つげ義春論 山下洪文

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ドラえもん』の凄さがわかります。
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今年の日芸図書館企画の一つに『日本のマンガ家 つげ義春がある。五月末を締め切りに友人・知人・学生に原稿を依頼している。統一テーマとして「つげ義春の頃」を考えている。今から四十年前、つげ義春は当時の学生や詩人、批評家などによって熱狂的に読まれた。今、私は日芸所沢校舎の「マンガ論」で毎年つげ義春の作品「チーコ」を取り上げている。百人、受講生がいればつげ義春を知っている者は二、三名ほどである。その意味でつげ義春は一部の熱狂的なファンを除けば時代から消え去ったマンガ家と言えるかもしれない。しかし、毎年、「マンガ論」の授業でつげ義春を取り上げていて思うことは、つげ義春のマンガは時代を越えて読みつがれていくものだということである。
山下洪文くんはわたしのゼミに所属し、卒論は日本の近代詩人をとりあげることになっているが、先日、池袋の二軒目の居酒屋で「ガロ時代のつげ義春の作品を取り上げて何か書け」と命令しておいたら、さっそくメールで送ってきたので、カタログ掲載前に特別に紹介しておくことにする。彼には「ゲンセンカン主人」についても書くようにメイレイしてあるので、そのうちまた紹介できることでしょう。


池袋の居酒屋で詩人の山下洪文と。

   生まれる以前への郷愁                            
山下 洪文

 母体に、生まれる以前の私たちが漂っていたように、海には、人間精神が成立する以前の混沌が波うっていると、象徴的に言うことができるだろう。
 つげ義春は、編集者だった高野慎三に、こう尋ねている。
「抽象的なマンガを描いてはいけないですかね」
埴谷雄高さんの『虚空』だかに非現実的な場面が出てくるんですね。そんなシーンをマンガで表現してはいけないんですかね」
『虚空』において埴谷雄高は、「私自身より私を生んだ条件自体にかたよつた関心をもつている」と告白している。私はこの一文から、『ねじ式』の世界の、はじまりから終わりまでをかこんだ〈海〉を、ただちに想起する。『ねじ式』の海は、人間を「生んだ条件」、少年の精神をなりたたせている原風景としての意味を負うているのだ。
 さて、海から陸へあがったとき、人類の祖先は〈人間〉へと進化する一歩を踏み出したのだという。それならば、「メメクラゲ」に噛まれた腕をおさえ、渚から村へとさまよい歩く少年は、何になろうとしているのだろうか? また、もし彼が何かになろうとしているのだとしたら、この彼は何ものなのだろうか?
 少年は、少年を「生んだ条件」からゆっくりと遠ざかってゆくように、村をさまよう。隣村へはいけない。やがて治療をうけることのできた彼は、ふたたび海へと還ってゆく。これはひとつの隠喩のようだ。私たちは、私たちをそうあらしめた条件、すなわち時代や歴史といった背景から、逃れることはできない。すぐれたモダニストシュールレアリストも、やがては「日本」なるものへと還ってゆく。たったひとつ、歴史から完全に自由な存在がある。が、それはまたあとでふれることにしたい。いまはまず、『ねじ式』の物語をサンドイッチする、二つの海のシーンに、もうすこし深く踏みいってみよう。
 海からあらわれて海に還る、主人公のすがたから、母胎回帰といったユング的モチーフを探り出すのは、安直にすぎる。『ねじ式』を、ただひとりの少年の「世界との和解」(早野泰造)といったストーリーとして読み解くことは、私にはできない。海辺の光景からはじまる夢の世界に、ちりばめられたオブジェを精査していったとき、そこに思いがけないほど大きな、時代の輪郭がうきあがってくるのを感じたからだ。
ねじ式』は、戦闘機のようにも見えるヒコーキが、上空を飛んでいる海からはじまって、モーターボートの疾駆する真昼時の海で閉じられる。
 批評家の清水正は、一頁目の情景について、「この少年は飛行機から弾丸を左腕に撃たれたようにも見える」としているが、この飛行機が「メメクラゲ」の正体なのではないか、という考察を展開するだけで、すませてしまっている。
 少年は、戦闘機の影を背負ってあらわれ、傷をねじで留め、モーターボートで海を駆けるのである。私はここに、日本敗戦後の、軍国主義から戦後民主主義への移行と、それにまつわる精神的外傷のシンボライズを見出さないわけにいかない。
 戦敗国のトラウマは深い。戦後ドイツが東西に分断した理由について、かつて深く愛したヒトラーを、こんどは罵倒しなければならなくなった、その自己矛盾のあらわれではないかとする説がある。つまり国家そのものが分裂病になった、ということだ。
 日本もまた、物質的充足の裏で、精神の衰滅過程をゆるやかにたどっていった、といってよいだろう。我が国は、江藤淳なども言っているように、本当の意味で滅亡するということはなかった。かといって、かつての栄光を取り戻すこともできなかった。宙ぶらりんのまま、高度成長をむかえ、経済的には戦前をはるかに上回る規模の繁栄を手にいれた。精神的中心の問題――天皇復権も、打倒もないまま、国家という枠組みだけが復活したのである。心の傷は癒されないまま、機械文明が生活を覆った。ねじ式=生体の機械化というひとコマは、こうした事態をさしているように思える。
 日本の精神的危機が投影された村を、癒しを求めてさまよう少年。彼は様々なオブジェを目にする。日の丸、軍艦、乱立する「眼科」の看板、「生まれる以前のおッ母さん」……
 これらも、戦後あらわれた様々な、精神的風俗模様として解釈することができる。軍国主義を想起させる軍艦や日の丸などは、『ねじ式』の書かれる七年前に発覚した、右翼クーデター未遂「三無事件」に代表される、暴力的な復古主義を象徴しているかのようだ。
「眼科」とは何か。〈眼〉は、〈現実〉との窓口である。それが病んでいるということは、現実認識の過誤をさしているのだろう。この奇妙な光景は、林房雄の「大東亜戦争肯定論」のような、「じつは正しかった」式の「見直し史観」を寓意している、とは言えないだろうか。現実を認めず、しかし変革しようともせず、己の主観を変えることのみで満足する、精神的自慰へのアイロニーとして、私は読み説いた。
ねじ式』の風景に配置された不可思議なオブジェが、戦後精神の混沌の産物だったとすれば、「生まれる以前のおッ母さん」と呼ばれた老婆は、どのような意味をもつのだろうか。誰の生まれる前なのか。少年のか。日本のか。
 少年と老婆の会話は、次のようになっている。


