清水正  情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載6)

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情念で綴る「江古田文学」クロニクル(連載6)

──または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様──

 清水正

 21号(平成3年11月)は清水正企画による特集「宮沢賢治」第二弾である。

 編集後記を引用する。

 《■本号は十八号に続く宮沢賢治特集第二弾である。総理大臣は宮沢喜一、女優は宮沢りえ、文学者は宮沢賢治と、今や各界で宮沢旋風が吹き荒れている。今年十月末現在で宮沢賢治に関する研究・評論の著作は復刊本を含めすでに十余冊を数え、賢治の出身地・岩手県花巻市にある宮沢賢治学会イーハトーブセンターは「宮沢賢治賞」と「イーハトーブ賞」を創立した。ちなみに賢治学会員は二千名、平成二年度の宮沢賢治記念館の入館者数は二十四万人を越えたというから、宮沢賢治人気はいっこうに衰える気配をみせない。何か異様な感じさえおぼえる程である。

■本特集は日本大学芸術学部の学生諸君のレポートを主体にして編むことになった。中村文昭氏の教室(「文芸研究」・「文芸特殊研究Ⅰ」)からは『よだかの星』と『小岩井農場』に関して、わたしの教室(「雑誌研究」)からは『注文のおい料理店』と『銀河鉄道の夜』に関する学生諸君のレポートをできうる限り多く取り上げることにした。従って本特集は〈学生の読む宮沢賢治〉を浮き彫りにしたことは当然ながら、同時に大学における文学教育の一現場報告にもなっていよう。テキストをどのように読み込んでいくか、ほんの少しその手ほどきを与えるだけで学生のテキスト解読は飛躍的に深まる。教師と学生が〈作品〉を対象にして対話的な関係を取り結んでいけば、やがて教室は創造的な場へと変容してゆく。教室が〈作品〉と化すほど創造的に高まることはきわめて稀であろうが、しかし少なくともそれを目指しているのでなければ〈教育〉はたちまち空しいものと化してしまう。》

 《■本号の表紙絵は中谷貞彦画伯の快諾を得て「樹影」シリーズのなかから選ばせていただいた。去る七月十八日、日本橋高島屋六階美術画廊で小山敬三美術賞記念・中谷貞彦展が開催され、中谷画伯の代表作品をまとめて見る好機に恵まれた。展示された四十余点の作品の中で、特にわたしの目をひいたのは「樹影」Ⅲ、Ⅳ、「樹間」であり――「苑」Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、「庭」Ⅱ、「樹影」Ⅱなどの作品であった。

■ここにあげた作品に共通しているのは描かれた対象が〈樹木〉であることである。後者の作品群の画調は明るく色鮮やかで筆使いは奔放であり、一見するとこれらの絵を見る者の心を開かせ華やかにさせてくれるように見える。しかしこれらの絵にはキャンバスいっぱいに癒すことのできない深い哀しみがみなぎっている。感傷に堕することなく、哀しみと孤独を華やかに歌いあげるということは並みたいていの技ではない。形がこわれるほどに色が飛び、踊り、それでいて微動だにしない形がある。この華やかで、深い孤独な哀しみの“自然”の中にはもはや人が存在することはできない。逆に言えば“人”が樹木となり、花となり、精霊となって、画伯の眼前で舞い踊っているのである。

■前者の作品群は、後者が動であるとすれば静である。異様なほど、不気味なほど静かである。この静は動の限りを尽くしたはての静であり、目にも止まらぬ早さで風が吹いている。この“風”は怒りであり、嘆きであり、そして今や祈りとなった哀しみである。画伯は樹木を描き、樹間を描くことで、自己の心象風景を描ききろうとしているかのようだ。画伯が「樹影」に描いた風景はこの世にはない、あの世にもない。画伯はこの世とあの世の、目に見えぬ“はざま”をこそ凝視している。》

 《■わたしは「樹影」Ⅳの“光景”に見入りながら、『銀河鉄道の夜』の一場面を想い出していた。《「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジョパンニが斯う云ひながらふりかへって見ましたらそのいままでカムパネルラの座ってゐた席にもうカムパネルラの形は見えずたゞ黒いびろうどばかりひかってゐました。ジョバンニはまるで鉄砲玉のやうに立ちあがりました。そして誰にも聞えないやうに窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったやうに思ひました。》――どこまでもどこまでも一緒に行こうとしていたカムパネルラが突然消えてしまった後の「黒いびろうど」を見詰め続けていると、そこに「樹影」Ⅳの異様に静かな光景が開けてくるのである。わたしは「樹影」Ⅳの光景の中に〈カムパネルラ〉を探して、しばし時を忘れていた。

■華やかで悲しく、深く静かで烈しく、孤独で格調高く気品がある、そんな中谷画伯の絵の一点、一点と対話を交わしながら、わたしは密かに宮沢賢治特集の「江古田文学」の表紙に使わせていただけないだろうかと考えていた。お話申し上げたところ実に快く承諾してくださった。ここに記して厚くお礼申し上げる次第である。》

