山下洪文 清水先生と私

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水先生と私
山下洪文

 

文学批評理論の一つに、原型批評というのがある。人間・ 歴史を、深層で支配する「原型」  それを光源として、 「文学」の本質を発見しようとする方法である。清水正の批 評は、これを限界まで拡張したものとして把握することがで きる。たとえば清水は、「わたしは『ドラえもん』論の延長 として『オイディプス王』論の続編を執筆したのである (1) 」と 記している。二千五百年前の悲劇詩人と、現代の人気漫画家 は、彼の批評空間においては等価なのだ。
 
原型批評は、その視野から「現在」が欠落するという、致 命的弱点を持っている。清水は、「現在」の視座から「神話」 を手繰り寄せる。また、「神話」の視座から「現在」を抉り 出す。彼は手塚治虫の漫画『罪と罰』を、本家のそれと比較 研究する著書も物している。原型批評は、清水において異数
神的微笑の領域に突入したと言えよう。
 
ところで、この未踏の場所に立つ主体は、いったいどんな 顔をしているだろうか?   清水は「ドストエフスキーのよう な小説家を理解するには百年、二百年の年月を必要とする (2)」 と書くが、これは、己こそが数世紀ものブランクを埋める批 評家だという矜持のあらわれと見ていい。だが、そんな不可 能事を目標に据える人格とは何者だろうか?
 
ここからは、個人的な断想を記したい。つまり、批評家清 水正でなく、大恩ある清水先生に向けての言葉を書いてゆき たいのだ。
 
先生は、面白いことが起こったわけでもないのに、ふいに 笑顔になることがある。その印象が脳裏に焼きついているた め、私が先生を想起するとき、いつも、その顔は不思議な微笑を浮かべているのだ。私に微笑みかけているのだろうか?
 
これは、私に愛嬌がゼロであるという理由から、却下され る。石田英一郎の言う、「日本人独特の不気味な笑顔」だろ うか?   だが、数千年もの時間にさえ囚われぬ先生が、日本 的「世間」に染まっているなど、ブラック・ジョークにすぎ まい。
 
私はその仕草を、神を欺こうとするものではないか、と考 えてみたい。先生は、つぎのように書いている。「オイディ プスが両の眼を潰したことは、彼が〈アポロンの神託〉に屈 したことを意味しない。むしろオイディプスは両の眼を潰す ことで神々へ向けて反逆の牙をむいたのである。わたしたち は深く歎くオイディプスの顔を、真下から覗きこみ、彼の不 敵な笑みを見なければならない (3) 」。
 
オイディプスの「歎き」は、神への反逆の意志を秘めてい る。そこには「自分を神、否、神以上の存在へと高めようと する野望 (4) 」が潜んでいる、と言う。先生の微笑こそ、この 「歎き」に類するものではないか。笑ってみせることで、「意 0 味そのもの 00000 さえ峻厳に拒む идиот」 (5) の如くふるまうことで、 「運命」を「拒否 (6) 」しているのではないか。あるいは、この 世界を笑うことで、「神」と同一化しようとしているのでは ないか。それこそが、先生を「狂気に陥ることのないイヴァ ン (7) 」たらしめたのではないのか。

 オイディプス王論を書いているあいだ、先生は、記した言
葉を「何ものかが打ち返してくる (8) 」のを感じたという。数千 年を隔てた、言葉のキャッチボール    しかし、なぜそこ までしなければならないのか?   過去との対話が、神への抗 議が、なぜ重要なのか?   その答えは、『ドストエフスキー 論全集』『宮沢賢治論全集』のなかにある、としか言いよう がない。そこで先生は、幼時の原体験や、無惨な別れのこと も語っている。そのエピソードを冷静に語る自信が、私には ない。ただ、つぎの言葉は、文学を「生」の中心において きた私たちにとって    清水先生を師に、歩んできた私に とって    、ひとつの救いである。 「ことばにならない憤りや、悲しさや、くやしさを胸いっ ぱいつめこんで、わたしは歩き続ける。多分歩き続けるだろ う 。その足跡がつづくかぎり、私たちもそれを追いかけてゆく だろう。

(1)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二〇一四年   D文学研究会   五八五頁

(2)『清水正ドストエフスキー論全集5『罪と罰』論余話』二 〇一〇年   D文学研究会   三九四頁

(3)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三八頁

(4)同 二三六頁

(5)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』二〇 一五年   D文学研究会   四五頁

(6)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』二三六頁

(7)『清水正ドストエフスキー論全集1「萩原朔太郎とドスト エフスキー体験」』二〇〇七年   D文学研究会   一八二頁

(8)『清水正ドストエフスキー論全集7『オイディプス王』と 『罪と罰』』五八一頁

(9)『清水正ドストエフスキー論全集8『白痴』の世界』五〇 二 – 五〇三頁
(やました・こうぶん  日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程芸術専攻在籍)