  もしかしたらあなたはぼくのおッ母さんではないですか ねッじつはそうなんでしょう 僕が生まれる以前のおッ母さんなのでしょう

  これには深ーいわけがあるのです…………シクッシクシクシク

  どんなわけです教えてください

  それには金太郎アメの製法を説明しなければならないのです けれどそれはできない相談です

  なるほどそれではききますまい


 このふしぎな会話について、清水正は「金太郎アメの製法」とは「母子相姦」をさすのではないか、という解釈をほどこしている。おなじような顔が何処までもつづいていく〈金太郎アメ〉。そこには〈他者〉がない。〈外部〉がない。私たちは確かに、あの懐かしいお菓子から「近親相姦」を暗示されているのかもしれない。
 考えてみれば、金太郎アメというのは、ふしぎなお菓子である。それは近代的な〈時間〉の観念をあざ笑っているかのようだ。〈はじまり〉と〈終わり〉がない。〈生〉と〈死〉がない。何処を切り取っても、おなじ顔があらわれる。そこには歴史がないのである。
 ここで、万世一系という観念を想起するのは突飛に過ぎるだろうか。中上健次は以下のように述べている。

  天皇の歴史は(略)いま僕らが見ている歴史と全然違う歴史だと思いますよ。万世一系のほうに立ってみると、つまり歴史がぜんぶ否定できる。だから、この間の戦争と言うと例えば壬申の乱だとかさ、それぐらいにパッと行っちゃうとかね。(『20時間完全討論 解体される場所』)