 

 22号(平成4年8月)は清水正企画で漫画家「つげ義春 “現在”に読み継がれるつげ漫画」を特集した。

まずは今回も〈あとがき〉の引用から始めよう。

 《本号は特異な漫画家つげ義春を特集した。つげ義春ほど批評欲をそそる漫画家はいない。『ねじ式』や『ゲンセンカン主人』などによって漫画を“芸術”にまで高めたつげ義春は、同時にその“芸術”から失墜し続ける作家でもある。いずれにせよ、つげ義春は彼の作品に触れた者をいつの間にか“愛好家”にしてしまう妙な魔力を持っている。本号では、このつげ義春を極力、“愛好家”の次元ではない地点からとらえ返そうとした。論考の大半は二十歳前後の若いひとたちのものなので、つげ義春の“現在”はそれなりに浮彫りにされたのではないかと考えている。》

 近藤承神子は本誌掲載の「つげ義春さんと私」で「マンガ評論も盛んになり、つげのつの字のつく作品論を片端から読んだが、どれも深刻で、楽しさ、面白さを語ったところが無く不満である。どの論も作品の面白さを伝えていない。何度も読み返すに足るつげ作品の面白さを伝えるには、ただ「読んでくれ、読んでくれ」といって、本を一冊手渡してみる以外に無いのではないか。従って我が家では私の弟妹も女房も、私の友人たちもつげフアンである」と書いている。

  わたしも近藤承神子から黙って青林堂刊『つげ義春作品集』をプレゼントされた一人である。たちまちつげ漫画の魅力にはまったが、まさに〈フアン〉になったのであって、つげ漫画を批評の対象にしようなどとは夢にも思わなかった。ただ『ゲンセンカン主人』には批評衝動をかられたが、しかしその衝動はドストエフスキーの第二作『分身』論を書き続ける内に自然消失した。その後わたしはつげ義春の代表的な漫画のすべてを批評することになるが、本誌刊行の時点では、若い学生たちがつげ漫画をどのように読むのか、という点に最大の興味があった。 「雑誌研究」の授業でつげ義春をとりあげ、受講生にレポートを提出してもらったが、選抜にあたっては小柳安夫に協力を仰いだ。本誌掲載の小柳の評論「働きのない夫と働きに出る妻――『チーコ』から『無能の人』へ」は秀逸な本格的なつげ義春論である。小柳には是非ともつげ義春論を一冊の本に纏めてほしいと切願する。

 学生たちのつげ義春論もみなそれぞれにユニークで面白いが、放送学科卒業後、『ガンジス河でバタフライ』でエッセイストとしてデビューした高野照子が「つげ義春について」を書いているのも懐かしい。ふだん黙っていると間寛平のような顔が、笑顔になると突如〈天照大御神〉のごとき輝きを発していた、不思議な魅力を持った学生であった。ちなみに彼女とわたしは誕生日が同じ2月7日である。

 

 評論は中村文昭「カラマーゾフの沈黙(連載2)」、清水正宮沢賢治を解く――『オツベルと象』の謎――」、生方智子「リアリティ表現の可能性――夏目漱石・小説への試み――」、高橋和美「処女解体――処女論の試み――」など。

 創作は志田泉「五百番目の人」、堤玲子「故郷」。  文芸学科の女子学生でひときわ美人で感性がよく、作品にも突出した才能を感じさせるひとが何人かいた。在学中にハッとするような作品を一篇だけ書き残し、以後ペンを絶って文学とは違った世界へと飛翔するタイプである。志田泉もその一人であったのだろうか。卒業後、彼女が創作活動を続けているという噂は微風にも乗ってこない。

 

 堤玲子は自伝的小説『わが闘争』(1967年 三一書房)で一躍有名になった詩人である。わたしは二十代半ばに堤玲子と知り合った。呼ばれて池袋のホテルのロビーで会ったことがある。一緒に友川かずきのコンサートに行ったこともある(埼玉県議会議員小沢遼子もいたが)。堤は〈美少年好み〉を公言していたが、わたしは彼女にもとめられることもなく、純粋に文学上のつきあいを貫いた。「江古田文学」編集長になってからは毎回原稿を依頼した。「故郷」の最初の何節かを紹介しておこう。

 

  故里は女郎

  モスリン長襦袢まくりあげ、おしろいとんぼの口をして、通り過ぎる人殺しや、主、いえすに、

  「ちょっと、ちょっと、そこのお兄さん、おあがりよ。たまには泣いておゆき」   他人との別れは、快便人の脱糞より軽い。

  別れようとて、別れられぬは肉親で、肉親を叩き斬らねば、芸術家は、グニャチンよ。

  私は、美しい白痴の叔母秋野を、芸術家魂の、三度笠かむり、原稿料の為、何回も賣った。又も賣る。

  故里の、秋瀬駅から、私の家に帰る迄に、強姦絶好道と名のつく、人家のない、寂みしい道があり、

  私、二十一の時、二十七の、美しき文学青年に、強姦して頂いた。

  私の、文学の小道である。