽に行けると言うのだ。
ここで、華倫変は、極楽とは天国のことではない、と解説している。それは、悟りを得たものだけが行ける仏国を指し、輪廻転生に関係なく永遠に居られる平安の地を指すそうだ。華倫変ご自身も、「南無阿弥陀仏」と唱えただろうか。

サヨは、早速「南無阿弥陀仏」と書いた札を、桶の中に貼る。「でも・・・どんな意味なんだろう?」と考えるサヨは、円乱にその意味を問う。円乱は、「阿弥陀仏にすべてまかせる」と言う事だ、と答えるが、自分は浄土門ではなく禅宗で、仏教は難しくて良く分からない、と濁す。更に「これ唱えれば極楽に行けるんですか?」と問うサヨに、「行けるかもしれないし行けないかもしれない、それは死んでみないとわからないですな」と答える円乱。「念仏無間、禅天魔」と言い、そう簡単なものではない、と円乱はサヨに説くのだ。
サヨは、「な〜んだ」と「南無阿弥陀仏」と書いた札を丸めて捨ててしまう。
「念仏無間、禅天魔」と言うのは、「日蓮」の言葉で、「念仏なんて唱えていると、無間地獄に堕ちる」と言う意味らしい。

円乱は、自分は破戒僧だと言う。放下着と言って、戒めも悟りも全てを捨てた存在だ、だから女も抱く、と言う。「放下着ってなんですか?」と聞くサヨに、「すべてを捨ててしまえということですよ」と、円乱はサヨを抱きながら答えるのだ。

全てを捨ててしまえ、全てを捨ててどうするのだろう、何になるのだろう、ぼんやりと考えながらおにぎりを齧るサヨも前に、真っ赤なカエルが飛んで来る。「あれ?」と思ってサヨが地面を見ると、サヨの股間から夥しい出血があり、地面に血の溜まりが広がっている。
医者に見せると、それは酷い花柳病の為である事が分かる。花柳病とは、性病、当時としては死に至る病である。どうやら、円乱に伝染されたらしいのだ。

サヨは、雨の中サヨの桶を訪ねる円乱に包丁を向ける。「どうして病気と知って私と・・・?」、サヨは円乱を責めるが、円乱自身も当初は病気の事は知らず、最近になって初めて知った、とサヨに詫び、「悪気はなかったんじゃ〜!!」と逃げるように雨の中を走り去るのだ。

その後、円乱は毎日のようにサヨの下へ花を持って見舞いに行く。桶の前に花を飾り、拝む。「ムダだよ坊さん、そんなところに花を飾ったって・・・サヨちゃんは寝返りも打てないくらい弱ってんだ」、娼婦たちは言う。それでも円乱は桶の前に鎮座し、いつまでも佇むのだ。

次の日、サヨが目覚めると、桶の中に花の絵が貼ってある。円乱が花の絵を描いて貼ったのだ。勿論、そんな事で円乱を許せはしなかったサヨは、こんなところで商売するしかなかった自分の過去も、こんなところで死んで行く自分の惨めさにも腹を立てる。そして、死んだ後は何もなくなるだろう、とぼんやりと思う。

そして夕暮れ、もう身体を動かす事さえままならないサヨが、円乱の描いた花の絵に手を伸ばす。「・・・でもいいのかな、ここには花があるし」、そしてサヨは思うのだ、「それでもいいのかな、ここには花があるし」。
空には鳶が舞い、桶の周りには花が咲き乱れていた。

賛否両論の作品であったと言う。華倫変ご本人は、「やりたいからやった」作品であったと書いている。私は、前述した通り、この作品こそ華倫変の本質に迫る、最高傑作であると断言する。一つは、華倫変漫画の共通のテーマである死生観、「死に逝く者」の論理がストレートに描かれている事、もう一つは、華倫変の初めて描く宇宙観であろう。

言うまでもなく、宇宙の広さは無限ではない。勘違いされないように記すが、宇宙科学的根拠で言っている訳ではなく、文学的、哲学的根拠を持って申し上げている。そして、その宇宙の広さには明らかに個人差が存在する。
サヨの宇宙は、桶である。「南無阿弥陀仏」と書いた札を貼って、他にも宇宙がある事を空想する場面もあるが、円乱に、それはわからないと言われると、「な〜んだ」とあっさり諦めてしまう。そして、桶の中に戻る。そこが自分の宇宙だからだ。そこに安堵があるのだ。

その宇宙に、花がある。サヨは寝返りを打てないほど衰弱している。「それでもいいのかな、ここには花があるし」、サヨは思う。満足する。眠れる。
「ピンクの液体」同様、「死に逝く者」の論理である。こんな商売するしかなかった自分の過去、こんなところで死んで行く自分の惨めさに腹を立てる。少しだけ空想した別宇宙、極楽の存在根拠はない事は理解している、死んだ後は何もなくなるだろうと思う。それでも、自分の宇宙には花がある。サヨにこれ以上の事を求める必要はない、サヨは安らかに眠りに着くのだ。

荒岡 保志(アラオカ ヤスシ)のプロフィール
漫画評論家。1961年7月23日、東京都武蔵野市吉祥寺生まれ。獅子座、血液型O型。私立桐朋学園高等学校卒業、青山学院大学経済学部中退。 現在、千葉県我孫子市在住。執筆活動と同時に、広告代理店を経営する実業家でもある。
漫画評論家デビューは、2006年、D文学研究会発行の研究情報誌「D文学通信」1104号に発表された「偏愛的漫画家論 山田花子論」である。その後、「児嶋 都論」、「東陽片岡論」、「泉 昌之論」、「華 倫変論」、「ねこぢる論」、「山野 一論」などを同誌に連載する。