 万世一系というのは、ひとつの系統が、永久につづくことを意味する。永久という相の下にながめる歴史ほど、つまらないものもなかろう。そこでは一切が等価である。血が流れ、人が死んだといった事実までもが、「永久」の流れのなかで意味を奪われてしまう。壬申の乱も、第二次世界大戦も、さしたる変わりがない。悠久の時のなかでは、一瞬前のことも千年前のこともおなじようなものなのだから――中上の言わんとするところを、私なりに敷衍すると、このようになる。
 何処を切り取ってもおなじ。変わりがない。この精神のあり方は、驚くほど「金太郎アメ」に似ている。私が最初、〈唯一歴史から自由な存在〉としてふれようとしたのは、このことだった。〈万世一系〉のフィクションのなかで生きる天皇だけが、歴史から解放されている。彼だけが、かぎられた時間のなかで己の意味を探るといった試みから、完全に自由なのだ。そのかわり、金太郎アメのような無限の均質性のなかに閉じこめられている。
 老婆の泪は、まさにこのことのために――「万世一系」の神話のなかに鎖され、まっとうな時間の流れから疎外された、天皇のために流されたのではないだろうか。金太郎アメの製法が言えないのは当然のことだ。それが知られてしまうと、金太郎アメが何処で、いつ作られたかも特定されてしまう。そうなれば、「万世一系」――過去にも未来にも無限にありつづける天皇、という仮構が崩れてしまう。天皇陵への研究者の立ち入りが制限されているのも、そのあたりに原因があろう。「金太郎アメ」だけがあればよいのだ。製法や、製造時期は特定されてはならない。
「隠された起源」のために老婆は泣いた。それは、日本そのものの誕生にまつわる秘儀――すなわち、イザナギイザナミの最初のまじわり、ひいては初期の天皇家における近親婚の歴史をも、暗に示していたのではないだろうか。
 それでは、老婆――「生まれる以前のおッ母さん」は、いったい誰なのか。私には彼女が、〈大和朝廷以前の文化〉を象徴しているように思える。
 たとえば、『ねじ式』発表の数年後に「発見」され、波紋を呼んだ「東日流外三郡誌」という史書には、記紀の記述にない「津軽王朝」の興亡が記されている。大和に征服されるより前、津軽には原始社会主義的なユートピア社会があった、という。言うまでもなく偽書であるが、記紀に記されることのなかった歴史というフィクションが、熱烈に受け入れられたことは、日本人の心性を考えるうえで、深い意味あいをもつだろう。
 それは、かつて天皇という唯一の起源によってうけとめられてきた、日本人のノスタルジアが、もはや手にあまるほど膨れあがった、ということではないか。「日本的なるもの」への郷愁は、ついには天皇制が成立する以前の「日本」へとむかうようになる。「生まれる以前のおッ母さん」というのは、それをさしている。が、それは偽史だった。もしあったとしても、その精神的痕跡は何処にも見出せはしない。じつは存在しない、したがって何ものも生み出すことのできなかった文明=老婆は、少年のノスタルジーをうけとめることができない。ただ、〈金太郎アメ〉の「秘密」の一端を明かす。


  その秘密はきっとこの桃太郎のデザインにあるのでしょう

  そのとおりです桃太郎ではあってもじつは金太郎なのです


 いままでの読みの流れに沿うて言うなら、これは金太郎(天皇)が、じつは正系でないことを暗示しているのだろう。現在の天皇家の正統を疑う説は、珍しいものではない。『ねじ式』の書かれる二年前に亡くなった熊沢寛道なども、応仁の乱で滅ぼされたはずの、南朝天皇の末裔を自称し、昭和天皇のゆく先々で「偽物」を弾劾する演説を行った。「万世一系」の主張自体も、戦後、羽仁五郎の研究などによって疑問を呈されている。
 ここでそれらの是非を問うことはしない。『ねじ式』の世界を解きあかすうえで、歴史的事実の真偽は重要でないからだ。問題は、『ねじ式』の迷宮をさまようつげ義春が、「生まれる以前」への郷愁にとり憑かれていること、そして、その郷愁をうけいれてくれる場所は、おそらく何処にもないことである。
ねじ式』の主人公は、戦後の繁栄を象徴するかのような、モーターボートに乗って海を駆ける。本当の手術のかわりに「お医者さんごっこ」をし、腕にねじを取り付けて。これは精神の渇望にたいして、物質をあてがうことしかできなかった戦後史の不毛をあらわしている。
 とまれ、少年は自由である。はるか背後に、陸はかすんでいる。とにもかくにも、さまざまな精神の亡霊の闊歩する村から、逃走することに成功はしたのだった。
 さて、ひとつの問いが残る。つげ義春は、この少年のように「救われた」ろうか? 答えは否だ。なぜなら、もしつげが時代にたいし、この少年とおなじ解を選んだのだとしたら、つげの作品群はいまとまったく違ったものになったはずだから。少年が海上を疾走するように、つげは「流行」の波にうまく乗り、つまらないマンガを描きまくったに相違ないのだ。だが、そうはならなかった。『ねじ式』の残滓ともいうべき「夢」の作品群や、旅漫画などがちいさく積み重ねられ、やがてつげは筆をとらなくなった。
 これはなにを意味するのか。精神科医福島章は、つげの創作について、『ねじ式』『ゲンセンカン主人』が書かれたあとは、自己模倣の時期にはいり、やがて弛緩・虚脱に陥った、と指摘する。まるで、己の紡ぎだす夢の糸にからめとられたかのように、つげの精神は自由を失ってしまったのだろうか。昭和の終わり頃に書かれた、私小説風漫画「別離」以降、彼は創造の場から遠ざかっている。
 つげは少年を『ねじ式』の外部に解き放ったかわりに、自らは作品のなかに閉じこめられたのではないか。それが彼の、長い創作的沈黙の意味ではないか。つげ義春は『ねじ式』のなかで、生まれる以前への郷愁の正体を、未だに捜しているのだ。 (了)