校條剛 毎日十五枚

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

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京都造形芸術大学准教授の牛田あや美さん。清水正研究室の前で。牛田さんは校條さんと同僚ということになります。

毎日十五枚
校條剛

 

清水先生は私の恩人です。先生には大きく二つ恩を受けた と思っています。当時学科主任の清水先生から、二〇〇四年 に日大芸術学部文芸学科の非常勤講師に呼んでいただいたの が、私の人生後半部の新たな展開の端緒となりました。この 原稿を書いている現在、私は京都造形芸術大学文芸表現学科 の専任教授ですが、ここに至るまでのきっかけとなったの が、日芸の非常勤講師であることは間違いのないところだと 思うのです。まったく大学で教えた経験のない人間を他大学 が教授として招聘するはずもないのですから、日芸で非常勤 講師を務めさせていただいたことは、私の経歴に新たな強み を加える助けとなったのです。これが、「恩その一」という ことになるでしょう。
 
出版社の新潮社でエンタメの文芸編集者として会社と一体化していた私と会社との間に小さな溝ができ、それが大きな 亀裂に変わってきたころ、思い切って、大学教員に仕事替え ができないものかと夢想し始めました。大学という世界に詳 しくなかった私は、自分の赫奕たる経歴があれば、専任で 雇ってくれる大学があるはずだと思い込んだのです。それ は、大きな間違いだったのですが、最初、清水先生には、大 胆にも「専任教員」にしてほしいと申し出たため、あとあと の宴会の席で、その件で何度もからかわれたものでした。
 
非常勤講師になりたてのころの楽しい思い出はすでにどこ かに書いたような気がします。池袋なのになぜか「嵯峨」と いう京都じみた店名の飲み屋で月に一回とか二回とか「清水 組」の皆さんとお酒を飲んだ日々は忘れがたいものがありま す。池袋の地理に詳しくない私がこの店の場所を説明することは難しいのですが、確か西口公園の近くだったと思うので す。ビルの二階にあって、入り口は分かりにくく、ところが 店内に入ると、だだっ広い空間が広がっていて、カウンター 席も並んでいるのですが、基本は寝っ転がれるほど余裕のあ る座敷席でした。それは、これまで出版界でさんざん飲んで きたときとは、まったく違う感触の宴会でした。従業員に は、なぜかミャンマー人の女性たちがたくさん働いていまし た。店名は京都なのに、従業員はミャンマー人で、客は我々 関東人なんですよね。
 
いまや堂々たる教授の山下聖美先生も当時はまだ助手で清 水宴会の常勤幹事という役どころ、欠席ということは一度も なかったはずです。ほかに常連は清水先生の先輩に当たる此 経先生や評論家の山崎行太郎さん、韓国からの大学院留学生 だったパク・ヨオオクさん、副手の阿久澤君、川島さん、院 生の牛田さん、栗原君、さらには非常勤の先生方でした。
 
あのころ、この「嵯峨」での定期的な宴会ばかりではな く、他にも飲み会が何度もあったことを思い出します。清水 組の面々総動員、かなりの大人数で、新大久保の豚料理の店 に向かったこともありました。近年は江古田の線路際の「同 心房」という中華屋が会合場所として固定していますが、一 時期拠点だった椎名町も含めて、私が参加した宴会は数えき れないほどあったと思います。
 
清水先生は決して酒に飲まれる方ではないのですが、宴席では、「さあ、これからが本番だぞ」と議論をふっかけてこ られるのが常でした。
 
この世界のすべての作家がいかにドストエフスキーの影響下 で成長したか、作家としての核を持つことができたか、だいた いのところ、そこに議論が集約していくのでした。古今東西、 あらゆる作家、例外なしです。しかし、中央公論社のチェーホ フ全集を宝モノにしていた私には、ドストエフスキーは重要 な存在ではなかったので、たいへん申し訳ないことながら、 清水先生の主張はいささか強引としか思えなかったのです。
 
ただ、私にもかろうじてドストエフスキー体験といったも のがないわけではありません。
 
早稲田を出てからすぐに新潮社に入社して、小説雑誌の編 集部に投げ込まれました。当時の文壇は、「読む」より「飲 む」の時代、編集者は小説を読み込むよりも、酒に浸ること に熱心でした。他社の先輩編集者からの薫陶も得て、ずくず くと酒に飲まれていく生活に染まっていった私ですが、もち ろん嫌々飲んでいたわけではありません。他人や時代のせい にはできないのはもちろんです。酒に私が求めていた一番大 きな効用は「酩酊感」の追求であったと思います。
 
主たる飲み場所は新宿でした。新宿ゴールデン街の主など と呼ばれていた田中小実昌さんと滝田ゆうさんを担当してい たのですから、梯子酒は、これ当たり前。何軒かの酒場を放 浪するうちに、酩酊は深まり、のちにはかなり酒癖の悪い酒飲み、つまり「酒乱」の域に近づいていたようですが、当人 はそんなこととは知りません。とにかく、早く酩酊したい一 心なのですから。酩酊を深め、たとえばあるスナックのス ツールから立ち上がって、突然演説したいような気分になり ます。そんな風に迸り出てくる感情を乗せて演説したいなど と思うとき、必ず浮かんでくるイメージがドストエフスキー の『罪と罰』に登場するソーニャの父親マルメラードフだっ たのです。多分、ドストエフスキーの小説で一番気に入って いたのは、あの情けない酔っ払いの三流官吏マルメラードフ だったのでしょう。
 
私の読んだドストエフスキーの小説は『罪と罰』と『白 痴』の二作だけです。『悪霊』も『カラマーゾフ』も読んで いません。多分、これからも読むことはないと思います。こ れはもう読むべき時期を逃したということに尽きるでしょう ね。さらに述べると、こちらがメインの理由かもしれません が、やはり「私の趣味ではない」ということになるでしょう。 振り返ってみると二作目を『白痴』ではなく、『悪霊』とか 他の作品にしていれば、もう何作かは読んでいて、評価も変 わったのかもしれません。なぜなら、『罪と罰』については、 いまでも登場人物の何人かは覚えているほど、入れ込んで読 んだのですから、決してこの大作家の他の作品を読めなかっ たということはなかったはずなのです。 『白痴』は、中学の同級生で、クラシック友達でもあった
東京外語大ロシア語科の長谷川君から、強く薦められて読ん だのです。「ムイシュキン、ナスターシャ」の名前を感に堪 えたように発音していた彼の陶酔の様が強烈だったので、私 はその情熱に引きずられて読んだのです。ですが、「イッポ リートの告白」という章で、完全にアウトを喰らってしまい ました。あのくだくだしい語りには耐えられなかったので す。それでも最後まで読むことは義務と感じて、読み終えて はいます。その後、決してドストエフスキーの本は手に取ら なくなっただけというわけです。
 
清水先生はこれまで何冊の書籍を上梓されたのでしょう か。そもそも、先生のご著書は何百ページもある大部なもの が多いです。一冊出来上がると、「はい」といつも手渡しで下 さる。江古田から、決して近い距離に自宅があるわけではな い私にとって、判型の大きな単行本を持ち帰るのは、「エッコ ラサ」という労働であったので、正直有難いような、迷惑な ような……いや、大恩ある先生にそんなことを言ってはいけ ません。もちろん、ありがたいわけですが、ドストエフスキー 関連の本だとちょっと読みようがなかったのも事実です。
 
そうそう二つ目の理由(「恩その二」)ですが、この年間何 冊も著作を出されるということと密接に関連しているので す。本を出すためには、かなりの量の原稿を書かなくてはな りません。先生のように、一年に何冊も結果を出すために は、半徹夜で集中的に仕事をするか、毎日、休まず適量の文字を書きつけなくてはならないでしょう。
 
清水先生のやり方は、まず通勤の電車のなかで、膝の上に PCを置いて、自動小銃を連射するように、キーを叩き続け る。さらに、池袋に着いてからは、馴染みの喫茶店に入り、 また電車での続きを書くのだそうです。一日の文字量は、四 百字詰で十五枚が目安だったといいますから、字数にすると 六千字です。
 
この毎日の儀式は、強制された行為ではなく、自発的な義 務感だったのか、それとも指が勝手に動いたのかどうかは定 かではありませんが、私には一種の「自動書記」のように受 け取れました。というのは、清水先生にそのあたりのことを 尋ねたときに、「どんどん、次から次へと言葉が湧いてきて、 指が追い付かないほどだ」というのです。ドストエフスキー というより、まるでモーツァルトのようなトランス状態では ありませんか。
 
私は、当時、専任教員を目指していたと述べました。その ためには、著作を持つことも必須の要件だと考えていて、若 い編集者時代にとことんお付き合いをした滝田ゆう氏の評伝 をものしようと思い決めていたのですが、なかなか筆が進ま ずに、「また今日も書けなかったな」と反省ばかりの日々だっ たのです。こういうときに、清水先生の仕事ぶりは、天から 落ちてきた最高の啓示でした。熟考するまえに書いてしま え、というのが清水先生式の方法です。あれこれ、設計した
り、文章、構成に悩んだりするまえにとにかく思いついたま ま書くこと、量を書くこと。清水先生の考えとは違うかもし れませんが、私の理解では内容はどうあれ、とにかく書いて しまえ、ということでした。頭よりも手、見るまえに跳べ。
 
私の面前を覆っていた垂れ幕が、さっと引き払われた瞬間 でした。そうすればいいんだ!   私は一種感動に打たれてい たのです。
 
感動して終りであれば、私の本は完成していなかったで しょう。それから一年後でしょうか、私の処女作『ぬけられ ますか 私漫画滝田ゆう』は完成し、その後、大衆文学研 究賞も受賞することができました。授賞式にご来駕いただい た清水先生には、清水式の執筆姿勢を学んだおかげで、この ような晴れの日を迎えることができました、と深くお礼を申 し上げたのです。
 
その後も清水先生の教えを守って数冊の書籍を出すことが できたのですが、京都に単身赴任し、京都造形芸術大学に勤 めるようになって、執筆に関しては、いささか怠け癖が戻っ てきてしまいました。今期で京都を去ることですし、ここら でまた清水先生から一喝していただき、あと十年は執筆に励 みたいと思うのです。
 清水先生、これからもご指導よろしくお願いします。
(めんじょう・つよし 京都造形芸術大学文芸表現学科教授)